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第25話 気づいてしまう

 その日は、朝から少しだけ落ち着かなかった。


 理由は分かっている。

 昨日、昼を一緒に食べたこと。

 中庭のベンチで並んで課題をやったこと。

 朝のメッセージのやり取りが、思ったより自然に続いたこと。


 どれも特別なことではない。

 たぶん、星野くんにとっては。

 でも私にとっては、ひとつずつがちゃんと残っていた。


 大学へ向かう電車の中で、私は何度もスマホを見た。

 新しい通知は来ていない。

 来ていないのに、画面を開いてしまう。


 昨日のやり取りはそのまま残っている。


 起きてる?

 よかった

 ついでに起きてるか確認した


 見返すたびに、少しだけ困る。

 うれしいのに、うれしいと思うほど落ち着かなくなる。


 教室に入ると、星野くんはまだ来ていなかった。

 私は席に座って、鞄からノートを出す。

 少しして、教室の後ろがざわついた。


「おはよー、星野」

「おはよ」

「昨日のレポートやった?」

「一応」

「うわ、えら」

「えらくはない」


 聞こえてきた声に、私は何となく手を止めた。

 振り向くほどではない。

 でも、耳だけがそっちを向いてしまう。


「ていうか最近、星野ちゃんとしてるよね」

「何それ」

「前より課題やってる」

「まあ、ちょっと」

「誰かの影響?」

「何その言い方」

「え、違うの」

「……別に」


 その“別に”に、私は少しだけ反応してしまった。

 自分でも嫌になるくらい、勝手に気にしてしまう。


「でもこの前も図書館いたじゃん」

「あー、見た見た」

「珍しくない?」

「珍しい」

「一人じゃなかったし」

「そうそう、誰だっけ」

「同じ授業の子じゃない?」

「名前なんだっけ」

「相沢さん?」

「あー、たぶんそれ」


 その瞬間、胸の奥がひとつ跳ねた。


 自分の名前が、星野くんのまわりの会話の中に出てくる。

 ただそれだけのことなのに、急に落ち着かなくなる。


「へえ」

 と誰かが言う。

「星野、そういう感じなんだ」

「どういう感じだよ」

「いや、意外とちゃんとしてる感じ」

「意味分かんない」

「課題一緒にやる相手いるんだなって」

「課題やるくらいあるでしょ、普通に」

「普通にって言い方がもう怪しい」

「怪しくないって」


 笑い声が重なる。


 私は前を向いたまま、ノートの端を指で押さえた。

 聞いてはいけないものを聞いてしまった気がした。

 でも、耳に入ってしまったものはどうしようもない。


 そのとき、後ろの椅子が引かれる音がした。


「おはよ」


 いつもの声が、すぐ近くから聞こえる。

 私は少しだけ肩を揺らして振り向いた。


「……おはよう」

「何、びっくりした?」

「してない」

「した顔してる」

「してない」

「じゃあそういうことにしとく」


 そう言って、星野くんは何でもない顔で席に座った。


 私は前を向き直したけれど、さっきの会話が頭から離れなかった。

 相沢さん。

 名前なんだっけ、のあとに出てきた自分の名前。

 図書館にいた、という話。

 課題一緒にやる相手。


 たぶん、それだけだ。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 なのに、どうしてこんなに胸がざわつくんだろう。


 講義が始まっても、少しだけ集中できなかった。

 板書を写しながら、後ろにいる気配を意識してしまう。

 昨日までと同じはずなのに、今日は少し違う。


 自分が、相手の中にいる。

 少なくとも、日常の一部にはなっている。


 そのことが、思ったよりうれしい。


 うれしい、と思った瞬間に、私はペンを止めた。


 今、何て思った?


 うれしい。


 その言葉が、思ったよりはっきり胸の中に残る。

 ごまかせないくらい、自然に出てきた。


 私は小さく息を吐いて、またノートに目を落とした。

 講義中に考えることじゃない。

 そう思うのに、頭のどこかでずっと引っかかっている。


 休み時間、私は席を立って飲み物を買いに行こうとした。

 そのとき、後ろから声がした。


「相沢さん」

「え」

「次の資料、昨日の続き使う?」

「あ……たぶん」

「じゃあ俺、印刷しとこうか」

「いいの」

「いいよ、ついでだし」

「……ついで、好きだね」

「便利だから」

「また言った」

「言った」


 そのやり取りだけで、少しだけ気持ちがほどける。

 さっきまで勝手にざわついていたのが、少しだけ落ち着く。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 星野くんはそう言って、ほんとうに何でもないみたいに笑った。


 その笑顔を見たとき、私はふと思った。


 たぶん私は、この人が思っているよりずっと、この人のことを見ている。


 講義が終わったあと、印刷してくれた資料を受け取る。

 紙の端が少しだけ温かい気がして、そんなはずないのにと思う。


「今日、空きコマある?」

 と星野くんが聞いた。

「少しだけ」

「じゃあ図書館行く?」

「……うん」

「即答」

「課題あるから」

「それもう聞き飽きた」

「じゃあ聞かないで」

「ひどいな」


 そう言いながら、また笑う。


 図書館へ向かう道で、前から同じ学部らしい女子二人が歩いてきた。

 星野くんはそのうちの一人に気づいて、軽く手を上げた。


「お、久しぶり」

「あ、星野」

「授業終わり?」

「うん。そっちは?」

「今から図書館」

「えら」

「今日それ二回目」


 相手の子が笑う。

 明るくて、話し慣れている感じだった。

 私は少しだけ足をゆるめて、半歩後ろに下がる。


「そっち友達?」

 とその子が私を見る。

「あ、同じ授業の」

 と星野くんが答える。

「相沢さん」

「こんにちは」

「こんにちは」


 それだけの短いやり取り。

 なのに、なぜか胸の奥が少しだけ冷える。


 その子はすぐに「じゃあまたね」と去っていった。

 星野くんも「また」と軽く返して、何事もなかったみたいに歩き出す。


 私はその横を歩きながら、さっきの笑顔を思い出していた。

 自分に向けられたものじゃない、知らない笑顔。

 前にも見たことがある。

 でも、前より少しだけ痛い。


「どうしたの」

 と星野くんが言う。

「え」

「静か」

「……別に」

「また別に」

「普通」

「普通じゃないときの“普通”だ」

「何それ」

「何となく分かる」

「分からなくていい」

「ひど」


 私は少しだけ早足になる。

 自分でも、何に引っかかっているのかうまく説明できなかった。


 図書館に着いて席に座っても、少しだけ落ち着かなかった。

 資料を開いても、文字が頭に入ってこない。

 さっきの会話。

 知らない笑顔。

 同じ授業の、と紹介されたこと。

 全部が小さく残っている。


「相沢さん」

「……何」

「今日ほんと変」

「変じゃない」

「いや、変」

「星野くんがうるさいだけ」

「それは否定しないけど」

「否定して」

「じゃあ少しだけ否定する」

「少しだけ、便利だね」

「でしょ」


 その返しに、私は思わず少しだけ笑ってしまった。


「やっと笑った」

「笑ってない」

「今のは笑った」

「……少しだけ」

「うん、それ」


 そのまま、少し空気がやわらぐ。


 私は資料に目を落としながら、心の中で小さく息を吐いた。

 たぶん、私はさっき少し嫌だったんだと思う。

 知らない笑顔を見るのが。

 自分の知らない会話の中にいる星野くんを見るのが。


 そんなふうに思う理由なんて、ひとつしかない。


 私はページをめくる手を止めた。


 ああ、と思う。


 気づいてしまった。


 見ているだけじゃ、もうない。

 記録しているだけでも、たぶんない。

 星を見ていたはずなのに、いつの間にか、その人自身を見ていた。


 そして今は、見ているだけでは足りなくなっている。


「ここ、分かる?」

 と星野くんが資料を指さす。

 私は少し遅れて顔を上げた。

「……うん」

「ほんとに?」

「たぶん」

「今のは分かってない顔」

「分かってる」

「じゃあ教えて」

「……少し待って」

「はいはい」


 その“はいはい”の言い方まで、ちゃんと分かるようになってきている。

 それが少しうれしくて、少し苦しい。


 帰り道、駅までの途中で信号待ちをしているとき、私は何となく空を見た。


 星野くんの星。


 そこにある。

 でも、今日は輪郭が少しだけ曖昧に見えた。


 気のせいかもしれない。

 でも、そう思って目をそらすには、少しだけ不安が残る。


「また見てる」

 隣で星野くんが言う。

「見てない」

「いや、今のは見てた」

「……少しだけ」

「ほんとそれ好きだね」

「星野くんも」

「じゃあおあいこ」

「それも好きだね」

「便利だから」

「またそれ」


 信号が青に変わる。

 私たちはまた歩き出した。


 家に帰って、机に向かう。

 私は先に星のノートを開いた。


 星野くんの星、位置変化なし。

 大きさも大きな変化はないと思う。

 ただ、輪郭が少し曖昧に見えた。

 気のせいかもしれない。


 そこまで書いて、少し迷う。

 気のせい、で片づけたくない気持ちがあった。

 でも、まだ確信はない。


 私はページを閉じて、もう一冊を開く。


 朝、後ろの席で自分の名前が聞こえた。

 図書館にいたことを話していた。

 同じ授業の、と紹介された。

 それだけなのに、少し落ち着かなかった。


 知らない笑顔を見た。

 前にも見たことがあるのに、今日は少し違った。

 少しだけ、嫌だった。


 そこまで書いて、私は止まる。


 嫌だった。

 その理由を、もう分かっている。


 書かないままではいられない気がした。

 でも、書いてしまったら戻れない気もした。


 私はしばらくペンを持ったまま動けなかった。

 それから、ページのいちばん下に、小さく書く。


 これはたぶん、ただの記録じゃない。


 書いたあとで、胸の奥が少しだけ静かになった。

 静かになった分だけ、その意味がはっきりした気がして、

 私はしばらくノートを閉じられなかった。


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