第22話 こぼれそう
夜、ノートを閉じたあとも、私はしばらく机の前から動けなかった。
知らない笑顔を見た。
たった一行。
それだけなのに、今日一日のことがその中に全部残っている気がした。
私は指先でノートの表紙をなぞる。
書いたのは自分なのに、
書いてしまったことで、余計に消えなくなった気がする。
こういうのを、何て言えばいいんだろう。
好き、とはまだ違う気がした。
でも、ただ気になるだけでもない。
見てしまう。
覚えてしまう。
書いてしまう。
その繰り返しの中で、何かが少しずつあふれてきている。
私は小さく息をついて、ノートを引き出しにしまった。
明日は、もう少し普通にしよう。
そう思ってベッドに入ったのに、
眠る直前に浮かんだのは、やっぱりあの笑顔だった。
次の日の朝、大学へ向かう道は少しだけ風が強かった。
空は明るいのに、風だけが冷たい。
私は髪を押さえながら歩き、駅のホームで電車を待った。
今日は普通にする。
見すぎない。
覚えすぎない。
心の中で何度もそう言い聞かせる。
でも、大学に着いて教室へ向かうころには、
その決意がもう少し頼りないものになっているのが分かった。
教室の前まで来て、私は一度だけ深呼吸をした。
大丈夫。
今日はちゃんと、最初に星を見る。
そう決めてドアを開ける。
星野くんはまだ来ていなかった。
それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
私は自分の席に座って、鞄を置いた。
それからそっと視線を上げる。
星は、今日もそこにあった。
淡く光る、小さな星。
昨日と同じように見える。
少なくとも、今すぐ何かが変わったようには見えない。
私は小さく息を吐いた。
ちゃんと最初に見られた。
それだけのことなのに、少しだけ安心する。
「おはよ」
声がして振り向くと、星野くんが立っていた。
「あ……おはよう」
「今日早いね」
「そっちも」
「珍しく」
そう言って笑う。
私は一瞬だけ、その笑い方を見てしまう。
昨日のものとは違う、いつもの笑い方。
見分けようとしているみたいで嫌だ、と思うのに、
気づいてしまうものは仕方なかった。
「何」
「え」
「今、なんか見た」
「見てない」
「いや見たでしょ」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとだけって何」
おかしそうに言われて、私はごまかすように鞄の中を見た。
「別に」
「ふーん」
「その反応やめて」
「どの反応」
「分かってるみたいなやつ」
「分かってるかも」
「やめてって言ってるのに」
そう返すと、星野くんはまた笑った。
その笑い方まで覚えそうになって、
私は慌ててノートを取り出した。
講義が始まるまでの少しの時間、
私はなるべく前だけを見るようにしていた。
でも、視界の端に入るたびに気づいてしまう。
今日は黒いシャーペン。
机の上にはペットボトルの水。
髪が少しだけ跳ねている。
どうでもいい。
本当にどうでもいいことばかりだ。
なのに、頭の中に残っていく。
講義が始まると、私はいつもより真面目に板書を取った。
余計なことを考えないようにするには、その方がいい気がしたからだ。
けれど、途中でプリントが配られたとき、
前の列から回ってきた紙が私のところで止まった。
後ろに回そうとして振り向くと、
ちょうど星野くんが手を伸ばしていた。
「あ、ごめん」
「ううん」
紙を渡す。
その一瞬だけ、指先が近づく。
触れなかった。
でも、触れなかったことにまで気づいてしまった。
私はすぐに前を向く。
何を意識してるんだろう、と思う。
昨日、書かなかったくせに。
書かなかったからこそ、余計に残っているのかもしれない。
講義の終わりごろ、先生が次回の課題について説明を始めた。
少し面倒そうな内容で、教室のあちこちから小さなため息が漏れる。
「やば」
後ろから小さく聞こえて、私は少しだけ口元をゆるめた。
たぶん星野くんだ。
振り向かなくても分かるようになってきている自分が、少しだけ怖い。
講義が終わると、案の定、後ろから声がした。
「相沢さん、課題やばくない?」
「やばい」
「だよね」
「普通に多い」
「しかも来週までって短くない?」
「短い」
そんな会話をしながら教室を出る。
廊下には同じように課題の話をしている人が多かった。
「図書館行く?」
と星野くんが聞く。
「今日?」
「うん。少しだけ資料見とこうかなって」
「……行く」
「即答じゃん」
「別に」
「いや、今のは即答だった」
少し笑われて、私は何も言えなくなる。
図書館へ向かう道を並んで歩く。
その間も、私はなるべく普通にしようとしていた。
「相沢さん、こういう課題ちゃんとやるタイプだよね」
「ちゃんとはやるけど、早くはやらない」
「分かる気がする」
「何それ」
「真面目そうだけど、ぎりぎりまで抱える感じ」
「……否定できない」
「やっぱり」
「そっちは?」
「俺も似たようなもん」
「じゃあだめじゃん」
「だめだね」
そんなふうに笑い合う。
図書館では向かい合う席に座った。
最初は本当に課題のために資料を探していたのに、
途中から私はページの内容より、向かいにいる星野くんの方が気になってしまった。
真面目な顔で本を読んでいる。
たまに眉が少し寄る。
分からないところがあると、スマホで調べる。
飲み物は今日は水だけだった。
また覚えている。
私は本に視線を落としたまま、小さく息をついた。
「どうしたの」
顔を上げると、星野くんがこちらを見ていた。
「え」
「ため息」
「してない」
「した」
「気のせい」
「またそうやってごまかす」
小声で言われて、私は少しだけ困る。
「……課題、多いなって思っただけ」
「それは俺も思ってる」
「でしょ」
「でも相沢さん、課題だけでそんな顔しなさそう」
「どんな顔」
「なんか、考えすぎてる顔」
「失礼」
「今日それ多いね」
「そっちが失礼だから」
「ごめんって」
そう言って笑う。
静かな図書館だから、声は小さい。
でも、その小さな笑い声が近くて、私は少しだけ目をそらした。
こういう時間まで、あとで書くんだろうか。
課題のために図書館へ行ったこと。
向かいに座ったこと。
ため息を見つかったこと。
考えすぎてる顔だと言われたこと。
そんなことばかり増えていく。
一時間ほどして、私たちは図書館を出た。
「少しは進んだ?」
「少しは」
「俺も」
「少しだけね」
「うん、少しだけ」
外に出ると、朝より風が強くなっていた。
私は反射的に空を見上げる。
星は、そこにあった。
でも、その光が一瞬だけにじんだように見えた。
私は足を止める。
「どうしたの」
星野くんの声がする。
「……いや」
「何かあった?」
「何でもない」
そう答えながら、もう一度見る。
気のせいかもしれない。
でも、さっきより少しだけ輪郭が曖昧に見えた。
胸の奥がざわつく。
何かがこぼれそう、と思った。
それが何なのか、自分でも分からない。
不安なのか。
焦りなのか。
それとも、別の何かなのか。
「相沢さん」
名前を呼ばれて、私ははっとする。
「ほんとに大丈夫?」
「……うん」
「顔、あんまり大丈夫そうじゃないけど」
「大丈夫」
「無理してない?」
「してない」
少し強く言ってしまってから、私は後悔した。
「あ……ごめん」
「いや、いいけど」
「違うの。怒ったわけじゃなくて」
「分かってる」
「……ごめん」
「ほんとに大丈夫ならいいよ」
星野くんはそれ以上聞かなかった。
そのことに少しだけ救われて、少しだけ苦しくなる。
駅までの道は、さっきまでより静かだった。
隣を歩いているのに、私はうまく言葉を探せない。
星のことは言えない。
でも、何もないふりをするのも難しい。
結局、駅の手前で星野くんが先に口を開いた。
「課題、分かんないとこあったら連絡して」
「え」
「今日一緒に見たし、その方が早いかも」
「……うん」
「ほんとに無理しないでね」
「大丈夫」
「その大丈夫、ちょっと信用ない」
「ひどい」
「でもさっきよりは普通」
「普通って何」
「今日の相沢さんの基準」
少しだけ笑って言う。
私も、つられて少しだけ笑った。
「じゃあまた明日」
「また明日」
手を振って別れる。
その背中を見送りながら、私は胸の奥に残ったざわつきを押さえるみたいに息を吐いた。
家に帰って、夕飯を食べて、部屋に戻る。
机の前に座ると、私は少しだけ迷ってから星野ノートを開いた。
今日も書く。
たぶん、書かない方がいいことまで。
今日は黒いシャーペンだった。
飲み物は水だった。
課題のあと、一緒に図書館へ行った。
向かいに座った。
ため息を見つかった。
考えすぎてる顔だと言われた。
課題、分かんないとこあったら連絡してと言われた。
そこまで書いて、私は止まる。
本当は、もっとあった。
星が少しにじんで見えたこと。
そのせいで急に怖くなったこと。
何かがこぼれそうだと思ったこと。
でも、隣にいた声で少しだけ戻れたこと。
私はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
書けば、形になってしまう。
形になったら、もう見ないふりはできない。
それでも、何も書かないまま閉じることもできなかった。
私はページの下に、小さく一行だけ足した。
今日は、少しこぼれそうだった。
書いたあとで、その意味を自分でもうまく説明できないまま。
それでも、書く前より少しだけ息がしやすくなった。
私はそっとノートを閉じた。




