64.建国会議
ぎしり。
隻眼のオーガを拘束する玄武岩の奥で、また亀裂が伸びた。
夜の静けさの中では、その小さな音さえ、木をへし折る音のように聞こえる。
「前の亀裂から、百八十七呼吸」
北側の見張り場で、クライスが木札へ印をつける。
「その前は?」
ジンが尋ねた。
「二百四十一呼吸です」
「短くなっているな」
「はい」
岩に埋められた隻眼のオーガは、動いていない。
両脚も。
腰も。
金棒を握る腕も、俺の岩と人間たちの鎖に拘束されたままだ。
それでも、残された右目だけが動いていた。
火守村の中を。
見張りを交代する者。
水を運ぶ者。
傷の手当てを受ける者。
祈りの石床へ集まり始めた各集落の代表者たち。
一つずつ、確かめるように見ている。
「かしこみかしこみ。北方の魔物どもは、矢の届かぬ位置にて伏しております。眠りへ落ちた様子はなく、皆一様に火守村へ顔を向けております」
(あいつらも待ってるんだな)
「かしこみかしこみ。御意。悪鬼の王が再び立ち上がる時を、忠実なる兵として待ち受けているものと――」
(そこまででいい)
「かしこみかしこみ。短く申し上げれば、待っております」
(最初から、それでよかった)
俺は、隻眼のオーガを拘束する岩へ力を流した。
新しい亀裂の外側へ、もう一枚。
砕かれかけた岩の隙間へ、さらに深く岩を食い込ませようとする。
だが。
地の底から押し上げた岩は、指一本分ほど動いただけで止まった。
(……またか)
力そのものが尽きたわけじゃない。
火山核には、まだ熱がある。
地脈へ流せる力も残っている。
ただ。
北へ向かう経路が、ひどく鈍い。
地下を走る火に焼かれた感知経路。
そこへ今日一日、何度も岩を押し上げ。
地面を割り。
隻眼のオーガを拘束し続けた。
力はあっても、必要な場所へうまく運べない。
『カザン様?』
神器を通じ、ホムラの声が届く。
『岩、動かなかったよね』
『……見えてたのか』
『隻眼のオーガの横に出かけた岩が、途中で止まった』
神器は、ホムラの手の中で杖の形を取っていた。
弓に変わっていなくても。
彼女が見た光景は、細い熱の道を通じて俺へ届く。
『何かあった?』
『北へ力を送りにくくなってる』
『隻眼のオーガに何かされた?』
『あいつに焼かれた道が、まだ戻ってない。そこへ力を使いすぎた』
『じゃあ、休んだら治る?』
『山に休み方があるなら教えてほしい』
『寝るとか』
『山が寝たら、たぶん皆が困る』
『じゃあ起きてて』
(厳しいな)
ホムラが俺の状態を、ナキアとクローシュへ伝える。
ナキアは地面へ金属板を並べ、小さな魔石を中央に置いた。
クローシュも杖の先を石床へ当て、目を閉じる。
「やっぱり北側がひどい」
ナキアが、魔石の中に浮かぶ赤い線を見た。
「御山様の力が消えてるわけじゃない。通り道の方が傷んでる」
「直せるのか」
レンが尋ねる。
「直すにも、御山様の力が必要でしょうね」
「では、今は?」
「大きな力を何度も使うのは難しい」
クローシュが杖から手を離す。
「井戸に水が残っていても、汲み上げる縄が切れかけていたら、一度に大量には使えん」
「つまり」
ジンが拘束された隻眼のオーガを見る。
「今の御山様には、あれを一撃で倒すような力は出せない」
『……そうなる』
ホムラが、俺の言葉を皆へ伝える。
「カザン様は、今の状態では隻眼のオーガへ大きな一撃を使えません」
「拘束を補強することは?」
「少しなら。でも、壊される方が速くなるかも」
クライスが、先ほど印をつけた木札を見る。
「次の亀裂まで、百八十七呼吸より短くなる可能性があります」
「なら、朝まであると思わない方がいい」
ジンが言った。
その言葉へ応えるように。
ぎしり。
今度は、二か所から音がした。
クライスが顔を上げる。
「……百二十二呼吸です」
誰も続きを急かさなかった。
数えなくても。
残された時間が減っていることは分かった。
◇ ◇ ◇
「それでも、決めるのか」
水路集落の代表が尋ねた。
祈りの石床には、警鐘でつながる集落の代表者たちが集まっている。
その外側には、話を聞こうとする人々。
さらに外を、盾と弓を持つ者たちが囲んでいた。
「今決める」
ダンが答える。
「隻眼のオーガが立ち上がってからでは、話し合う時間はない」
「生き残れるかも分からないのに?」
「生き残るための話だ」
ダンは、中央へ置かれた木板を杖で示した。
そこには。
火守村。
北の水路集落。
西の畑集落。
東の石切り集落。
ほかにも、警鐘と道によってつながれた集落の木札が並んでいる。
木札の一部には泥がつき。
一部には、血が滲んでいた。
今日一日。
クライスが、逃げる者と、助けに出る者を数え続けてきた印だ。
「国になると言っても、何が変わる」
畑集落の代表が言った。
「畑は畑にある。水門は水路集落にある。火守村へ人を集めても、食べ物は増えん」
「集めるのは、人ではない」
スワイスが答える。
「役目と責任だ」
「どう違う」
「今日、西の畑を水へ沈めると決めたのは、畑集落の者だけではない」
畑集落の代表の顔が硬くなる。
「あれは、八人を助けるためだった」
「そうだ。東の橋も落とした。火守村の石材置き場も吹き飛ばした」
「どれも、ほかに方法がなかった」
「だからこそだ」
スワイスは木板の上で、離れて置かれた木札を一つずつ中央へ寄せた。
「一つの集落を守るために、別の集落が何かを失う。そんな判断が、これからも必要になる」
「それを火守村が決めるのか」
水路集落の代表が、低い声で尋ねる。
「違います」
ジンが答えた。
「火守村だけが上に立つ形では、国にする意味がありません」
「では、誰が決める」
「平時は、それぞれの集落から代表を出し、全体で決める。水路も、道も、食料も、防衛も、共通の問題として扱う」
「話がまとまらなかった時は?」
「その決め方も、これから作ります」
「今、決まっていないのか」
「一晩で、すべてを決められるとは思っていません」
ジンは、隻眼のオーガを見た。
「今夜決めるのは、一つだけです」
警鐘でつながった土地を。
それぞれの村として守るのか。
一つの国として守るのか。
「国にすれば、何でも解決するわけではありません」
ジンの声は、石床の端まで届いた。
「水が増えるわけでもない。失った畑が戻るわけでもない。橋も、明日には直りません」
「なら、なぜ国にする」
「次に警鐘が鳴った時、どこの村を助けるかで迷わないためです」
短い沈黙が落ちる。
「どこの村の者かではなく、同じ場所で生きる者として守る」
ジンは続ける。
「今日やったことを、次からは特別な決断ではなく、最初から皆の役目にするためです」
畑集落の代表が、木板に残る印を見る。
自分たちの土地を水へ沈めたことで助かった八人。
その八人を数えた印だ。
「共通の食料庫を作れば」
代表は、ゆっくりと言った。
「今年、畑を失った俺たちは、ほかの集落の食料を食うことになる」
「そうなります」
「来年、豊作になったら?」
「次に困った土地へ渡してください」
「返す相手が、火守村とは限らないのか」
「同じ国なら、どこでも同じです」
水路集落の代表も口を開く。
「水門を開けるか閉じるか。上流の俺たちだけでは決められなくなる」
「はい」
「下流を守るために、自分たちの水を減らせと言われることもある」
「あります」
「それでも、一つになるのか」
「それでもです」
ジンは一度も目を逸らさなかった。
「受け取る時だけ一つになるのは、国ではありません」
(厳しいけど、大事なところだな)
話を聞いていた者たちの間で、囁きが広がる。
自分たちの暮らしがどう変わるのか。
何を得るのか。
何を失うのか。
隻眼のオーガが拘束を破るかもしれない夜に。
人々は、明日より先の話をしていた。
◇ ◇ ◇
「誰が一番偉くなるんだ」
石切り集落の男が尋ねた。
「国なら、王がいるんだろう」
何人かの視線が、ジンへ向く。
「俺は王にはなりません」
ジンは即座に答えた。
「返事が早いな」
ダンが言う。
「考える時間が必要でしたか?」
「少しくらい迷えば、譲ったように見えたかもしれんぞ」
「欲しくないものを譲ったふりはできません」
(ジンらしいな)
「では、国の指示は誰が出す」
レンが尋ねる。
疑っているのではない。
戦う者として、曖昧にできない部分を確かめている。
「今のような緊急時は、一人に指揮を集めます」
「誰だ」
「今は、俺が続けます」
「王は嫌でも、指揮は取るのか」
「誰かが決めなければ、人が死にますから」
「戦いが終わったら?」
「代表者たちで、正式な仕組みを決めます。王を置くのか。別の形にするのか。それも含めて」
石切り集落の男が首を傾げた。
「形も決まっていない。王もいない。それで国と言えるのか?」
「家を建てる時、屋根から作る者はいない」
バルクが答える。
「まず、同じ場所で暮らすと決める。柱の数は、そのあとだ」
「バルクにしては、まともなことを言うな」
ガルドが呟く。
「俺はいつもまともだ」
「斧を振る時以外はな」
「斧を持ってるのは孫だ」
少し離れた場所で、ガルクが戦斧を見下ろした。
「俺のせいになってる?」
「家族だから、少しずつ分け合え」
「悪い評判まで共有するのか」
「国になる練習だ」
「その練習はしたくない!」
短い笑いが広がる。
だが。
ぎしり。
拘束する岩の音で、笑いは止まった。
「九十六呼吸」
クライスが新しい印をつける。
百を下回った。
フランから届く光景では、北の森に伏せていた魔物が、一体ずつ立ち上がり始めている。
まだ攻めてはこない。
それでも、何かを感じ取っている。
隻眼のオーガの魔力が。
岩の中で、少しずつ膨れていた。
「急かされて決めることではない」
水路集落の老人が言う。
「そう思う者もいるでしょう」
ダンが頷く。
「なら、反対していい」
「反対しても、ここに置いてくれるのか」
「追い出すための話ではない」
「国に入らない者まで、国の食料で守るのか」
誰も、すぐには答えられなかった。
国になるということは。
ただ一つになるだけではない。
どこまでを同じ責任で守るのか、これまで以上に決めなければならなくなる。
「今夜は守ります」
ジンが答えた。
「国へ入るかどうかに関係なく、すでに同じ壁の内側へ逃げてきた人たちです」
「明日からは?」
「それを、これから決めます」
「ずるい答えだな」
「分からないことを、分かったふりはできません」
老人は、しばらくジンを見ていた。
やがて。
水門の鍵を腰から外し、木板の上へ置いた。
「この鍵は、水路集落のものだった」
古い鉄の鍵が、木札の中央へ落ちる。
「これからは、下流で暮らす者の命も開け閉めする鍵だ」
「では」
「俺は賛成だ」
次に、畑集落の代表が、小さな種袋を置いた。
「今年の畑は沈んだ」
泥の染みた袋だった。
「それでも、残った種はある」
石切り集落の代表は、欠けた石工の鑿を置く。
「橋は落ちた。石は掘り直せる」
火守村からは、ダンが警鐘を打つための古い槌を置いた。
「鐘は、一つの村だけへ危険を知らせるために作ったのではない」
ほかの集落からも。
道の印。
井戸の縄。
狩場を示す木札。
それぞれの暮らしを表すものが、中央へ置かれていく。
最後に残ったのは、何も記されていない一枚の木札だった。
クライスが、それを両手で持つ。
「これは?」
ホムラが尋ねる。
「新しい国の名を書く札です」
「もう決めてるの?」
「決まっていません」
「じゃあ、空白のまま?」
「空白も、記録です」
「国なのに名前がないんだ」
ホムラが、空の木札を覗き込む。
キイナが、サナに身体を支えられながら微笑んだ。
「あなたも、生まれてすぐは名前が決まってなかったよ」
「どれくらい?」
「二日」
「お母さんたち、決めるの遅くない?」
「候補が多かったの」
「何があったの?」
「今聞く?」
「少し気になる」
「ホムラ以外は、だいたい似合わなかったよ」
「それ、決めたあとだから言えることだよね」
(国の名前も、きっとそうなるんだろうな)
「名前は、保留にしましょう」
ジンが言った。
「どこか一つの村の名を、そのまま使うべきではありません。急いで決めれば、誰かを国の外側へ置くような名になるかもしれない」
「名のない国か」
水路集落の代表が呟く。
「夜明けまでなら、それでもいいでしょう」
キイナが答えた。
「生まれることを決めてから、名前を選んでも遅くありません」
「夜明けが来れば、だがな」
レンは、隻眼のオーガから目を離さない。
「来させるよ」
ホムラが神器を握った。
「国の名前を決めないまま終わるのは、気持ち悪いから」
「理由が軽くないか?」
「大事だよ。クライスも困るでしょう?」
クライスは、空白の木札を見た。
「記録上は、かなり困ります」
「ほら」
「でも、一晩なら我慢します」
「意外と我慢できるんだね」
「我慢できない人だと思われていたんですか?」
「数が合わない時は、ずっと見てるから」
「名前がないことと、人数が合わないことは別です」
(クライスの中では、はっきり別なんだな)
ダンが、人々を見回す。
「黙っている者を、賛成とは数えん」
「はい」
クライスが、空白の木札を胸元へ持つ。
「反対する者も。まだ決められない者も。声を上げてください。どちらも記録します」
言葉を交わす声。
家族へ確かめる声。
不安を隠さず話す声。
長い時間は残されていない。
それでも、誰も急かさなかった。
やがて。
一人ずつ、返事が始まる。
「水路集落は、一つの国へ入る」
「畑集落もだ」
「石切り集落も」
「南の狩人小屋の者たちも、同じ国で構わない」
「火守村も受け入れる」
集落の代表たちが、一つずつ意思を示していく。
その周囲では。
賛成する者。
まだ決められない者。
わずかに反対する者。
それぞれの声を、クライスが木札へ記していった。
反対した者の名も、消さない。
決められなかった者も、最初からいなかったことにはしない。
やがて。
最後の代表が、頷いた。
クライスが、すべての木札を確認する。
「警鐘でつながる集落の代表、全員の意思を確認しました」
空白の木札を、木板の中央へ置く。
「各集落は、一つの国としてまとまることに同意しています。反対者と保留者についても、すべて記録しました」
「なら」
ダンが、何も書かれていない木札へ手を添えた。
「今、この時から」
水門の鍵。
種袋。
石工の鑿。
警鐘の槌。
それらに囲まれた、名のない木札。
「警鐘でつながるこの土地は、一つの国になる」
歓声は上がらなかった。
勝ったわけではない。
国の名も。
王も。
決まりも、ほとんどない。
それでも。
木板の上で離れていた集落の札が、一枚の空白を囲んだ。
名のない国が。
戦いの最中に、生まれた。
その瞬間だった。
どくん。
火山核のさらに奥で。
何かが脈打った。
(……今のは)
俺ではない。
神器でもない。
今まで。
何度意識を向けても、静かな熱しか返さなかった場所。
山体の深部から。
大きな鼓動が、一つ。
確かに届いた。
『カザン様?』
ホムラにも伝わったらしい。
『今、何かいた』
『何か?』
『うん。神器の道の、もっと向こうで』
どくん。
二度目。
今度は、山体全体がわずかに震えた。
水桶の表面へ、小さな波紋が広がる。
吊るされていた警鐘が、誰も触れていないのに揺れた。
かん。
短い一音。
北の魔物たちが、一斉に立ち上がる。
「魔物が動いた!」
「どちらへ!」
「火守村へではありません!」
フランから届く光景が変わった。
魔物たちは。
俺の山体を見上げている。
獣型も。
小鬼型も。
まるで、山の中にいる何かへ気づいたように。
岩へ埋められた隻眼のオーガも。
残された右目を、初めてホムラから逸らした。
俺の山へ。
山頂へ。
そのさらに奥を見通そうとするように、目を細めている。
(あいつにも、分かったのか)
その時。
初めて。
俺の力が、深い場所へ引かれた。
(……何だ?)
北側へ伸ばしていた熱が。
火山核の周囲に蓄えていた力が。
俺の意思とは別に、山体の奥へ流れ込んでいく。
さっきまでの鈍さとは違う。
通り道が傷んでいるんじゃない。
明確に。
何かが、俺の熱を求めている。
(待て)
隻眼のオーガを拘束する岩から、補強に回せる力が抜ける。
玄武岩そのものが消えるわけじゃない。
だが、新しい亀裂を塞げない。
ぎしり。
岩の顎の一つが、大きく開いた。
「六十二呼吸!」
クライスの声が響く。
「前より、さらに短い!」
「補強を!」
ジンがホムラを見る。
『無理だ』
俺の声を、ホムラが受け取る。
「カザン様の力が、山の奥へ引かれています!」
「隻眼のオーガの仕業か!」
「違う!」
ナキアが、地面へ置いた金属板を見る。
刻まれた線が。
一斉に。
山体の中心を向いている。
「隻眼のオーガへは流れてない! もっと深い!」
クローシュも杖を握りしめた。
「奪われているようなのに、別の魔力が混じっていない」
「どういうことだ」
「敵の魔法なら、御山様の力へ異物が混じる。それがない」
「では、何が吸っている!」
クローシュが山を見上げる。
「御山様と、同じ火を持つものだ」
その言葉を聞いた瞬間。
キイナが顔を上げた。
「……ヴァル」
「お母さん?」
「この熱……」
キイナの声へ、確信が混じる。
「ヴァルだよ」
周囲にいた者たちが、息を呑んだ。
「火竜様が?」
ダンが山体を見上げる。
「目覚められるというのか」
「分かりません」
キイナは胸元へ手を添える。
もう神器を通して、俺の声を聞くことはできない。
それでも。
長い年月、俺とつながっていた巫女だからこそ知っている熱がある。
「でも、この感じは知ってる」
弱っていた声が、かすかに震えた。
「ヴァルの熱は、御山様によく似てる」
「そんなに力を吸うなら」
ホムラが山を見る。
「起きる時も、静かじゃなさそう」
(そこは、俺も心配してる)
どくん。
三度目。
祈りの石床に置かれた空白の木札が、わずかに跳ねた。
中央へ集められた。
水門の鍵。
種袋。
石工の鑿。
警鐘の槌。
そして。
名も書かれていない、国の木札。
そこへ。
温かなものが集まり始める。
(……信仰?)
いつもの祈りとは、少し違う。
神へ何かを願う熱ではない。
ここで生きると決めた者たちの。
互いを守ると決めた者たちの。
柔らかく。
けれど、強い熱。
それが神器へ触れ。
俺へ届き。
さらに。
俺の奥へ流れ込んでいく。
(ヴァル)
呼びかける。
返事はない。
代わりに。
山体の底から、深い呼吸が届いた。
吸う。
俺の熱が引かれる。
吐く。
地の底で。
長い間、動かなかった何かが。
わずかに身じろぎした。
隻眼のオーガが、初めて焦ったように身体を動かした。
鎖が張る。
岩が砕ける。
金棒を握る腕へ、炎が集まり始めた。
「あいつ、拘束を壊す気だ!」
レンが槍を構える。
「全員、持ち場へ!」
ジンが叫ぶ。
「話は終わりだ!」
ハロルドが盾を持つ。
ガルクが戦斧を担ぐ。
コーレリアが高所へ上がり、弓を北へ向けた。
サナはキイナを安全な位置へ下がらせる。
クライスは、国になると決めた木札を抱え、守備隊の人数を数え始めた。
「第一列、十九人!」
「予備の盾、七枚!」
「弓手、十一人!」
「魔法を使える者は!」
「三人! クローシュさんとナキアさんを含めて五人です!」
「負傷者は南へ!」
人々が動き出す。
だが。
俺は、思うように力を動かせない。
隻眼のオーガの足元から岩杭を出そうとしても、先端が地面を割っただけで止まる。
(足りない)
さっきまでとは違う。
今度は本当に。
使おうとした力そのものが、山の奥へ流れていく。
拘束が砕けたら。
大きな岩壁は、もう作れない。
地面を割り。
隻眼のオーガを再び落とすことも難しい。
『カザン様』
ホムラが神器を弓へ変えた。
『大丈夫』
『でも』
『カザン様の力が戻るまで、私たちが守る』
『戻るかどうかも分からない』
『戻らなかったら、借りた人に返してもらう』
『人?』
『ヴァルに』
(まだ起きると決まったわけじゃないぞ)
そう答えようとした。
その時。
山体の奥で。
何かが割れた。
◇ ◇ ◇
そこは。
火山核よりも深く。
地脈の熱が集まり。
黒い岩に包まれた場所だった。
俺も長い間、静かな熱しか感じていなかった場所。
その中心で。
一つの存在が、眠っている。
かつて。
大型犬ほどの身体で聖域を駆け回っていた火竜。
黒曜石のような鱗。
金色の目。
短い角。
小さな翼。
ヴァル。
長い眠りの中で。
その身体は、俺の記憶にある姿から変わっていた。
どこまで成長したのか。
今の俺にも、まだ正確には分からない。
ただ。
幼かった頃のままではない。
それだけは分かった。
ヴァルを包んでいた黒い岩へ。
一本の亀裂が走った。
赤い光が漏れる。
続いて、二本目。
三本目。
黒い殻の向こうで。
鱗の一枚一枚へ、熱が戻っていく。
(ヴァル)
今度の呼びかけへ。
小さな反応があった。
言葉ではない。
俺を知っている熱だ。
どくん。
鼓動。
岩の亀裂が広がる。
隻眼のオーガが咆哮した。
拘束する岩へ、炎を流し込む。
玄武岩の一部が赤熱した。
鎖が軋み。
岩の顎に、大きな亀裂が走る。
北の魔物たちも、一斉に吠えた。
「隻眼のオーガが動く!」
レンの声。
「盾を上げろ!」
戦いの音が、再び火守村へ戻ってくる。
それでも。
山体の奥では。
別の音が、すべてを押し退けていった。
どくん。
もう一度。
ばきり。
黒い岩が内側から割れる。
隙間から。
黒曜石のような爪が現れた。
爪が岩を押す。
亀裂が広がる。
溜め込まれていた熱が、赤い光となって漏れ出した。
翼が動く。
長い間、折り畳まれていた翼が。
岩の殻を内側から押し広げていく。
周囲の石が熱を帯びた。
炎は、まだ吐いていない。
ただ。
眠りから身体を起こそうとしている。
それだけで。
地の底の熱が大きく揺れていた。
(ヴァル)
黒い頭が。
ゆっくりと持ち上がる。
閉じられていた瞼が。
わずかに開いた。
金色の光が一本。
暗い地の底を切り裂く。
もう片方も。
ゆっくりと開く。
二つの金の目が。
俺へ向いた。
その瞬間。
これまで眠り続けていた熱が。
はっきりと。
俺の呼びかけへ応えた。
(……ヴァル)
返事はない。
けれど。
分かった。
眠っている者へ呼びかけているんじゃない。
もう。
起きている。
地上では。
隻眼のオーガを拘束する岩が、大きく砕ける。
人間たちの叫びが響く。
それでも。
地の底で開いた二つの金眼は。
もう閉じなかった。
二十年の眠りを終え。
火竜ヴァルが。
ついに、目を覚ました。
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