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第19話 星野ノート

 次の日の帰り、私は駅前の文房具店に寄った。


 昨日の夜、明日ノートを買おうと決めたくせに、店の前まで来ると少しだけ足が止まった。


 ただノートを一冊買うだけだ。

 それだけのことなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。


 自動ドアが開いて、冷房の涼しい空気が頬に触れる。

 私はそのまま、まっすぐノート売り場へ向かった。


 大学で使うようなリングノート。

 表紙の硬いシンプルなノート。

 罫線の幅が広いもの、狭いもの。

 色つきの表紙、真っ白な表紙。


 こんなに種類があるんだ、とどうでもいいことを思う。


 どれでもいいはずだった。

 書ければ、それでいいはずだった。


 なのに、なかなか手が伸びない。


 かわいすぎるのは違う気がした。

 派手な色も違う。

 安っぽすぎるのも嫌だったし、逆に立派すぎるのも大げさに思えた。


 私は棚の前で何冊も手に取っては戻した。


 何をそんなに迷っているんだろう、と自分でも思う。


 星のノートを作ったときは、こんなふうじゃなかった。

 家にあった使いかけではないノートを、そのまま使い始めただけだった。


 でも今回は違う。


 最初から、星野くんのことを書くためのノートとして選ぼうとしている。


 そう考えた瞬間、胸の奥がまた少しだけ鳴った。


 私は小さく息を吐いて、棚の端にあった一冊を手に取る。


 薄いグレーの表紙。

 余計な柄はなくて、手触りだけが少しやわらかい。

 大きすぎず、小さすぎず、鞄にも入れやすそうだった。


 たぶん、こういうのでいい。


 いや、こういうのがよかったのかもしれない。


 私はそれを持ってレジへ向かった。


 会計を済ませて店を出ると、ビニール袋の中でノートの角がかすかに当たる感触がした。

 それだけで、もう後戻りできない気がした。


 家に帰るまで、私は何度も袋の中を確かめたくなった。

 ちゃんとそこにあると分かっているのに、落ち着かなかった。


 夕飯を食べて、部屋に戻って、机の上を片づける。

 星のノートを左に置いて、新しく買ったノートを右に置いた。


 二冊が並ぶ。


 それだけのことなのに、しばらく見ていられた。


 片方は、星のことを書くためのノート。

 もう片方は、星野くんのことを書くためのノート。


 並べてしまうと、思っていたよりずっとはっきりして見えた。


 私は椅子に座って、新しいノートの表紙をそっと撫でた。

 まだ折り目もなくて、角もきれいで、紙の匂いが少しだけ新しい。


 開こうとして、手が止まる。


 何を書けばいいのか分からないわけじゃない。

 むしろ、書けることが多すぎた。


 初めてちゃんと話した日のこと。

 同じ講義を取っていること。

 よく一緒にいる友達のこと。

 笑うと少し目元がやわらぐこと。

 何でもないふうに、さりげなく人を気づかうこと。


 ひとつ思い出すたびに、次が浮かぶ。


 こんなに覚えていたんだ、と私は思った。


 星の変化を知るためだ。

 止める方法を見つけるためだ。


 そう思っているのに、

 頭に浮かぶのは観察記録というより、私が見てきた星野くんそのものだった。


 私はペンを持って、最初のページの上で少し迷ったあと、小さく書いた。


 星野ノート


 その下に、少し間を空けて書く。


 星野くん


 たったそれだけの文字なのに、書いたあとで急に恥ずかしくなった。

 誰に見せるわけでもないのに、私は反射的に部屋のドアの方を見た。


 もちろん誰もいない。


 私は小さく息をついて、次の行に書き始めた。


 第一印象。


 そこまで書くと、少しだけ楽になった。

 見出しをつけてしまえば、あとは埋めていけばいい。


 私は考えながら、ゆっくり箇条書きを並べていく。


 よく笑う。

 話しかけやすい。

 距離の詰め方が自然。

 押しつけがましくない。


 書いてから、少しだけ首をかしげる。


 こんなものだっただろうか。

 いや、たぶん間違っていない。


 最初にちゃんと話したときから、星野くんは不思議なくらい自然だった。

 近すぎないのに遠くない。

 気を遣わせる感じがないのに、ちゃんと気を遣っている。


 私は次の見出しを書く。


 話し方。


 相手の返事を急がせない。

 無理に聞き出さない。

 「言いたくないならいいよ」と言える。

 軽く冗談を言って空気をやわらげる。


 書きながら、昨日のカフェでの会話を思い出す。


 何があったの、と聞きながら、

 でも言いたくないなら無理には聞かないと言えたこと。

 心配していると、まっすぐ言えたこと。


 ああいうところが、ずるいと思う。


 やさしいのに、押しつけがましくない。

 踏み込みすぎないのに、ちゃんと近くに来る。


 私は少し迷ってから、次の見出しにした。


 よく言うこと。


「なんでもない顔じゃないけど」

「今日も変」

「寝不足?」

「ひとりで抱えすぎないで」

「言えないなら、言えるところだけでもいいんじゃない」


 並べてみると、思っていたよりたくさんあった。


 こんなふうに言われたことを、私はいちいち覚えていたらしい。


 その事実に、自分で少し驚く。


 次は、性格。


 やさしい。

 よく気がつく。

 人を安心させる。

 相手のペースを尊重する。

 困っている人を放っておけない。


 書いてから、私はペン先を止めた。


 困っている人を放っておけない。


 それはたぶん、本当にそうだ。

 だから昨日も、今日も、私に声をかけてくれた。


 もし私が何も抱えていない顔をしていたら、

 あんなふうに気にかけてくれただろうか。


 そんなことを考えてしまって、胸の奥が少しだけ沈む。


 すぐに、そんなことを考えるのは違うと思い直す。

 気にかけてくれたことに変わりはない。

 それだけで十分なはずだ。


 私は気持ちを切り替えるように、次の見出しを書いた。


 しぐさ。


 困ったように笑う。

 少し首をかしげる。

 ペットボトルを膝の上で回す。

 ドアを押さえて待っていてくれる。

 自然に隣を歩く。


 ここまで来て、私は思わず手を止めた。


 こんなことまで書く必要があるんだろうか。


 でも、必要ないとも言い切れなかった。


 星の変化に関係があるかもしれない。

 行動の癖や、気分の出方に何か手がかりがあるかもしれない。


 そう自分に言い聞かせる。


 けれど本当は、そういう細かいところまで覚えている自分に、少し戸惑っていた。


 私はページを少し見つめてから、次の見出しへ進んだ。


 一緒にしたこと。


 学食。

 ベンチで話した。

 講義へ一緒に移動。

 カフェでお茶。

 駅まで一緒に歩いた。

 本屋で待ち合わせ。

 公園を散歩。


 書いていくうちに、胸の奥が静かにあたたかくなる。


 どれも特別な出来事ではない。

 誰かに話したら、きっとそれだけのことだと言われるような時間ばかりだ。


 でも私にとっては、どれもちゃんと残っていた。


 学食で向かいに座ったこと。

 ベンチで何でもない話をしたこと。

 講義の移動中に、少しだけ歩幅を合わせてくれたこと。

 カフェで向かい合って座ったとき、近いと思って落ち着かなかったこと。

 駅までの道で、また明日と言われたこと。


 書き足そうとして、私はやめた。


 細かく書き始めたら、たぶん止まらない。


 私は次の見出しを書く。


 気になったこと。


 女子から普通に話しかけられていた。

 友達が多そう。

 「悩みは多少ある」と言っていた。

 私のことを心配してくれている。


 最後の一行を書いたところで、また少しだけ手が止まる。


 私のことを心配してくれている。


 それは事実のはずなのに、文字にすると妙に落ち着かなかった。

 うれしいような、恥ずかしいような、でも簡単に消したくないような気持ちになる。


 私はそのまま次の見出しへ進んだ。


 星について。


 初めて確認したときは中サイズ。

 翌日、少し小さくなっていた。

 カフェで一瞬揺れたように見えた。

 原因はまだ分からない。


 ここだけ急に、いつもの記録に戻った気がした。


 私は少しだけ安心する。

 やっぱりこれは調べるためのノートでもあるのだと、自分に言い聞かせられるからだ。


 その下に、仮説と書く。


 時間で変化する?

 人と話すと変わる?

 感情と関係がある?

 悩みと関係がある?

 私と話しても変わる?


 最後の一行を書いた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 私と話しても変わる?


 それは、ずっと考えないようにしていたことだった。


 もし私といることで、あの星が小さくなるのだとしたら。

 もし私が近くにいることが、何か悪い方へ働いているのだとしたら。


 そう思うだけで、息が苦しくなる。


 でも、書かなければいけないと思った。

 怖いからこそ、見ないふりはできなかった。


 私は少しだけペンを握り直して、ページの下の余白に新しく見出しを書いた。


 今日思ったこと。


 そこから先は、さっきまでみたいに箇条書きでは書けなかった。


 星を見るのが怖い。


 でも、

 会わない時間のほうがもっと怖い。


 ただ一緒に歩くこと。

 くだらないことで笑うこと。


 そんな時間まで失ってしまうのは嫌だ。


 書き終えたあと、私はしばらくその文字を見つめていた。


 少し書きすぎた気がした。

 観察ノートに書くことじゃない気もした。


 でも、消したくはなかった。


 それはたぶん、今日いちばん本当のことだった。


 私はページをめくろうとして、やめた。


 まだ書けていないことがある気がした。


 でも、それをどう書けばいいのか分からない。


 笑うと安心すること。

 一緒にいると息がしやすいこと。

 沈黙でも気まずくならないこと。

 どうでもいい話ができること。


 そういうことは、観察とは少し違う気がした。


 書いてしまったら、何か別のものになってしまう気がして、まだ怖かった。


 私はその代わり、ページのいちばん下に小さく書いた。


 まだ書けていないことがある。


 それだけ書いて、ペンを置く。


 肩の力が抜けて、私は背もたれに体を預けた。


 思っていたよりたくさん書いた。

 それなのに、まだ足りない気もした。


 書けば書くほど、自分が思っていた以上に星野くんのことを見ていたのだと分かる。

 何を言われたか。

 どんなふうに笑ったか。

 どこで一緒にいたか。


 そんなことばかり、するすると出てくる。


 止める方法を見つけるため。

 星の変化を見逃さないため。


 そう思って始めたはずなのに、

 このノートはもう、それだけのためのものじゃない気がした。


 私はそっとノートを閉じた。


 表紙の上に手を置いてから、左にある星のノートへ視線を移す。

 それからもう一度、新しいノートを見る。


 二冊が並んでいる。


 星のノートと、星野ノート。


 その並びは少しおかしくて、少し恥ずかしくて、

 でも目をそらしたくないくらい、きれいだった。


 私は机の上の二冊を、指先で少しだけ揃えた。


 ぴたりと端がそろう。


 それだけで、胸の奥が静かに鳴った。


 何をしているんだろう、と自分でも思う。

 大げさだし、変だし、たぶん誰にも言えない。


 それでも、こうして並べておきたかった。


 明日もまた、何か書くかもしれない。

 書かないかもしれない。

 でも、もうこのノートはここにある。


 私は部屋の明かりの下で、しばらく二冊を見ていた。


 そのうちの一冊が、誰かの頭の上にある星のためではなく、

 たったひとりのことを書くためにあるのだと思うと、

 胸の奥が少しだけ熱くなった。


 まだ、その意味に名前はつけられなかった。


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