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第17話 星野くんと星

 次の日の昼休み、私は講義室を出たところで足を止めた。


 少し先の廊下に、星野くんがいた。


 友達らしい男子と立ち話をしている。

 それだけなら、いつもと変わらない光景だった。


 なのに、その頭の上を見た瞬間、息が止まりそうになった。


 星があった。


 見間違いじゃない。

 淡く光る、小さな星。


 ――違う。


 小さくは、ない。


 私は思わず目を凝らした。


 大きくもない。

 けれど、あまりにもはっきりそこにある。


 中くらいだった。


 そのことに、胸の奥が冷たくなる。


 最初から、そこだったのかもしれない。

 それとも、私が気づく前に、もう小さくなっていたのかもしれない。


 遅かった、と思った。


 けれど次の瞬間、それが小さすぎないことに気づいて、私はひどく身勝手な安堵を覚えた。


 まだ、なくなりそうなほどではない。


 そう思ってしまった自分が嫌だった。

 安心していいはずがないのに。


「相沢さん?」


 名前を呼ばれて、肩が跳ねた。


 顔を上げると、いつの間にか星野くんがこっちを見ていた。

 さっきまで話していた男子は、もう別の方へ歩いていっている。


「どうしたの。そんなとこで固まって」


 私はとっさに首を振った。


「……なんでもない」

「なんでもない顔じゃないけど」

「星野くんこそ、急に近づかないで」

「いや、相沢さんが止まってたからでしょ」


 少し笑いながら言われて、私はうまく言い返せなかった。


 頭の上の星は、まだそこにある。


 見ないようにしたいのに、見てしまう。

 見れば見るほど、胸の奥がざわついた。


「昼、これから?」

「え」

「学食行くなら一緒にどうかなって」


 いつも通りの声だった。

 やわらかくて、気負いがなくて、断られることをあまり前提にしていない言い方。


 その普通さが、今は少しだけ苦しい。


「……行く」

「よかった」


 星野くんが笑う。

 その笑顔の上に星があることが、ひどく嫌だった。


 並んで歩き出す。

 私はできるだけ自然にしようとしたけれど、たぶん全然できていなかった。


「相沢さん、今日も元気ない?」

「今日“も”ってなに」

「昨日からちょっと変」

「変って言わないで」

「じゃあ、落ち着かない感じ」

「それも嫌」

「注文多いなあ」


 そんなやり取りに、少しだけ救われる。


 でも、救われるたびに苦しくなる。


 こんなふうに普通に話してくれるのに、

 私だけが普通じゃないものを見ている。


 私だけが、星野くんの頭の上にあるものを知っている。


 学食に向かう途中、前から女子二人組が歩いてきた。

 そのうちの一人が星野くんに気づいて、明るい声を上げる。


「あ、星野くん」

「こんにちは」


 星野くんも自然に返す。

 少しだけ立ち止まって、短い会話が交わされる。


 私はそのあいだ、息をするのも忘れそうになっていた。


 星を見ていた。


 ――あれ。


 ほんの一瞬、さっきより少しだけ小さくなったように見えた。


 気のせいかもしれない。

 立つ位置が変わったせいかもしれないし、光の加減かもしれない。


 なのに、胸の奥がひやりとした。


 違う、と思いたかった。

 見間違いであってほしかった。


「相沢さん?」


 また名前を呼ばれて、私ははっとする。


 女子たちはもう行ってしまっていた。

 星野くんが不思議そうに私を見ている。


「大丈夫?」

「……うん」

「ほんとに?」

「ほんと」


 反射みたいに答えたけれど、自分の声が少しかたかった。


 星野くんは少しだけ眉を寄せた。

 でも、それ以上は何も言わなかった。


 そのやさしさが、今はありがたいのに痛い。


 学食についても、私は落ち着かなかった。

 トレーを持つ手に力が入らなくて、危うく味噌汁をこぼしそうになる。


「危ない」

「……ごめん」

「いや、俺に謝ることじゃないけど」


 向かい合って座っても、私は何度も星野くんの頭上を見てしまう。

 もちろん本人は気づかない。

 気づくはずがない。


 でも、私の視線の不自然さには気づいているかもしれなかった。


「相沢さん」

「なに」

「さっきから、なんか変だよ」

「だから変って言わないで」

「じゃあ……上の空」

「それも似たようなものでしょ」

「でもほんとに。大丈夫?」


 大丈夫じゃない。


 そんなの、自分がいちばん分かっていた。


 目の前にいる星野くんは、いつも通りに見える。

 ちゃんと笑うし、普通に話すし、どこか具合が悪そうにも見えない。


 なのに、頭の上には星がある。


 どうして。

 何が起きているの。

 どうして星野くんなの。


 聞けるわけがない問いが、頭の中で何度もぶつかる。


「……ごめん」

「謝らなくていいって」

「ちょっと、考えごとしてるだけ」

「昨日も言ってたね」

「そうだっけ」

「言ってた」


 星野くんが少しだけ笑う。

 その笑い方がやさしくて、胸の奥がきゅっと縮む。


 こんなときに、そんなふうに笑わないでほしいと思った。

 もっと苦しくなるから。


「そんなに難しいこと?」

「え?」

「考えごと」

「……うん」

「そっか」


 それだけ言って、星野くんは箸を持ち直した。


 無理に聞かない。

 でも、放っておくわけでもない。


 その距離感が、ずるいと思う。


 私はうつむいて、ごはんをひと口だけ食べた。

 味がよく分からなかった。


 もし本当に何かが起きているなら。

 もしあの星に意味があるなら。


 どうしたら止められるんだろう。


 その考えが浮かんだ瞬間、自分でも少し驚いた。


 今まで私は、見える星の意味を知りたいと思っていた。

 何なのか分かりたかった。

 どうして見えるのか、知りたかった。


 でも今は違う。


 知りたいんじゃない。

 止めたい。


 星野くんの頭の上にあるあの星が、これ以上どうにかなってしまう前に、止めたい。


 その気持ちは、考えるより先に胸の中にあった。


 理由なんて、もう分かっていた。


 分かりたくないのに、分かってしまう。


 星野くんが笑うたびに安心して、

 少し黙るだけで気になって、

 こうして向かいに座っているだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。


 たぶん私は、思っていたよりずっと前から、星野くんのことを特別に見ていた。


 だから怖い。


 星がどうなるのか分からないことも。

 そのことにこんなに動揺している自分も。


「相沢さん、ほんとに無理してない?」

「……してない」

「それ、たぶん嘘」

「う」


 言葉に詰まると、星野くんは少し困ったように笑った。


「言いたくないならいいけど」

「……うん」

「でも、ひとりで抱えすぎないで」


 昨日も聞いた言葉だった。

 同じはずなのに、今日は昨日よりずっと深く刺さる。


 抱えすぎないで、なんて。

 抱えないでいられるなら、そうしたい。


 でもこれは、私ひとりしか見えていない。


 誰にも渡せない。

 誰にも説明できない。


 それでも、ひとりで抱えるには重すぎた。


「……星野くん」

「なに?」


 呼んでから、私は黙った。


 言えることなんて何もなかった。

 止めたい、なんて言えない。

 気をつけて、なんて言っても意味が分からない。

 頭の上に星がある、なんてもっと言えない。


 それでも、何か言わなきゃいけない気がした。


「……なんでもない」

「それ、今日二回目」

「数えてるの」

「なんとなく」


 少し笑って返されて、私は視線を落とした。


 言えない。

 でも、言えないままじゃだめな気もする。


 学食を出たあと、次の講義まで少し時間があった。

 昨日と同じように外のベンチに座る。


 空は明るくて、風はやわらかい。

 こんなに普通の昼なのに、私の中だけ何かが決定的に変わってしまった気がした。


「相沢さん」

「うん」

「今日、ほんとに変」

「結局それ言うんだ」

「だって、さっきからずっと難しい顔してる」

「……してる?」

「してる」


 私はペットボトルを両手で持ったまま、少し黙った。


 頭の上の星は、今もそこにある。

 さっき見たものが気のせいだったならいい。

 そうであってほしい。


「ひとつ聞いていい?」

「いいよ」

「星野くんって」

「うん」

「最近、何か変わったことあった?」

「変わったこと?」

「うん」

「急に言われると難しいな」

「……だよね」

「でも、なんで?」


 私はすぐに答えられなかった。


 なんで。

 そんなの、本当のことを言えるわけがない。


「……ちょっと気になっただけ」

「ふうん」


 私はうつむいた。


 どうしてこんなことを聞いているんだろう。


 何が変わったかなんて、

 本当は星に聞いているみたいなものだった。


 目の奥が少し熱くなる。


 泣くつもりなんてなかった。


 なのに、視界が少しだけ滲んだ。


 私は慌てて瞬きをする。


 泣いたら駄目だ。


 理由なんて説明できない。


 星野くんはそれ以上追及しなかった。

 けれど、完全に納得した顔でもなかった。


 私は唇を結ぶ。


 さっき見たものが、気のせいだったならいい。

 そうであってほしい。


 でも、もし違ったらと思うと、胸の奥が落ち着かなかった。


 何が原因なのか。

 どうしたら止まるのか。

 私にできることはあるのか。


 考えなきゃいけない。


 知られたくない。

 でも、なくなってほしくない。


 その二つの気持ちが胸の中でぶつかって、息が詰まりそうになる。


 ベンチの前を、何人もの学生が通り過ぎていく。

 笑い声も、話し声も、遠く聞こえた。


 その中で、星野くんだけが妙にはっきり見えた。


 見たくないくらい、はっきり。


 好きになってしまうほど、近くて。

 失いたくないと思ってしまうほど、やさしかった。


 私はペットボトルを握る指先に力を込める。


 止める方法を、考えよう。


 意味を知るより先に。

 怖がるより先に。

 まずは、それを見つけなければいけない。


 星野くんの頭の上で淡く光る星を、私はもう見ないふりができなかった。


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