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第16話 知られたくないのに

 次の日になっても、昨日のことは頭から離れなかった。


 講義が始まっても、ノートを開いても、先生の声はうまく耳に入ってこない。

 黒板に書かれていく文字を目で追いながら、私は何度も別のものを思い出していた。


 小さな星。

 誰にも見えていなかった光。

 そして、あの人が誰かと会った瞬間、ほんの少しだけ小さくなった星。


 意味は分からない。


 ノートにそう書いたのに、書いたことで余計に分からなくなった気がした。


 シャープペンを持つ指先に力が入らない。

 気づけば同じ行を二度読んでいて、私は小さく息を吐いた。


「珍しいね。相沢さんが授業中にぼーっとしてるの」


 すぐ横から声がして、肩が跳ねる。


 顔を上げると、星野くんが少しだけ笑っていた。


 いつの間にか講義は終わっていて、教室の中には立ち上がる人の気配が広がっている。

 私は慌ててノートを閉じた。


「……してない」

「してたよ」

「してないって」

「いや、してた。三回くらいため息ついてたし」


 そんなについていたんだ、と自分で少し驚く。


 星野くんは机に肘をつくでもなく、ただ自然に私の隣に立っていた。

 それだけなのに、少しだけ気持ちが落ち着くのが悔しい。


「なんかあった?」


 軽い聞き方だった。

 無理に聞き出そうとする感じじゃなくて、答えたくなければそれでいい、みたいな声だった。


 だから余計に困る。


「……別に」

「別に、の顔じゃないけど」

「そんな顔してた?」

「してた」


 即答されて、私は視線を落とす。


 言えるわけがない。

 知らない人の頭の上に星が見えて、それを追いかけて、最後にその星が小さくなった、なんて。

 そんな話をしたら、困らせるだけだ。


「寝不足?」

「ちょっとだけ」

「ほんとに?」

「ほんとに」


 半分は嘘だった。

 でも全部嘘でもなかった。


 星野くんは少しだけ私の顔を見て、それ以上は聞かなかった。


「じゃあ、昼どうする?」

「昼?」

「次、空きコマでしょ」

「あ……うん」


 そういえばそうだった。

 頭の中が昨日のことでいっぱいで、時間割のことまでちゃんと考えていなかった。


「学食行く?」

「……行く」


 答えると、星野くんは「よかった」と小さく笑った。


 その言い方があまりにも自然で、私は少しだけ戸惑う。

 まるで最初から一緒に行くつもりだったみたいだった。


 でも、嫌じゃなかった。


 むしろ、ひとりでいるよりずっとよかった。


 教室を出て廊下を歩く。

 窓の外は明るくて、昨日のざらついた気持ちだけがそこに取り残されているみたいだった。


 学食は昼前なのにそこそこ混んでいた。

 トレーを持って列に並びながら、私は何を食べるかより、ちゃんと普通に話せるかの方が気になっていた。


「相沢さん、今日ほんとに元気ないね」

「そんなに?」

「うん。朝からずっと変」

「変って言わないで」

「じゃあ、静か」

「それもどうなの」

「でも、怒る元気はあるんだ」

「……ある」


 星野くんが笑う。

 つられて、私も少しだけ笑ってしまう。


 それだけのことなのに、胸の奥の固さが少しゆるむ。


 席を取って向かい合って座ると、星野くんは箸を割りながら言った。


「無理に話さなくていいけどさ」

「うん」

「なんかあったなら、ひとりで抱えすぎないで」


 私は味噌汁のふたを外す手を止めた。


 やさしい言い方だった。

 踏み込まないくせに、ちゃんと気にしているのが分かる言い方。


 そういうところがずるいと思う。


 言えないことがあるのは私の方なのに、

 こんなふうにやさしくされると、余計に隠していることが重くなる。


「……ありがと」

「うん」


 星野くんはそれ以上何も言わず、普通に食べ始めた。

 その普通さに助けられる。


 もしここで「で、何があったの」と重ねられていたら、たぶん私はもっと苦しくなっていた。


 食べながら、どうでもいい話をした。

 講義の課題のこととか、学食の新メニューのこととか、昨日見た動画がくだらなかったとか。

 本当にどうでもいい話ばかりだった。


 でも、そのどうでもよさが心地よかった。


 昨日のことを考えていると、世界のどこかに自分だけ取り残されている気がした。

 誰にも見えないものを見て、誰にも言えないことを抱えているのは、思っていたよりずっと息苦しい。


 なのに今は、ちゃんと同じ場所に座って、同じ時間を過ごしている感じがした。


「やっとちょっと戻った」

「え?」

「顔」

「……そんなに分かりやすい?」

「分かりやすいよ、相沢さん」


 そう言って笑うから、私はまた少しだけ視線をそらす。


 分かりやすいのは、たぶんよくない。

 でも、星野くんにだけは見抜かれてしまう気がする。


 食べ終わったあと、次の講義までまだ少し時間があった。

 そのまま外のベンチに移動して、飲み物を買って座る。


 風が少しだけあって、木の葉が揺れていた。


「昨日、ちゃんと寝た?」

「まだ言うの」

「だってほんとに眠そうだったし」

「寝たよ。一応」

「一応って」

「……ちょっと考えごとしてただけ」

「そっか」


 また、それ以上は聞かない。


 私はペットボトルのラベルを指でなぞりながら、言葉を探した。


 本当のことは言えない。

 でも、何も言わないままでいるのも苦しい。


「なんか」

「うん」

「分からないことがあると、ずっと考えちゃうことない?」

「あるよ」


 星野くんは即答した。


「答え出ないって分かってても?」

「分かってても」

「……疲れない?」

「疲れる」

「じゃあ、どうするの」

「どうもしない」


 思わず顔を上げると、星野くんは少し笑っていた。


「考えちゃうときは考えるしかないし」

「開き直ってる」

「でも、そのうちひとりで考えても無理だなってなる」

「それで?」

「誰かと話す」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ揺れる。


 誰かと話す。

 そんな簡単なことみたいに言うけれど、私にはいちばん難しい。


「話したら、答え出る?」

「出ないことも多い」

「意味ないじゃん」

「意味なくはないよ」


 星野くんはペットボトルを膝の上で軽く回しながら、少しだけ空を見た。


「自分の頭の中だけで考えてると、同じとこぐるぐるするから」

「……」

「言葉にすると、ちょっとだけ整理できたりするし」

「それでも言えないこともあるでしょ」

「あるね」


 その返事が思ったよりやわらかくて、私は黙る。


「言えないなら、言えるとこだけでもいいんじゃない」

「そんな中途半端で?」

「中途半端でいいでしょ。全部ちゃんと話せる人なんて、あんまりいないし」


 私は何も答えられなかった。


 言えないなら、言えるところだけでもいい。


 その言葉はやさしいのに、少しだけ痛かった。

 私はたぶん、言えるところまで自分で閉じてしまっている。


 沈黙が落ちる。

 でも気まずくはなかった。


 風が吹いて、ベンチの横の木がかすかに鳴る。

 遠くで誰かの笑い声がした。


「……ありがと」

「今日は二回目」

「いいでしょ、別に」

「いいけど」


 星野くんが笑う。

 私も少しだけ笑う。


 そのまま次の講義の時間が近づいて、私たちは立ち上がった。


 教室へ戻る途中、私は鞄の中のノートの重さを意識していた。

 昨日書いたページが、そこにある。

 意味は分からない、と書いたページ。


 知られたくないと思う。

 こんなもの、誰にも見せたくない。


 でも同時に、星野くんとこうして並んで歩いている時間が、思っていたよりずっと大事になっていることにも気づいてしまう。


 それが少し怖かった。


 教室の前で、星野くんがドアを押さえてくれる。


「どうぞ」

「……ありがと」

「今日、ありがと多くない?」

「星野くんが言わせてるんでしょ」

「なにそれ」


 笑いながら中に入る。


 席について、鞄を机の横にかける。

 そのとき、口元が少しゆるんでいることに自分で気づいた。


 昨日のことは、まだ何ひとつ分からないままだ。

 怖さも消えていない。

 ノートを開けば、たぶんまた同じところで考え込む。


 それでも、さっきまで星野くんと話していた時間だけは、ちゃんと息がしやすかった。


 講義が始まる前、私は小さく息を吐く。


 知られたくないことがある。

 でも、離れたくもなかった。


 その二つが同時に胸の中にあることを、もうごまかせない気がした。


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