第29話 あと何回
その日は、朝から空気が少し重かった。
雨が降りそうなわけではない。
でも、雲が低く広がっていて、光がどこか鈍い。
窓の外の景色が、薄い膜を一枚かぶったみたいに見えた。
家を出てすぐ、私は足を止めた。
見なくてもいいのに、先に空を見上げてしまう。
星野くんの星は、まだそこにあった。
でも、もうはっきり分かるくらい小さい。
胸の奥が、ひやりと冷える。
位置は変わらない。
光も消えてはいない。
それでも、少しずつ遠ざかっていくみたいに小さくなっている。
私は視線を落として、歩き出した。
考えても分からない。
分からないのに、見てしまう。
見てしまうたびに、何かが削れていく気がした。
大学に着いて教室へ入ると、今日は星野くんがまだ来ていなかった。
私は席に座って、鞄からノートを出す。
少しだけ落ち着かない。
昨日、「また明日」と言われたことを思い出す。
ちゃんと明日って言った。
それだけで安心したはずなのに、今日はその安心がうまく続かなかった。
教室の後ろのドアが開く音がして、私は思わず振り向いた。
星野くんが入ってくる。
その姿を見た瞬間、胸の奥が少しだけほどけた。
「おはよ」
いつも通りの声。
「……おはよう」
「何、その顔」
「別に」
「別にじゃないでしょ」
「普通」
「普通って言うとき、だいたい普通じゃない」
「それ好きだね」
「分かりやすいから」
「分かりやすくない」
「今日は分かりやすい」
「……うるさい」
「はいはい」
笑いながら後ろの席に座る気配がする。
私は前を向いたまま、小さく息を吐いた。
来た。
ちゃんと来た。
それだけで安心してしまう自分が、少しだけこわい。
講義が始まる前、私は何となく窓の外を見た。
曇った空の向こうに、かすかに星が見える。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
小さい。
昨日より、また少し。
私はすぐに視線を戻した。
見なかったことにはできないのに、見続けるのもこわかった。
「相沢さん」
後ろから小さな声がする。
「……何」
「今日ほんと静か」
「普通」
「それ、もう信用ない」
「ひどい」
「でも元気ないのはほんとでしょ」
「……少しだけ」
「何かあった?」
「何もない」
「そっか」
それ以上は聞いてこない。
そのことに少しだけ救われる。
でも、もしもう少し聞かれたら、何かこぼれてしまいそうな気もした。
一限の途中、私はふと窓の方を見た。
曇ったガラスに、教室の中がぼんやり映っている。
前の席の背中、白い壁、先生の動く影。
その中に、自分の姿も薄く混ざっていた。
そのとき、頭の上に小さな光が見えた。
一瞬、外の反射かと思った。
でも、その光は消えない。
私は少しだけ姿勢を動かす。
ガラスの中の自分も、わずかに揺れる。
それでも、頭の上の光は同じ位置にあった。
心臓が強く跳ねる。
私はもう一度、そっと窓を見る。
ガラスに映った自分の頭上。
そこに、淡い星が浮かんでいた。
息が止まりそうになる。
見間違いじゃない。
反射でもない。
私にも、星が出ている。
先生の声が遠くなる。
周りのページをめくる音も、椅子のきしむ音も、全部遠い。
自分の鼓動だけがやけに大きい。
「相沢さん?」
後ろから小さく呼ばれて、私は肩を揺らした。
「……何」
「大丈夫?」
「え」
「顔色悪い」
「……大丈夫」
「ほんとに?」
「うん」
うん、と言った声が少しだけかすれた。
自分でも分かるくらい不自然だった。
講義が終わると同時に、私はすぐ席を立った。
教室の外へ出て、人の少ない廊下の端まで歩く。
窓ガラスに、自分の姿が薄く映る。
私はおそるおそる顔を上げた。
やっぱり、あった。
頭の上に、小さな星。
星野くんに見えていたものと同じ。
でも、今の私の星はまだ小さい。
最初から小さいのか、それともこれが普通なのかも分からない。
胸の奥が冷たくなる。
私にも出た。
それはつまり、私にも何かが起きるということなんだろうか。
「相沢さん」
後ろから声がして、私は慌ててガラスから目をそらした。
振り向くと、星野くんが少し心配そうな顔をしていた。
「ほんとに大丈夫?」
「……大丈夫」
「全然そう見えない」
「ちょっと、ぼーっとしただけ」
「珍しいね」
「……そうかも」
「保健室行く?」
「行かない」
「無理しないでよ」
「してない」
「してる顔」
「顔で分かるの」
「少しだけ」
「……便利だね」
「でしょ」
いつものやり取りのはずなのに、今日はうまく笑えなかった。
星野くんは少しだけ黙って、それから言った。
「次、出られそう?」
「……うん」
「ほんとに無理なら言って」
「うん」
その“うん”の中に、言えないことが増えすぎていた。
二限のあいだ、私はほとんど内容が頭に入らなかった。
自分の頭の上にある小さな星が、ずっと意識の端にある。
見えなくても、そこにあると分かる。
それだけで落ち着かない。
休み時間、私はトイレの鏡の前に立った。
少しだけ顔を上げる。
鏡の中の自分の頭上に、淡い星が浮かんでいた。
小さい。
でも、確かにある。
鏡の前でしばらく動けなかった。
見えてしまった以上、もう気のせいにはできない。
水で手を冷やして、深く息を吐く。
落ち着いて。
まだ何も分からない。
星が出たからといって、すぐに何かが起きると決まったわけじゃない。
そう思おうとしても、頭のどこかで別の声がする。
じゃあ、星野くんはどうだったの。
あの星は、何のために出ていたの。
昼休み、私は学食に行く気になれず、校舎裏のベンチに一人で座っていた。
人の声が少し遠い。
風が吹くたびに、木の葉が小さく揺れる。
「やっぱりここにいた」
顔を上げると、星野くんが立っていた。
片手にパンと飲み物を持っている。
「……何で」
「何でって、探した」
「探したの」
「うん。今日ほんと変だから」
「変じゃない」
「変だよ」
「……普通」
「それ、もう使えないって」
そう言って、星野くんは私の隣に座った。
少しだけ距離を空けて。
その距離が、今日は妙にやさしかった。
「食べないの」
「今はいい」
「そっか」
「……ごめん」
「何で謝るの」
「何となく」
「それもよく分かんない」
少しだけ笑う声。
でも今日は、その笑い方にも心配が混ざっている気がした。
「ほんとに何でもない?」
と星野くんが聞く。
私は返事ができなかった。
何でもなくない。
でも、何て言えばいいのか分からない。
私にも星が出た。
こわい。
あなたの星も小さくなっている。
それがもっとこわい。
そんなこと、言えるわけがない。
「……ちょっとだけ」
やっとそれだけ言う。
「何が」
「……こわい」
口に出した瞬間、自分でも少し驚いた。
星のことは言っていない。
でも、“こわい”だけは嘘じゃなかった。
星野くんは少しだけ黙って、それから静かに言った。
「そっか」
「……うん」
「じゃあ、今日は無理に元気じゃなくていいよ」
「え」
「何か分かんないけど、そういう日もあるでしょ」
「……」
「相沢さん、たぶんそういうの隠す方だし」
「隠してない」
「隠してる」
「……少しだけ」
「うん、少しだけね」
その言い方がやさしくて、胸の奥が少しだけ痛くなる。
言えない。
でも、隠しきれない。
そんな中途半端なところにいる自分を、そのまま許された気がした。
「午後、出る?」
と星野くんが聞く。
「……出る」
「じゃあ一緒に戻ろ」
「うん」
立ち上がるとき、少しだけ足元が頼りなかった。
でも隣に人がいるだけで、さっきより呼吸がしやすい。
校舎へ戻る途中、私は何となく空を見上げた。
曇り空の向こうに、星野くんの星が見える。
小さい。
そして、自分の頭の上にも、同じように星がある。
その瞬間、急に現実味が増した。
私にも出た。
同じものが出た。
それが何を意味するのか、まだ分からない。
でも、もう他人事ではいられない。
午後の講義が終わるころには、少しだけ疲れていた。
帰り道、駅までの途中で、星野くんが私の歩幅に合わせて歩いているのが分かる。
「今日は早く休んだ方がいいよ」
「……うん」
「帰ったらちゃんと何か食べて」
「子どもじゃない」
「でも今日の相沢さん、ちょっと危なっかしい」
「そんなことない」
「ある」
「……少しだけ」
「認めた」
「今日はたぶん無理」
「何が」
「ごまかすの」
「そっか」
その“そっか”が、やけに静かに残った。
駅で別れるとき、星野くんが少しだけ真面目な顔で言う。
「明日、もししんどかったら連絡して」
「……うん」
「無理して来なくていいから」
「うん」
「じゃあまた明日」
「……また明日」
また明日。
その言葉が、今日は昨日よりずっと重かった。
家に帰ると、私は部屋に入ってすぐ鏡の前に立った。
少しだけ顔を上げる。
星はまだそこにあった。
机に向かって、先に星のノートを開く。
今日、私にも星が出た。
頭の上。
小さい星。
最初は窓ガラスに映っているのを見つけた。
見間違いかと思ったけど、廊下のガラスでも、鏡でも見えた。
星野くんの星も、今日また小さく見えた。
同じものだと思う。
でも、まだ意味は分からない。
そこまで書いて、ペン先が止まる。
私にも出た。
その事実だけで、世界の見え方が少し変わってしまった気がする。
私は深く息を吐いて、もう一冊を開いた。
今日は、こわかった。
講義中、窓ガラスに映った自分の頭の上に星を見つけたとき、頭が真っ白になった。
昼休みに「こわい」とだけ言った。
本当はもっとたくさん言いたいことがあった。
でも言えなかった。
それでも、隣にいてくれて少しだけ安心した。
そこまで書いて、私はしばらく動けなかった。
自分にも星が出た。
それだけで、急に時間が限られたものみたいに思えてしまう。
明日も会えるはずなのに、その“明日”が急に当たり前じゃなくなった気がした。
私はページの下に、小さく書いた。
あと何回、こうして会えるんだろう。そんな風に思ってしまった。
書いたあと、その一文を見つめる。
こわかった。
でも、そう思ってしまったこと自体が、たぶん今の私の本音だった。
私はそっとノートを閉じて、両手で包むように持った。




