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【火山転生】目覚めたら火山そのものだった〜マグマの力で最強の聖地を作ったら、麓に国ができていました〜  作者: 尾の長い虎(てぃが)
第一章:建国編

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65.火竜王国

 隻眼のオーガを拘束していた玄武岩が、内側から爆ぜた。


 岩の顎が砕け、太い鎖が一本、弾け飛ぶ。金棒へ巻かれていた残りの鎖も、赤熱しながら大きく軋んだ。


「拘束が壊れる!」


 クライスの声が夜気を裂く。


「北側の岩、三つ崩落! 鎖は残り二本です!」


『カザン様!』


『分かってる!』


 俺は隻眼のオーガの足元へ力を集めた。だが、押し上がった岩は膝へ届く前に止まる。


 火山核から送り出したはずの熱が、山体の奥へ引かれていく。


(ヴァル。もう少しだけ返してくれ)


 返事はない。


 代わりに、地の底から大きな鼓動が届いた。


 どくん。


 また、俺の熱が吸い込まれる。


 隻眼のオーガが両腕へ力を込めた。二本目の鎖が切れ、最後の一本へ炎が流れ込む。


 赤く染まった鎖が、中央から溶け落ちた。


 自由になった金棒が持ち上がる。


 隻眼のオーガが、立ち上がった。


 崩れた玄武岩が、その巨体から滝のように落ちていく。傷ついた右脚を庇い、腰から下にはまだ岩の一部が食い込んでいる。


 それでも、もうあいつの動きを止めるものはなかった。


「全員、構えろ!」


 レンの声に、盾の列が上がる。


「御山様の大きな援護はない! 受けられる攻撃だけ受けろ! 無理なら避けろ!」


「どっちなんだ!」


 ハロルドが予備の盾を構えながら叫ぶ。


「見て決めろ!」


「急に難しい!」


「生きて覚えろ!」


(相変わらず教え方が雑だな)


 だが、笑う者はいなかった。


 盾は壊れ、矢は減り、負傷者は増えている。俺も満足に力を使えない。


 その前で、二十年前に倒しきれなかった怪物が、もう一度立ち上がっている。


 ハロルドの隣へ、ガルクが戦斧を担いで立った。


「盾が小さくなった分、逃げるのは速いんだろ」


「お前を置いて逃げてもいいならな」


「それは困る」


「なら、盾の後ろから離れるな」


 短いやり取りを交わし、二人は前を向く。


 高所ではコーレリアが矢をつがえ、その下でクライスが木札を確かめていた。


「第一列、十九人! 弓手十一人! 魔法を扱える者、五人! 欠員なし!」


「治療所は?」


 ジンが尋ねる。


「負傷者二十六人! 動かせない者が四人です!」


「サナ!」


「聞こえています」


 サナはキイナの腕へ濡らした布を巻きながら答えた。


「キイナ様は動かせません。こちらで守ります」


「私は大丈夫です」


「話せることと、動いていいことは別です」


「少しだけなら――」


「駄目です」


「まだ最後まで言ってないよ」


「最後まで聞いても、駄目です」


 キイナが諦めたように息を吐き、少し離れた場所にいる娘へ目を向けた。


「ホムラ」


「分かってる」


 ホムラは神器を両手で握っていた。


 赤い結晶から伸びた柄がしなり、緩やかな弧を描く。赤金色の弦が張られ、神器は迷うことなく弓の形を取っていた。


 まだ完全には扱い慣れていない。


 それでも、ホムラの手の中にある姿は、もう借り物には見えなかった。


 隻眼のオーガの右目が、その光を捉える。


「来るよ」


 コーレリアが告げた。


「真っすぐ、ホムラへ」


「見えてる」


「怖い?」


「怖いよ」


 ホムラが神器を引く。


「でも、逃げたいとは思わない」


 隻眼のオーガが吠えた。


 周囲で待っていた魔物たちが一斉に立ち上がる。獣型。小鬼型。猪に似た魔物。


 森の左右から、再び火守村へ向かって走り出した。


「中央を空けろ!」


 ジンが木板の前から指示を飛ばす。


「隻眼のオーガとホムラの間へ入るな! 小型だけ左右へ分けろ!」


「右から七体!」


 クライスが数える。


「左は九体! 後方にも続いています!」


 ハロルドが盾を前へ出し、ガルクの戦斧がその横から伸びる。


 獣型が飛びかかる。ハロルドが受け、ガルクが戦斧の柄で胴を打った。


 斬ってその場へ倒せば、後続が射線を塞ぐ。


 だから、横へ飛ばす。


 ホムラと隻眼のオーガを結ぶ中央から、魔物を押し出していく。


「左、三体抜ける!」


 コーレリアの矢が放たれた。


 一射目が先頭の小鬼の足元へ。二射目が、その後ろの獣型の前脚へ刺さる。


 三射目は魔物ではなく、地面へ突き刺さった。


 その位置を見たレンが槍を横へ振る。


「そこから先へ通すな!」


 剣士たちが矢を目印に並び、群れが左右へ分かれる。


 中央に、一本の道が開いた。


 その先で、隻眼のオーガが金棒を引きずりながら進んでくる。


 どん。


 傷ついた右脚が地面を踏む。


 どん。


 巨体が揺れる。


「右脚へ体重をかけるたび、頭が左へ下がる」


 コーレリアが言った。


「次で、目の高さが一番低くなる」


「射てる?」


「今の距離なら」


「外したら?」


「もう一度射る時間はない」


「やっぱり言い方が怖い!」


「でも、当てるでしょう?」


「そのつもり!」


 ホムラの指が光の弦を引く。


 赤金色の光が集まり、一本の矢へ変わっていく。


『カザン様』


『うん』


『一緒に見て』


 神器を通じて、ホムラの視界が俺へ流れ込んでくる。


 迫る巨体。額から流れる血。焼けただれた右目の周囲。


 そして、ただ一つ残された右目。


 俺には、人間と同じ目はない。


 けれど今は、ホムラが見ている。


 同時に、俺が感じる熱もホムラへ返していく。


 隻眼のオーガの身体を巡る魔力。右脚の傷へ集まる熱。胸の奥で脈打つ火。


 拳と金棒へ流れようとする、魔力の道。


『……熱い』


『これが、あいつの火だ』


『目にも流れてる』


『守るつもりだ』


『じゃあ、その流れごと射る』


『できるか?』


『カザン様にも見えてるなら』


 ホムラが笑う。


『外さないよ』


 隻眼のオーガが右脚を踏み込んだ。


 頭が下がる。


「今!」


 コーレリアの声。


 ホムラが弦を離した。


 赤金色の矢が夜の空気を裂き、真っすぐ隻眼のオーガの右目へ向かう。


 だが。


 隻眼のオーガは、同じ攻撃を二度受けるほど愚かではなかった。


 空いている拳が持ち上がる。


 炎が右目の前へ集まり、圧縮され、渦巻く。分厚い炎の盾へ変わった。


 赤金色の矢が、その中心へ突き刺さる。


 光と炎が弾けた。


 一層。


 二層。


 矢が重なる火を貫いていく。


 だが、先端が削られ、勢いが落ちる。


「行け!」


 ホムラが叫ぶ。


 矢は炎を抜けた。


 けれど、隻眼のオーガの右目へ届く直前。


 光の粒となって砕けた。


「また……!」


 ホムラが神器を引き直す。


 だが、隻眼のオーガはもう目の前だ。巨大な金棒が持ち上がる。


「下がれ!」


 レンが叫ぶ。


「ホムラ、下がれ!」


 ホムラは動かない。


 それでも二本目の矢はまだ形にならず、俺の力も足りない。神器の力だけでは、あの炎を抜けない。


 隻眼のオーガが金棒を振り上げた。


 ハロルドが盾を構える。ガルクが踏み出す。レンの槍が上がる。


 分かっている。


 受けきれない。


 それでも、誰も逃げなかった。


「……もう、無理なんじゃ」


 避難していた誰かの声が、ほんの小さく祈りの石床から漏れた。


 その瞬間。


 山体の奥から、低い咆哮が響いた。


 ◇ ◇ ◇


 音は地面の下から来た。


 深く、重く。


 火守村にいる全員の身体を震わせるほど、大きい。


 隻眼のオーガの動きが止まった。北から迫っていた魔物たちも、一斉に足を止める。


「何の音だ!」


「山の中です!」


 見張り役が叫ぶ。


 俺には分かっていた。


 火山核のさらに奥で、黒い岩が崩れている。


 一枚。


 二枚。


 長い眠りの間、ヴァルの身体を包んでいた岩の殻が、次々と割れていく。


 金色の目が上を向いた。


 その先にあるのは、火口へ続く古い火道。


 長い年月の間に、ところどころ岩で塞がれている。


(ヴァル)


 金色の目が、俺の意識へ触れた。


(こっちだ)


 俺は残っている力を古い火道へ流した。


 大きな岩壁は作れない。隻眼のオーガを倒すような力も出せない。


 それでも、道を塞いでいる岩を一つずつ動かすことならできる。


(火口へ上がれ)


 返事はない。


 けれど、ヴァルが四肢へ力を込めた。


 黒曜石のような爪が岩へ食い込み、翼が開く。


 身体が上を向いた。


 次の瞬間。


 ヴァルが地面を蹴った。


 古い火道を、一気に駆け上がってくる。


 一歩ごとに岩が砕け、熱が上がり、山体が揺れる。


「御山が……!」


「火口を見ろ!」


 フランから運ばれる光景が変わった。


「かしこみかしこみ。御山の頂より赤金の光があふれております!」


 火口から、長く溜め込まれていた熱が夜空へ立ち昇る。


 煙が渦を巻く。


 その中心で、黒い影が一気に上へ抜けた。


 火口から。


 ヴァルが飛び出した。


 黒曜石のような鱗。


 長くなった角。


 二つの金眼。


 そして、大きく広がる黒い翼。


 翼が一度、夜空を打った。


 煙が吹き払われる。


 その全身が、ホムラの目とフランの運ぶ光景を通して、俺にも届いた。


(……大きくなったな)


 隻眼のオーガより、一回り大きい。


 かつて大型犬ほどの身体で聖域を走り回っていた火竜の面影は、確かに残っている。


 けれど、もう誰かに守られるだけの幼体ではなかった。


「火竜様……」


 誰かが呟いた。


「火竜様だ!」


 別の声が続く。


「御山の火竜様が、目を覚ました!」


 折れかけていた声が、一つ、また一つと火守村へ戻ってくる。


 下がりかけていた盾が上がり、弓手が矢をつがえ直す。


 槍を握る手へ、力が戻った。


「まだ終わってないぞ!」


 レンが叫んだ。


「火竜様が来た! 俺たちも立て!」


「おおっ!」


 返事が、今度は大きく響いた。


(ヴァル)


 俺が呼ぶ。


 空を飛ぶ金眼が、火山核へ触れるようにこちらを向いた。


 低い唸り。


 言葉ではない。


 けれど、俺を覚えている。


 ここを覚えている。


 守っていたものまで。


 全部、覚えている。


 ヴァルの視線が火守村へ向いた。


 人々へ。


 キイナへ。


 ホムラへ。


 そして、隻眼のオーガへ。


 金色の目が細くなった。


「かしこみかしこみ。二十年の眠りを終えし御山の黒き御子、今ここに新生の国を守護すべく――」


(フラン。隻眼のオーガ)


「かしこみかしこみ。炎を集めております!」


 隻眼のオーガが、ヴァルへ向き直っていた。


 ◇ ◇ ◇


 隻眼のオーガが拳を突き出した。


 集められていた炎が、一気に放たれる。


 広げる火ではない。


 一点へ圧縮された炎の槍。


 夜を赤く裂き、空に浮かぶヴァルへ向かう。


「ヴァル!」


 ホムラが叫ぶ。


 ヴァルは避けなかった。


 大きく息を吸うと胸が膨らみ、黒い鱗の隙間へ赤金色の熱が走る。


 胸から首へ。


 喉へ。


 牙の間へ。


 炎が集まった。


 次の瞬間。


 火竜の息吹が放たれた。


 赤金色の火。


 その中心だけが、眩しいほど白く輝いている。


 二つの炎が、空中でぶつかった。


 衝撃。


 夜空が、一瞬だけ昼のように明るくなる。


 押し合ったのは、ほんの一瞬だった。


 ヴァルの炎が隻眼のオーガの火へ食い込み、赤い炎を押し潰していく。


 魔力の流れごと焼き崩され、炎の槍が端から砕けた。


 ヴァルの息吹が、そのまま隻眼のオーガへ届く。


 巨体が腕を上げて火を受ける。


 皮膚が焼け、肉が裂けた。


 隻眼のオーガが苦痛の声を上げる。


 一歩。


 二歩。


 巨体が後退する。


 傷ついた右脚が支えきれず、片膝が地面へ落ちた。


(強い)


 隻眼のオーガが、これまで人間たちへ見せつけてきた火。


 岩壁を内側から砕き、地の底を走り、俺の感知経路まで焼いた魔法。


 それを、ヴァルは正面から破った。


「勝てる……!」


 誰かの声。


「火竜様なら、勝てる!」


「まだだ!」


 ジンが止める。


「小型の魔物が残っている! 持ち場を空けるな!」


 隻眼のオーガが咆哮した。


 左右で止まっていた魔物たちが再び動き出す。


 向かう先はヴァルではない。


 祈りの石床。


 ホムラ。


 キイナ。


 人間たちだ。


「巫女の周りを固めろ!」


 ハロルドが前へ出る。


 獣型の爪が盾へ当たり、足が半歩滑った。


 その横からガルクの戦斧が伸びる。


「盾が小さいぞ!」


「今さら言うな!」


「俺の肩が出てる!」


「引っ込めろ!」


「どうやって!」


 それでも、盾は止める。


 戦斧はその後ろから、確実に脚を斬る。


「左の屋根!」


 コーレリアの矢が飛んだ。


 回り込もうとした小鬼の足元へ刺さり、屋根板が外れる。


 魔物が体勢を崩し、そのまま落ちた。


 そこへ。


「患者と巫女のそばで暴れないでください」


 サナが踏み込んだ。


 治療刀の細い刃が、落ちてきた小鬼の膝裏へ走る。


 深くは入れない。


 筋だけを切る。


 着地しようとした脚から力が抜け、小鬼が地面へ倒れた。


「壊れ方を知っていれば、止め方も分かりますから」


「やっぱり怖いな、サナ!」


 ガルクが叫ぶ。


「戦っている暇があるなら、前を見てください」


「はい!」


 コーレリアが、もう一本の矢を放つ。


「次、右!」


「俺から見て?」


「全員から見て右」


「分かりやすい!」


「巫女の周囲!」


 クライスが木札を確認する。


「ハロルド!」


「いる!」


「ガルク!」


「いる!」


「コーレリア!」


「見えてる」


「サナ!」


「ここです」


 ホムラが振り返る。


「一人足りない」


「俺です!」


「自分を最後に数えるんだ」


「ほかの四人を先に確認しています!」


 クライスが最後の札へ指を置いた。


「五人。欠員なし!」


(本当に親衛隊みたいになってきたな)


 ヴァルが翼を畳み、空から隻眼のオーガと火守村の間へ降り立った。


 大地が揺れる。


 黒い翼が開き、その向こうへ人間たちを隠す。


 ヴァルは、隻眼のオーガより一回り大きな身体で正面から相手を見据えていた。


 隻眼のオーガが金棒を振り上げる。


 振り下ろす。


 ヴァルが首を逸らした。


 金棒が肩の鱗を擦り、火花が散る。


 黒曜石のような鱗に一本の傷が走った。


 それだけだ。


 次の瞬間、ヴァルの前脚が隻眼のオーガの胸へ叩き込まれる。


 巨体が後ろへ吹き飛び、地面を削りながら転がった。


「……強い」


 ホムラが息を呑む。


『昔から、噛む力は強かった』


「そこなの?」


『褒めてるぞ』


 隻眼のオーガが起き上がる。


 残された右目がヴァルを見る。


 そして、火守村へ向いた。


(まずい)


 分かったんだ。


 正面からでは。


 火でも、力でも。


 ヴァルには勝てない。


 だから。


 狙いを変えた。


 ◇ ◇ ◇


 隻眼のオーガが金棒を地面へ突き立て、空いた拳を火守村へ向ける。


 身体を巡る魔力。


 傷口へ集めていた熱。


 金棒に残っていた炎。


 すべてが、拳の上へ集まり始めた。


「火の魔法!」


 ナキアが叫ぶ。


「今までで一番大きい!」


 炎が膨らみ、圧縮される。


 さらに、その外側へ新しい火が重なっていく。


「ヴァル!」


 レンが叫ぶ。


「止めろ!」


 ヴァルが息を吸い、胸へ炎を集める。


 だが。


『待て!』


 俺の声へ、ヴァルの金眼が動いた。


『そこでぶつけたら、村の上で爆発する!』


 隻眼のオーガの火。


 ヴァルの炎。


 どちらも、さっきよりはるかに火守村へ近い。


 二つをここでぶつければ、勝てたとしても爆発と熱が人間たちへ降り注ぐ。


 ヴァルが口を閉じた。


 牙の奥へ、炎が消える。


「どうして止めたの!」


「カザン様が止めた!」


 ホムラが答える。


「ここでヴァルの火を当てたら、私たちまで焼かれる!」


「では、どうする!」


 ジンの問いへ、ホムラが神器を持ち上げた。


「私が射る」


「さっき止められただろう!」


「今度は、防がせない」


 隻眼のオーガの拳の上で、巨大な火球が膨らんでいる。


 外側では赤い炎が荒れ狂い、内側には白く見えるほど圧縮された熱が渦巻いていた。


 あれを、ただ撃ち落とすだけでは駄目だ。


 途中で爆発すれば、結局、村へ火が降る。


「中心が見える?」


 ホムラがコーレリアへ尋ねた。


「目では見えない」


「じゃあ、無理?」


「私はね」


 コーレリアは炎そのものではなく、周囲を流れる煙を見ている。


「外側は左へ回ってる。内側は右」


「間は?」


「投げた直後。一瞬だけ、流れがそろう」


「どれくらい?」


「瞬きより短い」


「もう少し長くして」


「隻眼のオーガに頼んで」


「聞いてくれるかな」


「右目を狙った相手のお願いを?」


「無理そう!」


 ホムラが神器を引き、赤金色の弦が現れる。


 だが、矢はまだ形にならない。


『カザン様』


『いる』


『重ねて』


 俺は、自分が感じているものを神器の道へ流した。


 外から見える炎ではない。


 熱の流れ。


 魔力が集まる場所。


 押し込められ、互いを支え合う火の構造。


 それを、ホムラの視界へ重ねていく。


『……こんなにあるの?』


『全部を見るな』


『どこ?』


『一番熱いところじゃない』


 火球の中心。


 無数の熱が互いを押さえ込んでいる場所。


 そこだけ、ほんのわずかに周囲より熱が低い。


 火球そのものを保つための芯。


『あそこだ』


『……見えた』


 俺が感じる。


 ホムラが見る。


 その境目が、少しずつ消えていく。


 火球の外側をホムラの目で見て、火球の中を俺の感覚で感じる。


 そして、二つが同じ場所を指した。


『射線、通る?』


『今は駄目だ』


 火球の向こうに、隻眼のオーガの拳。


 さらに上へ、残された右目。


『投げた直後なら、火球と右目が重なる』


『分かった』


『でも』


 俺は神器へ集まる熱を感じた。


『今の矢じゃ足りない』


『さっきみたいに止められる?』


『火の芯へ届く前に削られる』


「なら」


 キイナの声がした。


 サナに支えられながら、ヴァルを見ている。


「一人で射らなければいい」


「お母さん?」


「その神器は、ホムラ一人の力でできているわけじゃないでしょう」


 ヴァルの金眼がホムラへ向く。


 神器へ。


 赤い結晶へ。


(ヴァル)


 俺が呼ぶ。


(貸してくれるのか)


 低く、短い唸りが返った。


 そして。


 ヴァルが息を吐いた。


 攻撃するための炎ではない。


 一本の糸のように細い火。


 白く輝く中心を、赤金色の炎が包んでいる。


 それが緩やかに夜を渡り、ホムラの手にある神器へ触れた。


「熱っ――」


 ホムラが一瞬だけ目を閉じる。


「……熱くない?」


 火は、ホムラを焼かなかった。


 神器の弓へ絡みつき、赤金色の光とヴァルの白い火が混ざり合う。


 その熱が神器を通じて、俺へも届いた。


(……ヴァル)


 知っている。


 昔から何度も感じてきた熱だ。


 けれど今は、ずっと大きく、ずっと強い。


 ホムラの右腕へ、薄い光の紋様が浮かぶ。


 黒曜石の鱗を思わせる、小さな光の鱗。


 手首から肘へ。


 神器を握る腕を包んでいく。


「これは……」


 ホムラが呟く。


 俺には分かった。


 攻撃じゃない。


 ヴァルが、自分の火をホムラへ預けている。


 それは。


 祝福。


 そう呼ぶのが、一番近かった。


 神器へ、新しい矢が現れる。


 中心は白。


 その周囲を、赤金色の光が包んでいる。


 俺の感覚。


 ホムラの目。


 ヴァルの火。


 三つが、一本の矢へ集まっていく。


『ホムラ』


『うん』


『今なら』


『分かる』


 ホムラの目に映る炎と、俺が感じる熱の道が完全に重なる。


 その中心へ、ヴァルの火が一本の細い道を作った。


 まるで。


 三人で、同じ場所を見ている。


『……行ける』


『うん』


 ホムラが、白金と赤金の矢を引き絞る。


「かしこみかしこみ。新たなる巫女の神弓に、御山の叡智と火竜の祝炎が宿り、ここに天地竜人――」


「フランさん、あと!」


「かしこみかしこみ。承知いたしました!」


(本当に止められるようになったな)


「ホムラ!」


 ジンの声。


「射線を作る!」


「巫女の前、空けろ!」


 ハロルドが盾を構え、飛び込んできた獣型を身体ごと押し返す。


「ガルク!」


「分かってる!」


 戦斧が横から走り、獣型の前脚を斬って中央の道から外へ倒した。


「右の屋根!」


 コーレリアの矢が飛ぶ。


 回り込もうとした小鬼の肩を射抜く。


 それでも、別の一体がホムラへ跳んだ。


「ホムラ、動かないでください」


 サナが前へ出る。


 治療刀の細い刃を、振り下ろされた鉤爪の内側へ滑らせる。


 前脚の筋が切れ、小鬼の体勢が崩れた。


「壊れ方が分かれば、止められます」


 横からハロルドの盾がぶつかり、小鬼が射線の外へ飛ぶ。


「中央、味方なし!」


 クライスが叫ぶ。


「ホムラから隻眼のオーガまで、射線上の退避を確認!」


 木札を見る。


 前を見る。


 もう一度数える。


「ハロルド!」


「いる!」


「ガルク!」


「いる!」


「コーレリア!」


「いる」


「サナ!」


「います」


「俺もいます!」


「五人、全員退避!」


 ヴァルも翼を一度打ち、射線から外れた。


「火球が動く!」


 コーレリアの声。


 隻眼のオーガが、巨大な炎を投げた。


「外側、左!」


「見えてる!」


「内側、右!」


「分かってる!」


「重なる!」


 俺の感覚が火の芯を捉える。


 ホムラの目が一本の射線を見る。


 ヴァルの熱が、矢の中で脈打った。


『ホムラ!』


『今!』


 光の弦が離れた。


 ◇ ◇ ◇


 音が消えた。


 そう感じるほど、矢は速かった。


 放たれた瞬間には、もうホムラの前にない。


 夜空へ、白金と赤金の線だけが残る。


 火守村へ迫る巨大な炎。


 その正面へ、一本の矢が突き進んだ。


 火球の外殻へ触れる。


 赤い炎が矢をのみ込もうとする。


 だが、白金の火が触れた炎へ食い込んだ。


 ヴァルの熱。


 火竜の祝福が、隻眼のオーガの魔力を焼き破る。


 一層。


 二層。


 三層。


 さっきまでホムラの矢を削っていた炎が、今度は矢の前から裂けていく。


『少し右!』


『分かってる!』


 俺が火の流れを感じ、ホムラがその先を見る。


 矢が、わずかに軌道を変えた。


 火球の中心。


 周囲よりわずかに熱の低い一本の芯。


 そこへ、白金の先端が突き刺さる。


 一瞬。


 巨大な炎が内側へ縮んだ。


 次の瞬間。


 火球が左右へ裂けた。


 爆発ではない。


 中心を失った炎が、矢の通った道から左右へ押し分けられていく。


 火守村の右。


 そして左。


 人のいない場所へ。


 二条の炎が逸れ、森と崩れた岩壁の外側へ落ちる。


 夜空が、二つの赤で染まった。


 けれど。


 矢は止まらない。


 俺が感じている。


 ホムラが見ている。


 ヴァルの火が、その先へ道を作っている。


 三つが、もう別々じゃない。


 一本の射線。


 その先に。


 隻眼のオーガの、残された右目。


「当たれえええっ!」


 ホムラが叫ぶ。


 白金の矢が。


 右目を射抜いた。


 赤黒い血と白い炎が、頭の後ろへ抜ける。


 隻眼のオーガの身体が仰け反った。


 声にならない咆哮が、夜を揺らす。


 残されていた唯一の目。


 そこから、光が消えた。


(届いた)


 今度こそ。


 届いた。


 ホムラの矢。


 俺の感覚。


 ヴァルの炎。


 三つ重なった一撃が、隻眼のオーガから最後の視界を奪った。


「右目、命中!」


 クライスの声が響く。


「隻眼のオーガ、完全に視界を失いました!」


「やった!」


 歓声が上がる。


 だが。


「まだ生きています!」


 サナの声が、それを止めた。


「胸が動いています! まだ終わっていません!」


「全員、気を抜くな!」


 ジンが叫ぶ。


「ここで倒す!」


 隻眼のオーガが闇雲に金棒を振り回す。


 視界を失い、大きな火魔法も失った。


 それでも、その力は残っている。


 金棒が地面へ落ち、岩が砕け、土が吹き上がった。


「ホムラ!」


 ハロルドが前へ出る。


 盾を斜めに構え、飛んできた岩片を受けた。


 盾が軋む。


「今度こそ壊れる!」


「なら、壊れるまで使え!」


 ガルドが叫ぶ。


「急に物を大事にしなくなったな!」


「人の方が大事だ!」


「それなら納得!」


 別の岩片が盾へ当たり、ハロルドの足が滑る。


 その背中をガルクが片手で支えた。


「俺の方が盾役みたいじゃないか!」


「じゃあ盾持つ?」


「斧がいい!」


「なら黙って押せ!」


 隻眼のオーガが、音を頼りに金棒を振る。


 コーレリアが高所から叫んだ。


「右脚を庇ってる! 次に振ったあと、右膝が下がる!」


「ガルク!」


「木より硬い方だな!」


「斬れる?」


「前にも斬った!」


 ガルクが駆ける。


 ハロルドが、その前へ盾を出した。


 金棒が横薙ぎに迫る。


 受けない。


 盾の表面へ斜めに当て、軌道を上へ逸らす。


 衝撃。


 ハロルドの腕が跳ね、盾が手から離れた。


 それでも。


 金棒は、ガルクの頭上を越えた。


「今だ!」


 ガルクの戦斧が、隻眼のオーガの右膝裏へ振り抜かれる。


 かつて自分がつけた傷。


 焼いて塞がれ。


 何度も開き。


 ホムラの矢にも貫かれた場所。


 そこへ、重い刃が食い込んだ。


 今度は途中で止まらない。


 筋を断つ。


 右脚から力が抜けた。


 隻眼のオーガが膝をつく。


「ヴァル!」


 ホムラが叫んだ。


 火竜が地面を蹴る。


 隻眼のオーガより一回り大きな身体が、正面からぶつかった。


 肩と肩。


 胸と胸。


 二つの巨体が衝突する。


 だが、力は拮抗しない。


 ヴァルが押す。


 一歩。


 隻眼のオーガの足が地面を削る。


 さらに一歩。


 火守村から離れる方向へ。


「村から離してる……」


 ホムラが呟く。


『覚えてるんだ』


『二十年前のこと?』


『ここを守っていたことを』


 隻眼のオーガが金棒を持ち上げようとする。


「左腕!」


 コーレリアの矢が飛び、肘の内側へ刺さった。


 傷をつけるほどではない。


 けれど、持ち上げる動きが一瞬だけ遅れる。


「鎖!」


 クライスが叫ぶ。


「切れた鎖の一本が、北側に残っています!」


「使え!」


 レンとバルクが鎖をつかみ、周囲の者も続いた。


 地面へ落ちた鎖を引き、金棒へ絡ませる。


「引け!」


 人間たちが一斉に引いた。


 力では隻眼のオーガに勝てない。


 けれど、角度をずらすことはできる。


 金棒の先が地面へ落ちた。


(そこだ)


 俺は、残っていた力を集める。


 大きな壁は作れない。


 地面を割ることもできない。


 それでも、この程度なら。


 地面から、小さな岩杭を一本。


 金棒の先へ噛ませた。


 隻眼のオーガが引く。


 岩杭が砕ける。


 けれど、その一瞬で。


 ヴァルの牙が、隻眼のオーガの肩へ食い込んだ。


 黒い前脚が胸を押す。


 巨体が倒れた。


 陥没地の北側。


 火守村から離れた場所へ。


 ヴァルが、その上へ乗る。


 隻眼のオーガの拳がヴァルの頬へ当たり、黒い鱗が数枚砕けた。


 それでも、火竜は退かない。


 前脚で両肩を押さえ、首を持ち上げる。


 大きく、口を開いた。


 牙の奥へ赤金色の熱が集まり、その中心が白く輝く。


「全員、伏せろ!」


 レンの声。


 次の瞬間。


 火竜の息吹が放たれた。


 逃げ場のない距離。


 隻眼のオーガの胸へ、真正面から炎が叩き込まれる。


 分厚い皮膚が焼ける。


 肉が裂ける。


 胸の奥へ。


 さらに深く。


 白い熱が食い込んでいく。


 隻眼のオーガの身体が、一度だけ大きく跳ねた。


 拳がヴァルの肩を打つ。


 もう一度。


 弱く。


 そして。


 三度目は来なかった。


 俺には分かった。


 胸の奥で、ずっと消えなかった熱。


 心臓の鼓動。


 それが一つ乱れた。


 そして。


 次が来ない。


 魔物たちをつないでいた濁った魔力の道も、同時に途切れた。


(……終わった)


 ヴァルが炎を止める。


 隻眼のオーガの胸は深く焼き抜かれ、身体はもう動かない。


 右目を射抜いた火も、胸を焼いたヴァルの炎も、もう新しい魔力を引き出してはいなかった。


 完全に。


 死んでいる。


 ◇ ◇ ◇


 北の魔物たちが、同時に動きを止めた。


 獣型が隣の小鬼を見る。


 小鬼が猪に似た魔物から距離を取る。


 命令が消えた。


 互いに争わず、一つの群れとして動いていた魔物たちへ、元の本能が戻ってくる。


 一体が森へ逃げる。


 別の一体も続いた。


 やがて群れそのものが崩れ、北へ、西へ、東へと、ばらばらに逃げていく。


「追うな!」


 ジンが叫んだ。


「負傷者を増やすな! 門と避難民を守れ!」


 剣を持つ者たちが足を止め、弓手も矢を下ろした。


 森へ遠ざかる足音へ、クライスが耳を澄ませる。


「北側、接近音なし!」


「村の中は!」


「灰色の魔物、六体すべて拘束中! 新たな侵入なし!」


「味方は!」


 クライスが木札を見る。


 一枚。


 また一枚。


 指で触れていく。


「第一列、十九人! 弓手、十一人! 魔法を扱える者、五人!」


 祈りの石床。


 治療所。


 最後の札へ指が触れた。


 クライスの声が、わずかに震えた。


「全員います!」


 一度、息を吸う。


 そして、はっきりと言った。


「欠けている者は、いません!」


 その言葉を聞いて。


 ようやく、誰かが呟いた。


「……勝った?」


 誰も、すぐには答えない。


 隻眼のオーガの亡骸。


 胸を焼き抜かれ。


 最後の目も潰され。


 二度と動かない巨体が、北側へ倒れている。


「勝ったぞ!」


 今度は、大きな声だった。


 歓声が爆発する。


 剣が、槍が、弓が空へ上がる。


 盾を失ったハロルドは、両手を上げた。


「盾がない!」


「今気づいたのか!」


 ガルドが叫ぶ。


「勝ったあとに気づいた!」


「なら、役目は果たした!」


「新しいの作ってくれる?」


「自分で作れ!」


「急に厳しい!」


 ガルクが戦斧を地面へ下ろした。


「じいちゃん!」


 バルクが振り返る。


「斧はあるか!」


「俺の心配は!」


「動いてるなら大丈夫だ!」


「家族の言葉が少ない!」


「斧と一緒に戻れと言っただろう!」


「戻った!」


「なら、よし!」


(分かりにくいけど、ちゃんと心配してたんだな)


 コーレリアが高所から下りてきて、ホムラの前で止まった。


 頬についた煤を見る。


「右目に当たったね」


「見てた?」


「目だから」


「褒めてくれる?」


「一射分」


「一射だけ?」


 コーレリアが、ほんの少し笑った。


「でも、今までで一番大きな一射」


「それならいいかな」


 サナが神器を持つホムラの腕をつかんだ。


「良くありません」


「何が?」


「腕です」


 ヴァルの祝福で浮かんでいた鱗の光は、もう消えている。


 だが、右腕は赤く、指先が小さく震えていた。


「動かせますか」


「少しなら」


「弓は?」


「もう引けないかも」


「では、休んでください」


「勝ったあとなら休んでいい?」


「勝つ前でも休むべきでした」


「それは難しいよ」


「難しくても覚えてください」


 サナがホムラの腕へ布を巻きながら言う。


「巫女が倒れたら、親衛隊が困ります」


 ホムラが瞬きをした。


「親衛隊?」


 サナの手が止まる。


「……今のは言葉の綾です」


「もう一回言って」


「言いません」


「サナが親衛隊って言った!」


「言っていません」


「今言ったよ!」


 ハロルドとガルクが近づいてくる。


「親衛隊?」


「俺たちも入ってるのか?」


「入っていません」


 サナが即答した。


 コーレリアが首を傾げる。


「でも、やっていることは近い」


「コーレリアまで!」


「私は事実を言っただけ」


 クライスも木札を抱えてやってくる。


「正式な役職なら、記録します」


「記録しなくていいです!」


「でも、五人いるよ」


 ホムラが指を折る。


「ハロルド。ガルク。コーレリア。クライス。サナ」


「数は合っています」


 クライスが頷く。


「そこへ満足しないでください!」


 サナの声に、笑いが広がった。


 戦いが始まってから。


 一番大きな笑いだった。


 ◇ ◇ ◇


 ヴァルが隻眼のオーガの亡骸から前脚を下ろし、黒い翼を畳んだ。


 鼻先を焼けた胸元へ近づける。


 生きていないことを、自分でも確かめているらしい。


 やがて太い尾を亡骸の脇へ回し、少しずつ火守村から離れる方角へ押し始めた。


「運ぶの?」


 ホムラが尋ねる。


『村の中へ置いておきたくないんだろう』


「埋める?」


『あれだけ大きいと、穴を掘るのも大変だな』


「燃やす?」


『ヴァルの火なら焼けるだろうけど、今すぐやる必要はない』


 ジンが亡骸を見る。


「北側へ置きましょう」


「残すのか」


 レンが尋ねる。


「当分は」


「魔物が寄ってくるかもしれんぞ」


「見張りは置きます。ただ――」


 ジンが焼けた見張り台を見る。


 落とした橋。


 水へ沈めた畑。


 巨大な穴になった石材置き場。


 そして、隻眼のオーガの亡骸。


「今日、俺たちが何と戦ったのか。どうして村のままではなく、一つの国になると決めたのか」


 もう一度、亡骸を見る。


「忘れないための印にはなります」


 ダンが、ゆっくりと頷いた。


「勝った印ではないぞ」


「はい」


「守り続けなければならん理由の印だ」


「そのつもりです」


 ヴァルは亡骸を陥没地の北側へ押し出した。


 火守村からは見える。


 だが、門や道を塞がない場所。


 そこへ横たえる。


 それから、金色の目が祈りの石床へ向いた。


 人々が静かになる。


 ヴァルが一歩進む。


 地面が揺れた。


 もう一歩。


 オーガより一回り大きな身体が、ゆっくり近づいてくる。


「味方……なんだよな?」


 避難民の一人が呟く。


「たぶん」


 ホムラが答える。


「たぶん?」


「二十年前は、もう少し小さかったから」


「どのくらい?」


「犬くらい」


「どんな育ち方をしたんだ!」


(ほとんど寝てたんだけどな)


 ヴァルが祈りの石床の前で立ち止まる。


 まずホムラを見た。


 次に、サナに支えられているキイナへ顔を向ける。


 キイナが、ゆっくりと片手を上げた。


「おかえり、ヴァル」


 ヴァルが鼻先を近づけ、その手へ温かい息を落とした。


 炎ではない。


 ただ、赤い線の残る腕を包むような熱だった。


 キイナが目を細める。


「大きくなったね」


 ヴァルの喉が低く鳴った。


「かしこみかしこみ。二十年の時を越え、御山の黒き御子と巫女の再会成り、ここに神代より続く――」


(フラン)


「かしこみかしこみ。おかえりなさいませ」


(うん。それでいい)


 ヴァルが顔を上げる。


 祈りの石床の中央には、まだ何も書かれていない木札がある。


 水門の鍵。


 種袋。


 石工の鑿。


 警鐘の槌。


 それぞれの暮らしを表すものに囲まれた、名のない国の木札。


 ヴァルは、その空白の札を見た。


 続いて、ジンを見る。


「……俺に決めろと?」


 ヴァルは答えない。


「王にはなりませんよ」


 金色の目が細くなる。


「そこは譲りません」


 ホムラが笑った。


「でも、名前なら決められるでしょう?」


「簡単に言うな」


「空白だと、クライスが困るよ」


「一晩なら我慢できます」


「もう夜が明けるよ」


 クライスが空白の木札を見る。


「……それは確かに困ります」


「困るんだな」


 ジンが木札へ手を伸ばした。


 まだ、文字は書かない。


 代わりにヴァルを見る。


 俺の山を見る。


 そこへ集まった人々を見る。


 水路集落。


 畑集落。


 石切り集落。


 火守村。


 昨日までは、違う場所で、違う暮らしをしていた者たち。


 今は同じ土地に立ち、同じ朝を迎えようとしている。


 ヴァルが翼を開いた。


 黒曜石のような翼へ、東から朝の光が差し込む。


 長かった夜が終わる。


 東の空が、白み始めていた。


 一度。


 翼が打ち下ろされる。


 風が火守村を。


 祈りの石床を。


 名のない木札を撫でていく。


 ヴァルの巨体が地面を離れた。


 黒い翼が、新しい朝の空へ広がる。


 歓声が上がった。


 今度は、誰も押し殺さなかった。


 名もない国の空に、初めて火竜の翼が広がった。


 ジンが、その姿を見上げる。


「この国の名は……」


「火竜王国」

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