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第27話 言えないまま

 次の日の朝、目が覚めた瞬間に、私は昨日ノートに書いた一文を思い出した。


 今日は、もう隠しきれなかった。


 自分で書いたくせに、その言葉の重さに少しだけ息が詰まる。

 隠しきれなかった。

 つまり、もう隠しているつもりでも意味がないということだ。


 私は布団の中でしばらく天井を見ていた。

 昨日のことを思い返す。

 肩に触れた指先。

 「前からそう思ってる」と言われたこと。

 課題が終わっても、もう少しこのままでいたいと思ったこと。


 どれも小さなことだ。

 でも、小さいままでは済まなくなっている。


 大学へ向かう途中、私は何度も自分に言い聞かせた。

 別に何かが変わるわけじゃない。

 昨日、自分の中で認めたからといって、今日いきなり何かが起こるわけじゃない。

 今まで通りでいい。

 今まで通りに話して、今まで通りに過ごせばいい。


 そう思っているのに、教室のドアを開ける手が少しだけ重かった。


 中に入ると、星野くんはまだ来ていなかった。

 私は席に座って、鞄からノートを出す。

 少しだけ安心して、少しだけ物足りなく思う。


 自分でも嫌になる。


 数分後、教室の後ろが少しざわついた。

 私は振り向かないまま、何となく分かる。


「おはよ」


 後ろから聞こえた声に、胸の奥が小さく跳ねる。


「……おはよう」

「何、その間」

「別に」

「今ちょっと考えたでしょ」

「考えてない」

「考えてた顔してた」

「顔で分かるの」

「少しだけ」

「真似しないで」

「便利だから」

「それも真似」

「じゃあおあいこ」

「それも」

「全部だめじゃん」

「だめとは言ってない」

「じゃあいいんだ」

「……少しだけ」


 そう言うと、後ろで小さく笑う気配がした。

 私は前を向いたまま、ノートの端を指で押さえる。


 昨日までと同じ会話。

 同じはずなのに、今日はひとつひとつが少し近い。

 自分の中で認めてしまったせいで、全部の意味が変わってしまったみたいだった。


 講義が始まる前、星野くんが後ろから小さく声をかける。


「今日、ノート見せて」

「え」

「昨日の続き、たぶん途中から分かんなくなった」

「ちゃんと聞いて」

「聞いてたよ」

「ほんとに」

「たぶん」

「便利だね」

「でしょ」


 私は少しだけ笑って、ノートを後ろにずらした。

 すぐに受け取る気配がして、そのあと紙をめくる音がする。


「……きれい」

「またそれ」

「だって見やすいし」

「普通」

「相沢さんの“普通”は信用ならない」

「何それ」

「ちゃんとしてる人の言う普通」

「意味分かんない」

「俺の中では分かる」

「それも前に聞いた」

「じゃあ前から思ってる」


 またその言い方をする。

 私は思わずペン先を止めた。


 前から思ってる。


 たぶん星野くんに深い意味はない。

 分かっている。

 分かっているのに、そのたびに胸の奥が揺れる。


 講義が始まってからも、私は少しだけ集中しづらかった。

 板書を写しながら、後ろにあるノートの気配を意識してしまう。

 自分の書いた文字を見られている。

 それだけで、何だか落ち着かない。


 もちろん、見せているのは講義ノートで、星野ノートじゃない。

 そんなこと分かっているのに、妙に隠したい気持ちになる。


 休み時間、ノートが返ってくる。


「ありがと」

「ん」

「助かった」

「ならよかった」

「相沢さん、字までちゃんとしてる」

「字までって何」

「全部」

「雑」

「褒めてる」

「適当」

「ひどいな」


 そう言って笑う。

 私は前を向きながら、小さく息を吐いた。


 だめだと思う。

 こういう何でもない言葉に、いちいち反応してしまう。


 二限が終わったあと、今日は空きコマがなかった。

 次の教室へ移動するために、私たちは廊下を並んで歩く。


「今日、昼どうする?」

 と星野くんが聞く。

「学食」

「一人で?」

「たぶん」

「じゃあ一緒に行く?」

「……うん」

「今ちょっと間があった」

「なかった」

「いや、あった」

「気のせい」

「それ便利そう」

「使わないで」

「じゃあ少しだけ気のせい」

「何それ」

「譲歩」

「いらない」


 そんなふうに話しながら歩く。

 前よりずっと自然だ。

 自然なのに、私はずっと少しだけ苦しい。


 学食は昼休みのざわめきで満ちていた。

 トレーを持って並び、向かい合って座る。

 周りがにぎやかな分、少しだけ気が楽だった。


「今日、眠そう」

 と星野くんが言う。

「そう?」

「ちょっと」

「昨日少し遅かったから」

「課題?」

「……まあ」

「ほんとは?」

「何」

「課題以外もしてた顔」

「顔で分かるの」

「少しだけ」

「便利だね」

「でしょ」


 私は味噌汁の湯気を見ながら、少しだけ視線を落とした。

 課題以外もしていた。

 正確には、ノートを書いていた。

 でもそんなこと言えるわけがない。


「星野くんは」

「ん?」

「眠くないの」

「ちょっと眠い」

「じゃあ同じ」

「おそろい?」

「違う」

「即否定」

「そこは早い」

「大事だから」

「何が」

「いや、何となく」

「雑」


 また笑う。

 その笑い方を見ていると、胸の奥が少しだけやわらかくなる。

 でも同時に、言えないことが増えていく気もした。


 昼を食べ終わって、次の講義まで少し時間があった。

 私たちは校舎の外に出て、中庭のベンチに座る。

 日差しは強いのに、風は少しだけ涼しい。


「今日、静かだね」

 と星野くんが言う。

「普通」

「普通じゃないときの普通」

「それ好きだね」

「分かりやすいから」

「分かりやすくない」

「いや、今日は分かりやすい」

「……何が」

「何か考えてる」

「考えてない」

「考えてる」

「星野くんがうるさい」

「それは否定しない」


 私は少しだけ笑って、前を向いた。

 笑ってごまかせるうちは、まだ大丈夫だと思いたかった。


 そのとき、星野くんがふいに言った。


「相沢さんってさ」

「……何」

「たまに、言いかけてやめるよね」


 胸の奥がひとつ跳ねる。


「そう?」

「うん」

「気のせいじゃない」

「今のは気のせいじゃない」

「……別に」

「また別に」

「普通」

「それも違う」

「何なの」

「いや、何かあるのかなって」


 私は返事ができなかった。


 ある。

 たぶん、ある。

 でも、それを言葉にしたら、今までの全部が変わってしまう気がした。


「何でもない」

 やっとそれだけ言う。

「そっか」

 星野くんはそれ以上聞かなかった。


 聞かれなかったことに少し安心して、

 聞かれなかったことに少しだけ寂しくなる。


 自分でも面倒だと思う。


 次の講義へ向かう途中、私は何となく空を見上げた。


 星野くんの星。


 そこにある。

 でも、昨日よりまた少しだけ小さい気がした。


 胸の奥が冷たくなる。

 気のせいじゃないかもしれない、と思うたびに、足元が少し不安になる。


「また見てる」

 隣で星野くんが言う。

「見てない」

「いや、今のは見てた」

「……少しだけ」

「ほんと好きだね」

「星野くんも」

「じゃあおあいこ」

「それ便利だね」

「でしょ」

「認めた」

「やっと」


 そんなふうに笑い合えるのに、

 言いたいことだけは、どうしても言えない。


 家に帰って、私は先に星のノートを開いた。


 星野くんの星、位置変化なし。

 昨日より、また少し小さく見えた。

 変化は続いていると思う。

 気のせいではないかもしれない。


 そこまで書いて、私は少しだけ目を閉じた。

 星の変化が、ただの観察では済まなくなっている。

 でも、まだ何も分からない。

 分からないまま進んでいく感じが、少し怖い。


 ノートを閉じて、もう一冊を開く。


 今日は昨日より、普通に話せた。

 普通に話せるほど、言えないことが増えた気がする。

 ノートを見せた。

 昼を一緒に食べた。

 中庭で少し話した。

 「何かあるのかなって」と言われた。

 たぶん、少し気づかれている。


 そこまで書いて、手が止まる。


 気づかれているかもしれない。

 でも、だからといって言えるわけじゃない。


 言ったら何かが変わる。

 変わってほしい気持ちと、変わるのが怖い気持ちが、どっちもある。


 私はしばらく考えてから、ページの下に小さく書いた。


 言えないままでも、近くにいたいと思ってしまった。


 書いたあとで、その一文を見つめる。

 昨日、隠しきれなかったものは、今日はもう自分の中で否定できなかった。


 でも、まだ言えない。


 私はそっとノートを閉じて、机の上に伏せた。


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