第26話 隠しきれない
その日は朝から、少しだけ変だった。
何が、と聞かれるとうまく言えない。
眠いわけでもないし、体調が悪いわけでもない。
ただ、家を出る前からずっと、胸の奥に小さな落ち着かなさが残っていた。
駅までの道を歩きながら、私は何となく空を見上げた。
朝の白い光の中に、星野くんの星がかすかに見える。
昨日より、少し小さい気がした。
立ち止まるほどではない。
でも、見間違いだと片づけるには、少しだけはっきりしていた。
私は目をそらして、歩き出す。
考えすぎだと思いたかった。
そう思っているのに、胸の奥のざわつきは消えない。
大学に着いて教室へ向かう途中、スマホを一度だけ見た。
新しい通知はない。
それを確認して、少しだけ安心して、少しだけ残念に思う。
自分でも面倒だと思いながら、スマホをしまった。
教室に入ると、まだ人はまばらだった。
私は席に座ってノートを出す。
少しして、後ろのドアが開く音がした。
何となく振り向きそうになって、やめる。
でも、すぐに分かった。
「おはよ」
後ろから聞こえた声に、肩が少し揺れる。
「……おはよう」
「今、振り向こうとした?」
「してない」
「した顔してた」
「してない」
「じゃあそういうことにしとく」
「何それ」
「やさしさ」
そう言って笑う声が近い。
私は前を向いたまま、少しだけ口元を引き結んだ。
前なら、こんなふうに話しかけられるだけで緊張していた。
今は返事もできるし、言い返すこともできる。
会話そのものは、もう前ほど特別じゃない。
なのに、今日はだめだった。
声が近いだけで、少し落ち着かない。
講義が始まる前、星野くんが机を軽くつついた。
「昨日の続き、見た?」
「少しだけ」
「出た」
「何が」
「少しだけ」
「便利だから」
「もう完全に使いこなしてる」
「星野くんが言いすぎ」
「それはある」
私は少しだけ笑って、ノートを開いた。
こういうやり取りも、もう何度目か分からない。
前なら、そのたびに何を返せばいいか考えていた。
今は考える前に言葉が出る。
それがうれしい。
うれしいのに、その分だけごまかしが効かなくなっている気がした。
講義が始まると、私はいつも通り板書を取った。
先生の声、ページをめくる音、ペン先の感触。
全部いつも通りのはずなのに、後ろにいる気配だけが妙にはっきりしている。
少し静かになるたびに、そこにいると分かる。
振り向かなくても分かる距離。
「そこ、もう写した?」
講義の途中、後ろから小さな声がした。
「……まだ」
「早いと思った」
「今日は普通」
「じゃあ昨日が早かったのか」
「たぶん」
「便利だなあ、それ」
「星野くんも好きでしょ」
「まあね」
前を向いたまま、私は少しだけ笑った。
こういう小さな会話が、もう自然に混ざる。
自然に混ざるのに、胸の奥では全然自然じゃない。
二限が終わると、私は飲み物を買いに行こうとして席を立った。
すると、後ろで椅子を引く音がする。
「俺も行く」
「……言わなくてもいいのに」
「一応」
「何の」
「一緒に行動してますって報告」
「誰に」
「相沢さんに」
「意味分かんない」
「分かんなくていい」
並んで廊下を歩く。
前は、こうして二人で歩くこと自体に意識が向いていた。
今はもう、それ自体は不自然じゃない。
でも、不自然じゃなくなったことの方が、少し怖い。
自販機の前で立ち止まる。
私はお茶を押して、取り出し口からペットボトルを取った。
星野くんは炭酸の缶を取って、開けながら言う。
「やっぱりお茶なんだ」
「やっぱりって」
「いつもそうな気がする」
「そうかも」
「冒険しない」
「飲みたいもの飲んでるだけ」
「堅実」
「星野くんは」
「今日は炭酸」
「今日は、ってことは違う日もあるんだ」
「あるよ」
「昨日は」
「コーヒー」
「苦いのに」
「苦いけど飲む」
「意味分かんない」
「でも分かるって言ってた」
「……言った」
「ほら」
「分かるのと意味分かんないのは別」
「めんどくさいな」
「そっちが」
「ひど」
そんなふうに言い合いながら教室へ戻る。
会話が途切れても、前みたいに焦らない。
沈黙が気まずくないことに気づいて、私は少しだけ驚いた。
何も話していなくても、隣にいることがもう不自然じゃない。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ苦しくなる。
三限まで少し時間が空いていた。
教室を出たところで、星野くんが言う。
「今日も図書館行く?」
「……行く」
「即答」
「課題あるから」
「それ、もう聞き飽きた」
「じゃあ聞かないで」
「冷たいなあ」
図書館へ向かう途中、校舎の間を抜ける風が少し強かった。
私は髪を押さえながら歩く。
そのとき、星野くんがふと足を止めた。
「ついてる」
「え」
「肩」
見下ろすと、カーディガンの肩に小さな葉っぱの切れ端みたいなものが引っかかっていた。
「あ……」
「取っていい?」
「……自分で取る」
「取れてないけど」
「今取る」
「じっとして」
そう言って、星野くんが手を伸ばす。
肩のすぐ近くに指先が触れる。
ほんの一瞬。
それだけなのに、息が止まりそうになる。
「はい、取れた」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
星野くんは何でもない顔で歩き出す。
私はその横に並びながら、しばらくまともに顔を上げられなかった。
前なら、近い、と思うだけだった。
今日は違う。
近い、だけじゃない。
近いことが、うれしい。
うれしいのに、隠したい。
隠したいのに、たぶんもう顔に出ている。
図書館に着いて向かい合って座る。
資料を開いて、必要な箇所を探す。
課題はちゃんと進めたいはずなのに、今日は少しだけ集中しづらかった。
「相沢さん」
「……何」
「今日ほんと上の空」
「そんなことない」
「ある」
「ない」
「じゃあ今どこ読んでた?」
「……」
「ほら」
「うるさい」
「図星だった」
「図星じゃない」
「じゃあ教えて」
「……少し待って」
「はいはい」
その“はいはい”に、少しだけ救われる。
いつも通りの調子でいてくれるから、自分だけが変に意識していることが少しだけ隠せる気がした。
しばらくして、私はようやく資料に集中し始めた。
必要な箇所に付箋を貼って、要点をノートにまとめる。
向かいから星野くんが少し身を乗り出した。
「きれい」
「え」
「ノート」
「普通」
「いや、見やすい」
「……そう」
「こういうの、相沢さんっぽい」
「何それ」
「ちゃんとしてる感じ」
「曖昧」
「俺の中では分かる」
「前も聞いた」
「じゃあ前からそう思ってる」
「……そう」
その言葉が、思ったより深く残る。
前からそう思ってる。
たったそれだけなのに、胸の奥にたまっていたものが少し揺れる。
言葉にしたら、何かがこぼれてしまいそうだった。
課題がひと区切りついて、私はふと時計を見た。
もう次の講義の時間が近い。
前なら、課題が進んだことに安心していたと思う。
でも今日は、もう少しこのままでいたい、と思ってしまった。
その考えに気づいた瞬間、私は目を伏せる。
課題があるから一緒にいる。
そう思っていたかった。
でも、たぶんもう、それだけじゃない。
図書館を出て、次の教室へ向かう途中。
窓に映る空が目に入って、私は足を少しゆるめた。
星野くんの星。
そこにある。
でも今日は、昨日よりはっきり小さく見えた。
見間違いじゃない、と思う。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなる。
「どうしたの」
隣で星野くんが立ち止まる。
「……何でもない」
「また空見てた」
「見てない」
「いや、今のは見てた」
「……少しだけ」
「ほんと好きだね、それ」
「星野くんも」
「じゃあおあいこ」
「それも好きだね」
「便利だから」
「またそれ」
歩き出しながら、私は小さく息を吐いた。
星のことも、気持ちのことも、どっちも見ないふりが難しくなっている。
家に帰って、夕飯を食べて、部屋に戻る。
机に向かうと、私は先に星のノートを開いた。
星野くんの星、位置変化なし。
今日は昨日より、はっきり小さく見えた。
光量も弱い気がする。
見間違いでなければ、変化は進んでいる。
そこまで書いて、ペン先が止まる。
変化は進んでいる。
その言葉を見つめるだけで、胸の奥が少し重くなる。
今までは気のせいかもしれないと思っていた。
そう思っていたかった。
でも今日は、もうそれだけでは済まない気がした。
私はノートを閉じて、もう一冊を開く。
今日は朝から少し落ち着かなかった。
教室で声をかけられただけで、少しうれしかった。
自販機まで一緒に行った。
会話が途切れても気まずくなかった。
風で飛んできたものを取ってもらった。
近かった。
そこまで書いて、手が止まる。
近かった。
それだけじゃ足りない。
近いことが、うれしかった。
ノートを見て「相沢さんっぽい」と言われたことが、ずっと残っている。
課題が終わっても、もう少しこのままでいたいと思った。
書いてしまうと、もうごまかせない気がした。
でも、たぶん今日は、もう遅い。
私はしばらく考えてから、ページの下に小さく書いた。
今日は、もう隠しきれなかった。
その一文を見つめたあと、私はそっとノートを閉じた。




