第28話 こわいのに
その日は、朝から少しだけ静かだった。
天気のせいかもしれない。
空一面に薄い雲が広がっていて、光がやわらかく街に落ちている。
いつもより音が遠く感じる朝だった。
駅までの道を歩きながら、私は何となく空を見上げた。
星野くんの星は、まだそこにあった。
でも、昨日よりまた少しだけ小さい。
もう見間違いとは思えなかった。
位置は変わらない。
でも大きさだけが、少しずつ変わっていく。
私は視線を下ろして、歩幅を少しだけ速めた。
考えても分からない。
分からないのに、見てしまう。
見てしまうたびに、胸の奥が冷たくなる。
大学に着いて教室へ入ると、今日は星野くんが先に来ていた。
後ろの席に座って、スマホを見ている。
その姿を見つけた瞬間、私は少しだけ安心した。
安心してから、自分が何に安心したのか考えて、また少しだけ苦しくなる。
「おはよう」
私から声をかけると、星野くんが顔を上げた。
「あ、おはよ」
「……早いね」
「今日はちょっと」
「珍しい」
「それ、ひどくない?」
「少しだけ」
「便利だなあ、それ」
「星野くんもよく使う」
「じゃあ俺のせいか」
「たぶん」
「そこは即答なんだ」
「今日はたぶん」
「何それ」
笑う声を聞いて、私は少しだけ肩の力を抜いた。
昨日までと同じ。
たぶん、今日も同じように過ぎていく。
そう思いたかった。
講義が始まる前、私はノートを出しながら何気なく後ろを振り返った。
星野くんと目が合う。
「何」
「……別に」
「今、何か言いたそうだった」
「言ってない」
「顔に出てた」
「出てない」
「少しだけ」
「真似しないで」
「便利だから」
「そればっかり」
「好きなんだよ」
「……何が」
「それ」
一瞬だけ、心臓が変な音を立てた。
たぶん、今の“好き”に深い意味はない。
分かっている。
分かっているのに、私はすぐに前を向いた。
「相沢さん?」
「……講義始まるよ」
「ごまかした」
「ごまかしてない」
「いや、ごまかした」
「うるさい」
「はいはい」
後ろで小さく笑う気配がする。
私はノートを開いたまま、しばらく文字が頭に入ってこなかった。
好きなんだよ。
ただの会話だ。
ただの流れだ。
そう思い直しても、胸の奥に落ちたものは簡単には消えなかった。
一限が終わったあと、私は席を立つタイミングを少しだけ迷った。
昨日のことがある。
今日もまた一緒に移動するのかな、と思ってしまう自分がいる。
すると、後ろで椅子を引く音がした。
「次、移動だよね」
「……うん」
「一緒でしょ」
「たぶん」
「便利だなあ」
「そっちが」
「じゃあおあいこ」
「それも好きだね」
「好きだよ」
「……」
「だから、それ」
また笑う。
わざとだと思う。
わざとじゃないのかもしれない。
どっちでも困る。
廊下を並んで歩く。
前よりずっと自然だ。
自然すぎて、たまに怖くなる。
このまま、ずっとこうならいいのにと思う。
でも同時に、ずっとこうではいられない気もする。
次の教室へ向かう途中、階段の踊り場の窓から空が見えた。
私は足を止めるほどではなく、でも一瞬だけ目を向ける。
星野くんの星。
小さい。
昨日より、たぶんまた少し。
「また見てる」
隣で星野くんが言う。
「見てない」
「いや、今のは見てた」
「……少しだけ」
「ほんと好きだね」
「星野くんも」
「じゃあおあいこ」
「それ便利だね」
「でしょ」
そんなふうに返しながら、私は胸の奥で小さく息をついた。
見ているのは空じゃない。
たぶん、終わりに近づいていくみたいなものを見てしまっている。
二限のあと、昼休みになった。
今日は学食が混んでいて、私たちはパンを買って中庭の端のベンチに座った。
木陰は少し涼しくて、遠くで誰かの笑い声がする。
「今日、なんか元気ない?」
と星野くんが言った。
「そう?」
「うん」
「普通」
「普通って言うとき、だいたい普通じゃない」
「それ好きだね」
「分かりやすいから」
「分かりやすくない」
「今日は分かりやすい」
「……何が」
「何か考えてる」
私はパンの袋を指先でいじりながら、少しだけ視線を落とした。
「考えてない」
「考えてる」
「星野くんがしつこい」
「それは否定しない」
「しないんだ」
「しない」
少しだけ笑う。
でも、たぶん笑えていない。
星野くんが缶コーヒーを開けながら、ふと私を見た。
「ほんとに何でもない?」
「……何でもない」
「そっか」
それ以上は聞いてこない。
そのやさしさに安心して、少しだけ苦しくなる。
言えたら楽なのかもしれない、と思う。
でも言えない。
星のことも、自分の気持ちのことも。
どっちも言葉にした瞬間、今のままではいられなくなる気がした。
昼休みの終わりが近づいて、私たちは立ち上がった。
ベンチから校舎へ戻る途中、星野くんが何気なく言う。
「相沢さんってさ」
「……何」
「最近、前よりよく笑うよね」
私は足を止めそうになった。
「え」
「いや、前はもっと静かだった気がする」
「……そうかな」
「うん。でも今の方が話しやすい」
「……」
「何」
「別に」
「またそれ」
「普通」
「それも違う」
「うるさい」
「はいはい」
でも、その“今の方が話しやすい”が、胸の奥にやさしく残った。
前より笑う。
今の方が話しやすい。
それはたぶん、私にとってうれしい言葉だった。
うれしいからこそ、こわい。
もしこの時間が終わるなら、こんなふうに言われたことまで、全部大事になってしまう。
午後の講義は、ほとんど頭に入らなかった。
ノートは取っているのに、意識の半分は別のところにある。
星のこと。
星野くんの言葉。
自分の気持ち。
どれも見ないふりが難しくなっている。
帰り道、駅までの途中で信号に引っかかった。
私たちは横に並んで立つ。
「今日、帰ったら何するの」
と星野くんが聞く。
「課題」
「やっぱり」
「何」
「相沢さんらしい」
「またそれ」
「だってそうじゃん」
「星野くんは」
「たぶん寝る」
「たぶん」
「便利だから」
「うつった」
「俺のせいだ」
「たぶん」
「そこは即答なんだ」
信号が青に変わる。
歩き出してから、私は少しだけ迷って、結局聞けなかった。
明日も会えるよね、みたいなこと。
そんなの当たり前なのに、どうしてか確認したくなった。
でも、そんなこと聞けるわけがない。
駅で別れるとき、星野くんが軽く手を上げた。
「じゃあまた明日」
「……うん。また明日」
その言葉に、少しだけ救われる。
明日。
ちゃんと明日って言った。
それだけで安心してしまう自分がいる。
家に帰って、私は机に向かった。
先に星のノートを開く。
星野くんの星、位置変化なし。
今日もまた少し小さく見えた。
変化は続いている。
見間違いではないと思う。
そこまで書いて、私はペンを止めた。
変化は続いている。
その事実を文字にすると、急に現実味が増す。
私は小さく息を吐いて、もう一冊を開いた。
今日は私からおはようと言えた。
それだけで少し安心した。
昼休みに、最近前よりよく笑うと言われた。
今の方が話しやすいとも言われた。
うれしかった。
うれしいと思うほど、こわかった。
そこまで書いて、しばらく手が止まる。
こわい。
何がこわいのか、ちゃんと書こうとすると難しい。
終わることがこわいのかもしれない。
変わることがこわいのかもしれない。
好きになってしまったことが、もう戻せないのがこわいのかもしれない。
でも、それでも。
私はページの下に、小さく書いた。
こわいのに、明日も会いたいと思った。
書いたあと、その一文を見つめる。
言えないままでも、隠しきれなくても、それでも会いたい。
たぶん、もう十分すぎるくらい、答えは出ていた。
私はそっとノートを閉じて、机の上に手を置いた。




