第20話 見てしまう
朝、目が覚めて最初に思い出したのは、机の上に並べた二冊のノートのことだった。
カーテンの隙間から差し込む光の中で、私はしばらく布団の中にいたまま天井を見ていた。
昨日、星野ノートを作った。
そう思うだけで、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
大げさだと思う。
たった一冊、ノートを増やしただけだ。
それなのに、何かが変わってしまった気がした。
支度を終えて家を出る前、私は机の前に立った。
左に星のノート。
右に星野ノート。
二冊は昨日の夜に揃えたまま、きれいに並んでいる。
私は少し迷ってから、星野ノートだけを手に取った。
開くつもりはなかったのに、気づけば表紙をめくっていた。
最初のページに書いた文字が目に入る。
星野くん
その下に並ぶ、第一印象、話し方、よく言うこと、性格、しぐさ。
昨日の自分が書いたものなのに、朝の光の中で見ると少しだけ恥ずかしかった。
こんなに書いたんだ、と思う。
こんなに覚えていたんだ、とも思う。
私は慌ててノートを閉じた。
見返すつもりじゃなかった。
ただ、そこにあることを確かめたかっただけだ。
鞄に入れるか迷って、結局やめた。
持ち歩くのは違う気がした。
大学でうっかり落としたりしたら、たぶん立ち直れない。
代わりに、今日も何か分かるかもしれない、とだけ思って家を出た。
大学に着いて教室へ向かう途中、私はいつもより少しだけ周りを気にしていた。
星野くんはもう来ているだろうか。
今日は誰といるだろうか。
星はどうだろうか。
教室のドアを開けた瞬間、私はすぐにその姿を見つけた。
窓際の後ろの席。
友達と話している。
笑っている。
まず確かめるべきなのは、星のはずだった。
なのに私が最初に探していたのは、
星じゃなくて、笑っている星野くんの顔だった。
……違う。
私は慌てて頭の上へ視線を向けた。
星は、今日もそこにあった。
淡く光る、中くらいより少し小さい星。
昨日の朝より大きくなったようには見えない。
でも、さらに小さくなったとも言い切れなかった。
少なくとも今は、変わっていないように見える。
それだけで少しだけ息がしやすくなる。
「おはよう」
声をかけられて、私は顔を上げた。
星野くんが、いつもの調子で立っていた。
「……おはよう」
「今日、ちょっと普通」
「ちょっと普通ってなに」
「昨日までより、ってこと」
「失礼」
「でもよかった」
そう言って笑う。
その笑い方を見た瞬間、私は反射的に思った。
困ったように笑うとき、少しだけ目元がやわらぐ。
思ったあとで、自分で驚く。
昨日ノートに書いたことが、そのまま頭に浮かんだ。
「ちゃんと寝た?」
「少しは」
「少しは、って顔してる」
「顔で判断しすぎじゃない?」
「分かりやすいから」
軽く言われて、私は曖昧に肩をすくめた。
その間にも、どうでもいいことが目に入る。
今日は青いペンを持っている。
机の端にアイスコーヒーを置いている。
友達と話していたときより、今の方が少し声が低い。
そんなこと、覚える必要なんてないはずなのに。
講義が始まってからも、私は何度か無意識に星野くんの方を見てしまった。
もちろん、ずっと見ているわけにはいかない。
そんなことをしたら不自然だし、自分でも嫌だ。
でも、視界の端に入るたびに気づいてしまう。
ノートに書くかもしれない。
その考えが浮かぶたびに、余計に印象が残った。
青いペン。
講義の最初の十分で一回あくび。
途中でもう一回。
最後の方でもう一回。
三回。
私は黒板を見ながら、心の中で数えてしまった自分に呆れる。
何をしているんだろう。
星の変化を見るためのはずだ。
なのに、見ているのはそんなことばかりだった。
講義が終わると、星野くんが後ろから声をかけてきた。
「相沢さん、次の教室行く?」
「行くけど」
「じゃあ一緒に行こ」
断る理由はなかった。
私はノートを鞄にしまって立ち上がる。
廊下に出ると、星野くんは自然に私の隣に並んだ。
この、自然に隣を歩くところも昨日書いたな、と思ってしまう。
「今日、ちょっと元気じゃない?」
「え」
「昨日よりは」
「そうかな」
「うん。少しまし」
また、ましと言う。
「言い方」
「でもほんとに」
「……ならいいけど」
「いいことじゃん」
そう言って笑う横顔を見て、私は少しだけ視線をそらした。
こういう何でもない会話まで、あとで思い出せる気がする。
思い出せてしまう気がする。
それが少し怖くて、少しうれしかった。
次の講義の前、教室の前で少しだけ待つ時間があった。
前にいた男子が星野くんに話しかける。
その流れで、別の子も加わる。
星野くんはいつもの調子で笑いながら返していた。
私は少し離れたところで、その様子を見ていた。
友達が多そう。
昨日ノートに書いた言葉が、また頭に浮かぶ。
女子とも普通に話している。
誰といても変に構えない。
そういうところが、たぶん人を安心させるんだろうと思う。
そう考えたところで、胸の奥が少しだけざわついた。
何にざわついたのか、自分でもよく分からない。
昼休み、私はひとりで学食へ向かった。
今日はたまたま時間が合わなかっただけなのに、少しだけ物足りない。
そんなふうに思ってしまう自分が面倒だった。
席に座って味噌汁を飲みながら、私はぼんやり朝からのことを思い返す。
青いペン。
三回のあくび。
アイスコーヒー。
友達と笑っていたこと。
自然に隣を歩くこと。
どれも、星とは関係ない。
なのに、ひとつずつちゃんと残っている。
私は箸を置いて、小さく息をついた。
これじゃ、ただ見ているだけだ。
観察というより、覚えてしまっている。
その違いを考えた瞬間、少しだけ落ち着かなくなった。
午後の講義が終わったあと、教室を出ようとしたところで、後ろから軽く肩をつつかれた。
「相沢さん」
「なに」
「これ、落ちそうだった」
振り返ると、星野くんが私のペンケースを持っていた。
鞄の口から半分ほど飛び出していたらしい。
「あ」
「気づいてなかったでしょ」
「……気づいてなかった」
「はい」
差し出されたペンケースを受け取る。
そのとき、指先が少しだけ触れた。
たったそれだけのことなのに、変に意識してしまって、私はすぐに視線を落とした。
「ありがと」
「どういたしまして」
「よく見てるね」
「相沢さんが危なっかしいだけじゃない?」
からかうみたいに言われて、私は少しだけむっとする。
「そんなことないけど」
「あるよ」
「ない」
「あるって」
そんなやり取りをしているうちに、星野くんが笑う。
私もつられて少しだけ笑ってしまった。
その瞬間、私はまた思う。
こういうのも、書くんだろうか。
ペンケースを拾ってくれたこと。
指先が少し触れたこと。
笑って終わったこと。
そんなことまで書き始めたら、本当にきりがない。
でも、たぶん夜になったら思い出す。
帰り道は別々だった。
それなのに、駅まで歩くあいだも、私はさっきのことを何度も思い返していた。
たった一日なのに、覚えていることが多すぎる。
家に帰って夕飯を食べて、部屋に戻る。
机の前に座ると、昨日買ったばかりのノートがそこにある。
私は少しだけ迷ってから、星野ノートを開いた。
今日のことを書こうと思った。
最初に書いたのは、星のことじゃなかった。
今日は青いペンだった。
講義中、三回あくびをしていた。
友達と笑っていた。
今日は飲み物がアイスコーヒーだった。
ペンケースを拾ってくれた。
……指先が少し触れたことは、
書かなかった。
そこまで書いて、私は手を止めた。
「……何を書いてるんだろう」
思わず、ひとりで呟く。
星のことを書くために始めたはずだった。
変化を見逃さないために、必要だと思ったはずだった。
なのに今日も、星のことは最後まで書かなかった。
私はページのいちばん下に、小さく書き足す。
星 変化なし。
それだけ。
たった五文字。
なのに、一ページのほとんどは星野くんのことだった。
私はペンを置いて、少しだけ笑ってしまう。
「……意味ないじゃん」
そう呟いたのに、
次のページには、もう明日のための空白が待っていた。
明日は、何を書くんだろう。
そう考えた自分に気づいて、私はそっとノートを閉じた。




