第21話 知らない笑顔
夜、机の前に座って、私は昨日書いたページを開いた。
今日は青いペンだった。
講義中、三回あくびをしていた。
友達と笑っていた。
今日は飲み物がアイスコーヒーだった。
ペンケースを拾ってくれた。
……指先が少し触れたことは、
書かなかった。
そこまで読んで、私はページの端を指で押さえたまま止まる。
書かなかったことの方を、ちゃんと覚えている。
むしろ、書かなかったからこそ残っているのかもしれない。
指先が触れた一瞬。
すぐに離れたこと。
何でもないふうに会話が続いたこと。
私だけが少しだけ意識してしまったこと。
そんなことまで思い出して、私は小さく息をついた。
意味ないじゃん、と思ったはずなのに、
こうしてまた開いている時点で、たぶんもう意味なんてどうでもよくなっている。
私はノートを閉じて、ベッドに入った。
明日こそ、もう少しちゃんと星を見る。
そう思いながら目を閉じたのに、
最後に浮かんだのは、昨日の一瞬触れた指先だった。
次の日、大学へ向かう電車の中でも、私はぼんやりそんなことを考えていた。
今日はちゃんとする。
まず星を見る。
余計なことまで覚えない。
心の中でそう決める。
決めるだけなら簡単だった。
教室のドアを開けると、星野くんはもう来ていた。
少し離れたところで、女の子と話している。
同じ講義を取っている子だった。
名前までは知らないけれど、何度か見たことがある。
何の話をしているのかまでは聞こえない。
でも、星野くんはいつもみたいに自然な調子で返していた。
その子が何か言って、星野くんが笑う。
私は足を止めた。
まず見るべきなのは、星のはずだった。
でも、その前に目に入ってしまった。
知らない笑い方だった。
大きく違うわけじゃない。
別人みたいでもない。
ちゃんと、いつもの星野くんのままだ。
それなのに少しだけ違って見えた。
私と話しているときより、少しだけ無防備で、
少しだけ軽くて、
何かを受け取って、そのまま返すみたいに自然だった。
私はその場で、ほんの少しだけ息を止めた。
ああいうふうにも笑うんだ、と思う。
知らなかった。
ただそれだけのことなのに、
胸の奥が静かに揺れた。
……違う。
私は慌てて視線を上げた。
星は、今日もそこにあった。
昨日と同じくらいの大きさ。
少なくとも、急に変わったようには見えない。
それを確認して、少しだけ安心する。
でも、さっき見た笑顔の印象は消えなかった。
私は何でもない顔をして席へ向かった。
「おはよう」
自分の席に鞄を置いたところで、声がした。
振り向くと、星野くんが立っていた。
「……おはよう」
「今日ちょっと遅かったね」
「電車、少し混んでたから」
「そっか」
それだけ言って、星野くんはいつも通りに笑う。
さっき見た笑い方とは少し違う。
でも、どっちもちゃんと星野くんだった。
そんな当たり前のことに、私はまた少しだけ落ち着かなくなる。
「どうしたの」
「え」
「なんかぼーっとしてる」
「してない」
「してるよ」
「してないって」
「じゃあそういうことにしとく」
軽く流されて、私は曖昧に視線をそらした。
こうして普通に話しかけてくれる。
いつも通りだ。
何も変わっていない。
変わっているのは、たぶん私の方だった。
講義が始まってからも、私は何度か朝のことを思い出してしまった。
女の子と話していたこと。
そのときの笑い方。
少しだけ知らないと思ったこと。
別に、特別なことじゃない。
誰と話していてもおかしくないし、
笑うことだって当たり前だ。
そんなこと、分かっている。
分かっているのに、
どうしてこんなに残るんだろうと思う。
ノートに書くかもしれない。
そう思った瞬間、自分で嫌になる。
何でも書けばいいわけじゃない。
書くために見ているわけでもない。
そう思うのに、頭のどこかが勝手に覚えてしまう。
講義の途中、星野くんが前の席の友達に消しゴムを貸していた。
返されるときに、何か一言やり取りして笑っていた。
その笑い方は、さっき見たものとはまた少し違った。
私は視線をノートに落とす。
知らない笑顔なんて、たぶんいくつもある。
私が見たことのない時間の中で、
私が知らない会話の中で、
星野くんは何度も笑ってきたんだろう。
そう思うと、少しだけ遠い。
でも、その遠さは嫌なものじゃなかった。
むしろ、きれいだと思った。
昼休み、私は購買でパンを買って、校舎の横のベンチに座った。
今日はひとりの方が落ち着く気がした。
袋を開けながら、朝のことをまた思い返す。
知らない笑顔。
その言葉が、頭の中で静かに残っていた。
嫌だったわけじゃない。
苦しかったわけでも、たぶんない。
ただ、少しだけまぶしかった。
私の知らないところで、
私の知らないふうに笑っている星野くんがいる。
それは当たり前のことなのに、
どうしてか、ちゃんと見てしまった気がした。
「ひとり?」
声がして顔を上げると、星野くんが立っていた。
「……うん」
「隣いい?」
「いいけど」
星野くんは私の返事を待って、ベンチの端に座った。
手には紙パックのカフェオレがある。
「今日は学食じゃないんだ」
「なんとなく」
「そっか。俺も今日はこっち」
そう言ってストローをさす。
その横顔を見ながら、私は少しだけ迷った。
朝のことを聞くわけにもいかない。
聞いたところで、どうするんだとも思う。
だから私は、別のことを言った。
「……友達、多いよね」
「え、急に?」
「いや、なんとなく」
「どうだろ。普通じゃない?」
「普通かな」
「相沢さんから見たら多く見えるのかも」
そう言って笑う。
また少し違う笑い方だった。
私はそのことに気づいてしまって、パンの袋を持つ手に少しだけ力が入った。
「今日も変なこと考えてる?」
「考えてない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあそういうことにしとく」
朝と同じことを言う。
私は少しだけむっとして、
でもそのあとで、少しだけ笑ってしまった。
「なにそれ」
「便利だから」
「適当」
「でも間違ってないこと多いよ」
「自信あるんだ」
「ちょっとね」
そんなふうに話しているうちに、さっきまでのざわつきが少しだけ薄れていく。
やっぱり、こうして話していると落ち着く。
それがまた、少し困る。
午後の講義へ向かう途中、私は一度だけ星を見上げた。
光は変わらないように見えた。
でも、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
気のせいかもしれない。
見間違いかもしれない。
それでも、胸の奥が少しだけ冷える。
感情と関係があるんだろうか。
私が勝手に揺れているだけで、星までそう見えるんだろうか。
分からない。
分からないまま、時間だけが過ぎていく。
帰り道、今日は誰とも一緒にならなかった。
ひとりで歩きながら、私は今日のことを頭の中で並べてみる。
朝、女の子と話していたこと。
知らない笑い方を見たこと。
昼に隣へ座ってきたこと。
友達が多いよね、と聞いてしまったこと。
星が一瞬揺れた気がしたこと。
どれも小さい。
でも、どれも消えなかった。
家に帰って、夕飯を食べて、部屋に戻る。
机の前に座ると、私は少しだけためらってから星野ノートを開いた。
今日も、書くつもりだった。
ペンを持って、最初に書く。
朝、女子と話していた。
楽しそうだった。
昼はカフェオレだった。
ベンチで少し話した。
そこまで書いて、私は止まった。
本当は、その先があった。
知らない笑い方だと思ったこと。
少しだけ遠く見えたこと。
でも、その遠さが嫌じゃなかったこと。
むしろ、きれいだと思ってしまったこと。
そういうことを書こうとして、
私は何度もペン先を浮かせた。
でも、うまく言葉にならない。
書いてしまったら違う気がした。
少しでも言い方を間違えたら、
今日見たものがこぼれてしまう気がした。
私はしばらく迷ってから、最後に一行だけ足した。
知らない笑顔を見た。
それだけ書いて、ノートを閉じた。




