表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/40

第18話 気のせいじゃない

 昨夜、家に帰ってから、私は机の引き出しの奥にしまっていたノートを取り出した。


 星のことを書くためのノートだった。


 最初は、ただ気になったことを忘れないようにするためだった。

 誰の頭の上に星があったか。

 大きさはどうだったか。

 そのとき何があったか。


 でも昨日は、ページを開く手が少し震えた。


 白い紙の上に、ゆっくり書く。


 星野くんの頭の上に、星が現れた。


 書いた文字を見つめるだけで、胸の奥がざわついた。


 現れた、なんて書き方をしたけれど、

 本当は昨日初めて現れたとは限らない。


 私が昨日、初めて見つけただけかもしれない。


 そう思うと、息が詰まりそうになった。


 少し迷ってから、私はその下にもう一行書き足した。


 大サイズではない。中サイズ。

 小サイズではなかった。


 その二つを並べた途端、昨日感じた失望と安堵が、そのまま胸の中によみがえった。


 最初から中くらいだったことが怖かった。

 でも、小さすぎなかったことに少しだけほっとしてしまった。


 安心していいことじゃないのに。


 さらに、ペン先を止めたまま考える。


 さっきより少し小さく見えた気がした。


 そこまで書いて、私は手を止めた。


 気がした、だけだ。

 見間違いかもしれない。

 光の加減だったのかもしれない。


 それでも書かずにはいられなかった。


 もし本当に変化しているなら、忘れたくなかった。


 ノートを閉じたあとも、私はしばらく眠れなかった。


 目を閉じるたびに、星野くんの頭の上にあった中くらいの星が浮かぶ。


 どうして星野くんなんだろう。

 どうして、あんなものがあるんだろう。


 答えのない問いを抱えたまま、浅い眠りに落ちて、

 次の日の朝、教室に入った瞬間、私は無意識に星野くんを探していた。


 窓際の後ろの席。

 まだ講義が始まる前で、何人かと話している姿が見える。


 見つけた途端、胸の奥がひやりとした。


 私はすぐには頭の上を見られなかった。


 昨日のあれが気のせいだったならいい。

 立つ位置や光の加減で、そう見えただけならいい。


 そう思っていたはずなのに、

 いざ確かめるとなると、怖かった。


 鞄を机に置いて、ノートを出すふりをする。

 そのまま何気ない顔で視線を上げた。


 星は、あった。


 昨日と同じ場所。

 淡く光る、あの星。


 そして――


 私は息を止めた。


 小さくなっていた。


 昨日見た中くらいの大きさより、ほんの少し。

 でも、見間違いじゃないと思えるくらいには、確かに。


 胸の奥が、すうっと冷えていく。


 気のせいじゃなかった。


 昨日の違和感は、やっぱり違和感なんかじゃなかった。


 私は視線を落とした。

 手のひらがじんわり汗ばんでいる。


 どうしよう。


 その言葉しか浮かばなかった。


 どうしよう。

 どうしよう。


 講義が始まっても、私はほとんど内容が頭に入らなかった。

 黒板の文字を写しているふりをしながら、頭の中では別のことばかり考えていた。


 何が原因なんだろう。


 誰かと話すと減るのか。

 時間が経つだけで減るのか。

 それとも、もっと別の何かがあるのか。


 昨日、女子と話していたとき、一瞬小さく見えた。

 でもあれは本当にそうだったのか、まだ分からない。


 分からないことだらけなのに、

 星だけは確かに小さくなっている。


 それがいちばん怖かった。


 講義が終わると同時に、私はノートを閉じた。


「相沢さん」


 声をかけられて、肩が跳ねる。


 顔を上げると、星野くんが立っていた。


「今日もすごい顔してる」

「すごい顔ってなに」

「難しいこと考えてる顔」

「……普通の顔だけど」

「いや、違う」


 少し笑いながら言われる。

 その笑い方がいつも通りで、私は少しだけ苦しくなった。


 頭の上の星も、今は変わらずそこにある。

 でも、次に見たときまた小さくなっていたらどうしようと思うと、まともに息ができない。


「次、移動だっけ」

「うん」

「一緒に行く?」

「……うん」


 断る理由なんてなかった。

 むしろ、少しでも近くにいたかった。


 近くにいたいと思うほど、怖くなるのに。


 廊下を並んで歩く。

 私は何度も横目で星野くんを見そうになって、そのたびにこらえた。


 頭の上の星を見るのが怖い。


 見れば、また小さくなっているかもしれない。

 何か決定的な変化に気づいてしまうかもしれない。


 そう思うたびに、少しだけ距離を取りたくなる。


 でも、距離を取れば、そのぶん星野くんと話す機会も減る。


 もしあの星が、本当に最悪な何かの前触れだったら。

 もし何もできないまま、会わない時間のあいだにも小さくなっていくのだとしたら。


 そんなの、あまりにも嫌だった。


 ただ一緒に歩くこと。

 どうでもいいことで言い合うこと。

 短い会話の中で、少しだけ笑うこと。


 そういう些細な時間が、今は前よりずっと大事に思えた。


「相沢さん」

「なに」

「今日、ほんとに寝不足?」

「まだそれ言うの」

「だって昨日よりひどい」

「ひどいって失礼」

「じゃあ、深刻」

「それも嫌」


 星野くんが笑う。

 私も少しだけ口元をゆるめた。


 こんなふうに話している時間が好きだと思う。

 そう思ってしまうことが、今は前よりずっとはっきりしていた。


 教室に着く直前、前を歩いていた男子が振り返って星野くんに声をかけた。


「星野、昨日の課題やった?」

「あー、半分くらい」


 二人はそのまま少しだけ立ち止まって話し始める。


 私は少し離れた場所で、それを待った。


 見たくないのに、見てしまう。


 星を見上げる。


 今すぐ変わるわけじゃない。

 そう思いたかった。


 でも、見ているだけで胸がざわつく。

 何かが起きる気がして、落ち着かない。


 結局、その場では何も変わらなかった。


 少なくとも、私にはそう見えた。


 それなのに安心できないのは、

 朝見たとき、もう昨日より小さくなっていたからだ。


「ごめん、待たせた」

「別に待ってない」

「待ってたでしょ」

「……少しだけ」

「正直」


 また笑う。

 そのたびに、胸の奥がやわらかくなって、同時に痛くなる。


 昼休み、私はひとりで学食に向かった。


 今日は星野くんに用事があるらしく、一緒ではなかった。

 少しほっとして、少し寂しい。


 自分でも面倒なくらい、気持ちが揺れる。


 トレーを持って空いている席に座り、私はぼんやり味噌汁を見つめた。


 考えなきゃいけない。


 昨日までは、止めたいと思っただけだった。

 でも今日は違う。


 もう本当に小さくなっている。


 だったら、何か法則があるはずだ。


 私は箸を置いて、頭の中を整理する。


 まず、星が見える人と見えない人がいる。

 たぶん見えているのは私だけだ。


 次に、星には大きさがある。

 大きいものもあれば、小さいものもある。


 そして、少なくとも星野くんの星は小さくなった。


 問題は、何がそれを起こしているのかだ。


 時間。

 会話。

 感情。

 人との関わり。

 それとも、もっと別の何か。


 考えれば考えるほど分からなくなる。


「相沢さん?」


 不意に声をかけられて、私は顔を上げた。


 同じゼミの女子が、トレーを持って立っていた。


「ここ、いい?」

「あ、うん」


 向かいに座られて、私は慌てて表情を整える。


「なんか今日、ぼーっとしてない?」

「……してるかも」

「珍しいね」

「ちょっと寝不足で」

「また?」


 また、という言葉に少しだけ苦笑する。


 みんな同じことを言う。

 それだけ分かりやすいのかもしれない。


 適当に会話を合わせながらも、頭の中では別のことを考えていた。


 もし、人と話すことが関係あるなら。

 もし、誰かと関わるたびに減るんだとしたら。


 じゃあ、私と話しているときも減るんだろうか。


 その考えが浮かんだ瞬間、息が詰まった。


 嫌だ、と思った。


 もしそうなら、私は星野くんのそばにいたいのに、

 いることで何かを減らしてしまうことになる。


 そんなの、嫌だった。


 昼休みが終わって教室に戻る途中、私は廊下の窓に映る自分の顔を見た。


 ひどい顔だった。


 不安で、焦っていて、たぶん少し泣きそうで。


 こんな顔のままじゃ駄目だと思うのに、どうにもならない。


 午後の講義が終わるころには、頭が重くなっていた。


 帰り支度をしていると、星野くんがまた近づいてくる。


「相沢さん、今日このあとまっすぐ帰る?」

「たぶん」

「そっか」


 少しだけ間があく。


「……なに」

「いや、もし時間あったら、お茶でもどうかなと思って」

「お茶?」

「うん。昨日も今日もずっと変だから」


 変、という言葉に少しだけむっとしそうになって、

 でもそのあとに続く視線がやさしくて、何も言えなくなる。


「心配してる」

「……」

「迷惑ならやめるけど」


 そんなふうに言われたら、断れるわけがなかった。


「迷惑じゃない」

「じゃあ、行こっか」


 大学の近くの小さなカフェに入る。

 窓際の席に向かい合って座ると、私は少しだけ落ち着かなくなった。


 近い。


 こんなふうに二人でいるだけで、胸がうるさくなる。

 なのに今日は、それだけじゃない。


 頭の上の星が気になって仕方ない。


「で」

「……で?」

「何があったの」


 やわらかい声だった。

 責めるみたいじゃなくて、ただ待ってくれる声。


 私はカップに視線を落とした。


「何もない」

「それは嘘」

「……」

「言いたくないなら、無理には聞かない」

「うん」

「でも、相沢さんがしんどそうなのは分かるから」


 胸の奥が、また少し痛くなる。


 どうしてそんなふうに言うんだろう。

 やさしくされるたびに、余計に苦しくなる。


「……ひとつ、聞いていい?」

「いいよ」

「星野くんって、最近つらいことあった?」

「え?」


 今度は、星野くんが少し驚いた顔をした。


「つらいこと?」

「……とか、悩んでることとか」

「なんでまた急に」

「気になっただけ」


 昨日と同じ言葉だった。

 でも今日は、自分でも分かるくらい声が弱かった。


 星野くんは少し黙って、それから困ったように笑う。


「なくはないけど」

「……あるの?」

「そりゃ、多少は」

「そうなんだ」


 胸がざわつく。


 多少、って何。

 それが関係あるの。

 どのくらい。

 いつから。


 聞きたいことは山ほどあるのに、どれもそのままでは聞けない。


「でも、みんなそんなもんじゃない?」

「……そうかも」

「相沢さんこそ、なんでそんなこと聞くの」


 私は答えられなかった。


 答えられないまま黙っていると、星野くんの表情が少しだけやわらかくなる。


「もしかして」

「え」

「俺のこと、心配してくれてる?」


 その言葉に、心臓が跳ねた。


「……っ」

「違う?」

「ちが、違わないけど」

「どっち」


 少し笑っているのに、目はちゃんとこっちを見ている。


 逃げられない、と思った。


「……心配、してる」

「そっか」


 星野くんはそれ以上からかわなかった。

 ただ、少しだけうれしそうに笑った。


 その顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなる。


 うまく息ができなかった。


 心配している、だけじゃない気がした。

 でも、それが何なのかは、まだ言葉にできなかった。


 ただ、あの星のことになると、

 私は自分で思っているよりずっと簡単に揺れてしまう。


 それだけは、もう分かっていた。


「ありがとう」

「……別に」

「うれしい」


 そんなことをまっすぐ言われてしまって、私は視線をそらす。


 そのときだった。


 頭の上の星が、ふっと揺れた気がした。


 私は息を止める。


 見間違いかもしれない。

 でも、昨日みたいな曖昧さじゃなかった。


 ほんの少しだけ。

 けれど確かに、星の輪郭がやわらいだように見えた。


「相沢さん?」


 呼ばれて、私ははっとする。


「どうしたの」

「……なんでもない」


 またそれを言ってしまう。


 でも今のは、本当に何でもなくなかった。


 揺れた。

 星が。


 小さくなったのかどうかまでは分からない。

 でも、何かが反応した。


 今の会話に?

 私の言葉に?

 それとも、別の何かに?


 分からない。

 分からないけど、初めてただ怖いだけじゃない感覚が胸に残った。


 もしかしたら、手がかりになるかもしれない。


 帰り道、駅までの道を並んで歩きながら、私は何度もそのことを思い返していた。


 朝見たとき、星は確かに小さくなっていた。

 それはもう気のせいじゃない。


 でもさっき、揺れた。


 あれが悪い変化なのか、違うのかは分からない。

 それでも、ただ減っていくだけじゃないのかもしれない。


「相沢さん」

「なに」

「今日は少しだけ顔がましになった」

「ましってなに」

「さっきより、ってこと」

「失礼」

「でもよかった」


 そう言って笑う横顔を見て、私はまた胸が苦しくなる。


 守りたい、と思った。


 そんな言葉、今まで自分の中にあったか分からない。

 でも今は、それがいちばん近かった。


 星を見るのは怖い。


 見れば、また小さくなっているかもしれない。

 そのたびに、何かが削れていくみたいで息が苦しくなる。


 だから、いっそ見ない方が楽なのかもしれないと思うこともあった。


 でも、見ないようにするということは、

 星野くんと会う機会まで減らしてしまうということだった。


 もし本当に、あの星が最悪な事態の前触れなら。

 もし会わないままでも、時間だけで小さくなっていくのなら。


 何も知らないまま、

 何もできないまま、

 会えるはずだった時間まで失ってしまうことになる。


 そんなのは嫌だった。


 たとえ短い会話でもいい。

 くだらないやり取りでもいい。

 同じ方向に少し歩くだけでもいい。


 そういう時間ひとつひとつが、

 今はもう、簡単に過ぎていくものには思えなかった。


 駅の前で別れるとき、星野くんが軽く手を振る。


「また明日」

「……うん。また明日」


 その一言が、今日はいつもよりずっと大事に聞こえた。


 明日もちゃんと会いたい。

 明日もその星を見たい。

 明日も、まだ間に合うと思いたい。


 家に帰ったあと、私はノートを開いた。


 今日のことを書かなきゃいけないと思った。


 朝、星が昨日より小さくなっていたこと。

 カフェで、星の輪郭が揺れたように見えたこと。

 それが何を意味するのかは、まだ分からないこと。


 ひとつずつ書き留めながら、私は何度もペンを止めた。


 断片ばかりだった。


 見たこと。

 気づいたこと。

 引っかかったこと。


 それだけを書いていても、足りない気がした。


 止める方法を考えるなら、

 もっとちゃんと知らなきゃいけない。


 星のことだけじゃない。

 星野くんのことを。


 いつ、誰と、どんなふうに過ごしているのか。

 どんなときに笑って、どんなときに黙るのか。

 何に困って、何を気にしないのか。


 そういうことを、ちゃんと整理しないといけない気がした。


 私は机の上にあるノートを見つめる。


 星のことを書くためのノート。


 それとは別に、

 もう一冊、作った方がいいのかもしれないと思った。


 星野くんのことを書くためのノート。


 そう考えた瞬間、胸の奥がどくんと鳴る。


 大げさだと思った。

 そこまでするのか、と自分でも思った。


 でも、必要だった。


 止める方法を見つけるために。

 変化を見逃さないために。

 星野くんのことを、ちゃんと知るために。


 そう自分に言い聞かせても、

 それだけじゃない気がしてしまう。


 私はそっと、今使っているノートの隣に手を置いた。


 ここに、もう一冊並ぶことを想像する。


 星のノートと、

 星野くんのためのノート。


 その並びを思い浮かべただけで、

 怖さとは違う熱が胸の奥に灯った。


 明日、ノートを買おう。


 そう決めた瞬間、

 私はもう後戻りできない気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ