第23話 言いかける
次の日の朝、目が覚めて最初に思い出したのは、課題のことでも講義のことでもなく、昨日の帰り道のことだった。
課題、分かんないとこあったら連絡して。
たったそれだけの言葉なのに、何度も頭の中で繰り返してしまう。
私は布団の中で目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
連絡、してもいいんだろうか。
昨日はそのまま「うん」と返したけれど、実際に送るとなると話は別だった。
課題のことなら不自然じゃない。
でも、課題のことだけで終わるのも少しさみしい気がする。
そんなことを考えている自分に気づいて、私は顔をしかめた。
朝から何を考えてるんだろう。
起き上がって支度をし、家を出る。
駅までの道を歩きながらも、頭の片隅にはずっと昨日の言葉が残っていた。
大学に着いて教室へ向かう途中、私はスマホを一度だけ取り出した。
メッセージアプリを開いて、星野くんの名前を見る。
まだ何も送っていない画面。
白い入力欄だけがやけに広く見えた。
私は立ち止まって、短く打つ。
昨日の課題なんだけど、
そこまで打って、止まる。
何を聞くつもりだったのか、自分でもよく分からなくなった。
消す。
もう一度打つ。
おはよう。昨日言ってた課題のことなんだけど、
また止まる。
おはよう、はいらない気がした。
でも、ないと急すぎる気もする。
結局、全部消した。
何をしているんだろう、と思いながら教室のドアを開ける。
星野くんは、もう来ていた。
「あ」
と、向こうが先に気づく。
「おはよ」
「……おはよう」
「今日ちょっと遅いね」
「ちょっとだけ」
「俺の方が早かった」
「珍しい」
「昨日ちゃんと課題見たから、えらい」
「それで早いの」
「単純でしょ」
そう言って笑う。
私は鞄を置きながら、ついその顔を見てしまった。
昨日より少し眠そうで、でも機嫌は悪くなさそうで、いつも通りみたいに見える。
その“いつも通り”に、少しだけ安心する。
「何」
「え」
「また見た」
「見てない」
「いや、今のは見た」
「……ちょっとだけ」
「それ便利だね、その返し」
「便利じゃない」
「じゃあ何で見てたの」
「別に」
「またそれ」
少し笑われて、私はごまかすように席に座った。
講義が始まるまでの間、私はノートを開いたふりをしながら、何度かスマホに目を落とした。
送るなら今かもしれない、と思う。
でも、本人がすぐ後ろにいるのにメッセージを送るのも変な気がした。
結局、何もできないまま講義が始まる。
先生の声を聞きながら板書を取っていても、頭のどこかでずっと考えていた。
連絡してもいいんだろうか。
昨日、ああ言ってくれたんだから、いいはずだ。
でも、何を送るのか。
課題のことだけ?
それとも、もう少し何か。
自分でもよく分からない。
講義の途中、先生がグループで確認するように言って、教室が少しざわついた。
私は配られたプリントに目を落としたまま、どこを確認すればいいのか考える。
「相沢さん」
後ろから小さく呼ばれて振り向く。
「ここ、たぶんこの資料のことだよね」
星野くんがプリントの一か所を指さす。
「あ……たぶん」
「昨日見たやつと同じっぽい」
「ほんとだ」
「だから、たぶん図書館のやつ使えばいける」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
それだけのやり取りなのに、少しだけ胸が落ち着く。
私はまた前を向いた。
こういうのを、わざわざメッセージで聞く必要はなかったのかもしれない。
でも、聞かなくて済んだことに安心している自分と、少し残念に思っている自分がいた。
講義が終わると、星野くんが机を軽く叩いた。
「で、課題どうする?」
「どうするって」
「今日も少し見る?」
「……見る」
「即答」
「課題あるから」
「はいはい」
その言い方が少しおかしくて、私は小さく笑った。
図書館へ向かう途中、星野くんは昨日より少しだけよく話した。
講義のこと、先生の話し方の癖、学食の新メニューが微妙だったこと。
本当にどうでもいいことばかりなのに、私はちゃんと返事をしていた。
「相沢さんってさ」
「何」
「最初、もっと話さない人かと思ってた」
「……話さない方だと思う」
「うん、でも全然しゃべんない感じではなかった」
「それ、どう違うの」
「しゃべらないけど、聞いてはくれる感じ」
「よく分かんない」
「俺の中では分かる」
「雑」
「ひどい」
そんなふうに言い合って、また少し笑う。
図書館では昨日と同じように向かい合って座った。
資料を開いて、必要なところを探して、たまに小声で確認する。
「ここってさ」
「うん」
「この説明、ちょっと曖昧じゃない?」
「分かる」
「だよね」
「でも先生こういうの好きそう」
「あー、好きそう」
「出しそう」
「出すね」
小さな声でそんな会話をしているだけなのに、昨日よりずっと自然だった。
私はページをめくりながら、ふと思う。
こういう時間も、あとで書くんだろうか。
向かいに座ったこと。
同じところで引っかかったこと。
小さい声で笑ったこと。
昨日より自然に話せたこと。
書きたいことが増えていく。
でも、書きたいことが増えるほど、書けないことも増えていく気がした。
「どうしたの」
また声をかけられて、私は顔を上げた。
「え」
「今、止まってた」
「……ちょっと考えてた」
「課題?」
「まあ、それも」
「それも、って何」
「別に」
「また別にって言った」
「言った」
「開き直った」
「うるさい」
星野くんが声を殺して笑う。
図書館だから、肩だけが少し揺れる。
私はその笑い方を見て、昨日より近い、と思った。
何が近いのかは分からない。
距離なのか、空気なのか、ただの気のせいなのか。
でも、昨日より少しだけ近い。
一時間ほどして、私たちは図書館を出た。
「今日は昨日より進んだ気がする」
と星野くんが言う。
「昨日よりは」
「相沢さんがちゃんとしゃべったからかも」
「何それ」
「いや、昨日より相談しやすかった」
「……そう」
「うん」
「ならよかった」
「うん、よかった」
その返事が思ったよりまっすぐで、私は少しだけ目をそらした。
外は夕方に近づいていて、風が昼よりやわらかくなっていた。
並んで歩きながら、私は何度か言おうとしてやめた言葉を飲み込む。
今日、話しやすかった。
一緒だと少し落ち着く。
また課題なくても話したい。
どれも言えない。
言えないまま、駅が近づいてくる。
「そういえば」
と星野くんが言った。
「昨日、連絡しようとしてた?」
「え」
「なんか今日、朝スマホ見てたから」
「……見てた?」
「見てた」
「別に」
「また別に」
「課題のこと、ちょっとだけ」
「じゃあ送ってくれればよかったのに」
「……聞く前に分かったから」
「そっか」
「うん」
「でも今度は送っていいよ」
「え」
「課題でも、それ以外でも」
「……それ以外って」
「何でも」
「何でもって、困る」
「じゃあ困らない範囲で」
「曖昧」
「相沢さんもよく曖昧だからおあいこ」
そう言って笑う。
私は返事ができなくて、ただ少しだけうつむいた。
困る。
でも、うれしい。
駅の改札が見えてくる。
「じゃ、また明日」
「……また明日」
別れてからも、しばらく胸の奥が落ち着かなかった。
家に帰って、夕飯を食べて、部屋に戻る。
机の前に座ると、私はまず星のノートを開いた。
星野くんの星、変化なし。
少し揺れて見えたが、昨日ほどではない。
光量に大きな変化はないと思う。
そこまで書いて、ペンを止める。
本当は、今日ずっと別のことを考えていた。
星のことより、話したこと。
笑ったこと。
送っていいよ、と言われたこと。
私は星のノートを閉じて、もう一冊を開く。
今日は昨日より自然に話せた。
図書館で、同じところで引っかかった。
相談しやすかったと言われた。
課題でも、それ以外でも送っていいと言われた。
そこまで書いて、また止まる。
本当は、もっと書きたい。
一緒だと少し落ち着くこと。
うれしかったこと。
その一言だけで、帰り道ずっと胸が変だったこと。
でも、そのまま書いてしまうのは少し怖かった。
私はしばらく考えてから、ページの下に小さく一行だけ足した。
言いかけたことが、今日も言えなかった。
書いたあと、その一文をしばらく見つめる。
何を言いかけたのか、自分でもまだちゃんと分からないまま、
私はそっとノートを閉じた。




