63.一夜の猶予
隻眼のオーガが、走る。
一歩ごとに速度を増し、大地を踏み砕きながら、神器を構えるホムラへ迫ってくる。
右脚は傷ついている。
それでも、一歩の幅が人間とは違う。
ホムラの視界を通して見える巨体が、瞬きをするたびに大きくなっていく。
『ホムラ。左へ三歩』
『逃げろってこと?』
『射線を作るだけだ』
『それなら、逃げたことにはならないね』
ホムラは神器を引いたまま、左へ動く。
光の弦が揺れた。
赤金色の矢の先は、隻眼のオーガに残された、ただ一つの右目へ向けられている。
「中央を開けろ!」
ジンの指示が飛ぶ。
「ホムラと隻眼のオーガの間から離れろ! 左右の魔物だけ止めろ!」
「右、来るぞ!」
ハロルドが予備の盾を構える。
ホムラの射線へ入り込もうとした獣型の魔物が、盾へ爪を立てた。
「ガルク!」
「俺から見て右か!」
「今は全員から見て右だ!」
「分かりやすい!」
盾の横から、ガルクの戦斧が伸びる。
刃ではない。
重い柄で獣型の胴を打ち、射線の外へ押し出した。
反対側では、レンの槍が小鬼型の魔物を牽制する。
左右へ寄った剣士たちも、その足元へ斬り込んだ。
中央に。
ホムラから隻眼のオーガまで続く、一本の道が開く。
「あと四歩!」
クライスが、巨体の足音を数える。
「三歩!」
どん。
隻眼のオーガが、傷ついた右脚を踏み込む。
巨体が、わずかに沈んだ。
「今なら、目の高さが下がる」
高所から見ていたコーレリアが告げる。
「二歩目で頭が右へ揺れる。そのあと、正面へ戻る」
「正面へ戻ったら?」
「射てる」
「外したら?」
「次はない」
「言い方が怖い!」
「本当のことだから」
隻眼のオーガの頭が、右へ揺れる。
ホムラが息を止めた。
「二歩!」
どん。
頭が正面へ戻る。
「今!」
コーレリアの声と同時に、ホムラが光の弦を離した。
赤金色の矢が走る。
クローシュの風を借りていない。
それでも、通常の矢とは比べものにならない速さだった。
煙を貫き。
土埃を裂き。
隻眼のオーガの右目へ、真っすぐ飛んでいく。
(当たる)
そう思った瞬間。
隻眼のオーガの空いた拳へ、炎が集まった。
火球を投げるためではない。
燃える拳が、右目の前へ持ち上げられる。
圧縮された炎が、顔の前で分厚い壁へ変わった。
『ホムラ!』
『分かってる!』
神器の矢が、炎へ突き刺さる。
赤い火と、赤金色の光。
二つが正面からぶつかった。
矢は止まらない。
炎の外側を貫き、中心へ進む。
隻眼のオーガが、さらに拳へ魔力を集めた。
炎が内側へ渦巻き、光の矢へ何重にも絡みつく。
矢の表面が削られる。
先端が細くなる。
それでも。
あと少し。
炎の向こうにある右目へ届こうとした。
「行け!」
ホムラが叫ぶ。
光の矢が、炎の壁を突き抜けた。
隻眼のオーガの顔へ届く。
だが。
右目へ入る寸前。
残っていた炎が、内側から爆ぜた。
赤金色の矢が砕ける。
光の欠片が、隻眼のオーガの頬と額へ突き刺さった。
巨体が、わずかに顔を背ける。
それでも。
残された右目は、潰れていなかった。
「神器の矢でも、駄目なの?」
ホムラの声が揺れる。
『違う』
『でも、届かなかった』
『あいつは、目を守るために火を全部集めた』
隻眼のオーガの拳から、炎が消えている。
右目を守るために、攻撃へ使うはずだった魔力を使わせた。
『守らせたんだ。無駄じゃない』
『でも、まだ来る』
『うん』
隻眼のオーガが、顔を正面へ戻した。
右目の周囲は焼け、額から赤黒い血が流れている。
だが、その足は止まらない。
「一歩!」
クライスの声。
どん。
隻眼のオーガが、最後の一歩を踏み込む。
巨体が第二防衛線へ届く。
金棒が振り上げられた。
ハロルドの盾も。
俺が作る岩壁も。
一撃でまとめて砕くつもりだ。
(止められない)
今から壁を作っても、勢いの乗った金棒には耐えられない。
足を捕らえても、先ほどのように力ずくで壊される。
その時。
「止めなくていい」
ジンが言った。
木板の上で、石材置き場だった場所を指す。
「落とします」
そこには、地の底を走った火を逃がしたことで生まれた、大きな穴がある。
石も。
木材も。
道具も。
すべて吹き飛んだ、深い陥没地だ。
隻眼のオーガの進路から、わずかに西へ外れている。
「コーレリア。穴の縁を見られるか」
「見える」
「どこが一番崩れやすい?」
コーレリアの目が、陥没地の周囲を走る。
地面へ開いた亀裂。
傾いた石。
土埃の流れ。
「北東の縁。黒い石が三つ並んでるところ」
「人は?」
「いない」
「クライス!」
名を呼ばれるより早く、クライスは木札を確認していた。
「石材置き場跡の西側、作業者なし! 東側の通路も全員退避済み! 穴の周囲に味方はいません!」
「なら、あそこへ入れる」
ジンは、隻眼のオーガを見る。
「御山様に地面を動かしていただき、進路を西へずらす。穴の縁へ足を置いた瞬間、崩します」
「言うのは簡単だぞ」
レンが槍を構えたまま答える。
「あの巨体を、どうやって曲がらせる」
「狙っている相手に動いてもらいます」
視線が、ホムラへ向いた。
「わたし?」
「隻眼のオーガは、神器と新しい巫女を見ている。ホムラが西へ動けば、進路も変わる」
「囮にする気か!」
レンの声が大きくなる。
「おじいちゃん」
ホムラが神器を握り直す。
「今は、私が話してる」
「囮にされる本人より先に反対して、何が悪い!」
「悪くないけど、うるさい!」
「うるさいとは何だ!」
(親子三代で、似たようなやり取りをしているな)
ホムラは陥没地を見た。
続いて、自分へ向かってくる隻眼のオーガを見上げる。
「穴へ落としたら、止められる?」
『落とすだけでは、出てくる』
「じゃあ、落ちたあとに固める」
『すぐ壊されるぞ』
「すぐなら、少しは止まる」
ホムラが、ジンへ向き直った。
「やる」
「西へ移動してください。ただし、穴の手前までです。絶対に縁へ近づかないでください」
「何歩?」
「二十歩」
「おじいちゃんより分かりやすい」
「比べるな!」
レンの声を背中で受けながら、ホムラが走る。
隻眼のオーガの右目が、その姿を追った。
巨体の向きが、わずかに西へ変わる。
「まだ足りない!」
コーレリアが叫ぶ。
「あと半歩、西!」
「カザン様!」
『分かった』
俺は、隻眼のオーガの左足の下へ斜めの岩を押し上げた。
踏み込んだ足が、わずかに外へ滑る。
巨体が進路を修正する。
西へ。
石材置き場跡の穴へ近づく方角へ。
隻眼のオーガが、金棒を横へ振るった。
進路を変えられたことへ気づいたらしい。
俺が押し上げた岩を、まとめて砕く。
だが。
それで、もう一歩。
隻眼のオーガは西へ踏み込んだ。
「黒い石、一つ目を越えた」
コーレリアが告げる。
「二つ目」
傷ついた右足が、陥没地の縁へ近づく。
ホムラが神器を弓へ変えた。
光の弦を引く。
『目を狙うのか?』
『今度は脚』
赤金色の矢が放たれた。
隻眼のオーガの右膝裏。
ガルクが戦斧で傷をつけ。
何度も開き。
焼いて塞がれた場所へ突き刺さる。
今の矢に、傷そのものを深く抉るほどの威力はない。
だが。
光の糸が、神器と隻眼のオーガをつないだ。
『カザン様。見える?』
『見える』
傷ついた右脚。
足の裏。
その下へ広がる、崩れかけた地面。
俺自身の感知経路は、まだ焼かれたままだ。
それでも、ホムラの目と光の道が、失われた場所を俺へ教えてくれる。
「三つ目!」
コーレリアの声。
「今です!」
「クライス!」
ジンが呼ぶ。
クライスが、隻眼のオーガの足音に合わせて数え始める。
「一!」
右脚が持ち上がる。
「二!」
巨体が前へ傾く。
「三!」
右足が、陥没地の縁へ下りた。
(今だ)
俺は、その下に残っていた岩を引いた。
支えを失った地面が崩れる。
隻眼のオーガの右脚が、膝まで沈んだ。
巨体が大きく傾く。
だが。
咄嗟に金棒を横へ倒し、陥没地の両端へ渡した。
太い金棒が橋となる。
隻眼のオーガの両腕が、その柄へしがみついた。
完全には落ちない。
「止まった!」
「まだだ!」
隻眼のオーガが、腕へ力を込める。
金棒を支えに、沈んだ右脚を引き抜こうとする。
地面が盛り上がる。
陥没地の縁が、さらに崩れた。
巨体が、少しずつ持ち上がっていく。
「金棒の西側!」
コーレリアが、白い布を結んだ矢を放つ。
矢は、金棒を支えている古い木組みのそばへ刺さった。
石材を動かすために使われていた、太い梁だ。
爆発で半ばまで割れ。
それでも、金棒の端を支えている。
「ガルク!」
前線から声が飛ぶ。
「斬れるか!」
「斬るのは木だな!」
「そうだ!」
「それなら、オーガより柔らかい!」
ガルクが戦斧を担ぎ、走り出す。
「俺も行く!」
ハロルドが予備の盾を持って追う。
「盾は小さいぞ!」
「お前を隠すくらいなら足りる!」
「横幅を言ってるのか!」
「今は褒めてる!」
「絶対に違う!」
二人が、陥没地の縁へ近づく。
隻眼のオーガが気づいた。
金棒を握る片手を離し、拳を振り上げる。
「来る!」
ハロルドが、ガルクの前へ滑り込む。
巨大な拳が、二人へ落ちる。
『させるか!』
俺は拳の下へ、何本もの細い岩杭を押し上げた。
一本では止められない。
砕かれる。
二本目。
三本目も折れる。
それでも、拳の速度がわずかに落ちた。
「今だ!」
ハロルドが盾を頭上へ構える。
拳そのものではなく。
砕けた岩杭と、その衝撃を受け止める。
盾の表面が大きく凹んだ。
ハロルドの膝が地面へつく。
「ガルク!」
「分かってる!」
ガルクが戦斧を振り上げる。
白い矢が刺さった梁へ。
一撃。
刃が木へ食い込む。
二撃。
亀裂が広がる。
「次で折れます!」
クライスの声が、遠くから飛んでくる。
「何で分かる!」
「今まで割れた梁を数えています!」
「便利だな、数えるやつ!」
「早く振ってください!」
「三!」
戦斧が、梁を断ち切った。
金棒の西側が沈む。
隻眼のオーガの腕が滑った。
支えを失った巨体が、陥没地へ落ちる。
腰まで。
さらに崩れた土へ沈み。
胸元近くまで埋まった。
火守村全体が揺れた。
◇ ◇ ◇
(固める!)
俺は、陥没地の下から岩を押し上げる。
隻眼のオーガの右脚を囲む。
左脚も。
腰の前後から、分厚い玄武岩を重ねていく。
一本の柱ではない。
内側へ向けて噛み合う、岩の顎。
前から。
後ろから。
左右から。
巨体へ何重にも食い込ませる。
隻眼のオーガが咆哮した。
腕で岩を砕く。
一枚目の顎が外れる。
二枚目へ拳を叩きつける。
亀裂が走った。
『カザン様、右の下!』
ホムラの目が、崩れ始めた場所を捉える。
『見えた』
俺は亀裂の外側へ、新しい岩を押し込んだ。
割れた岩を外さない。
隙間へ別の岩を食い込ませ、崩れる方向を塞ぐ。
「水を回して!」
ナキアが叫ぶ。
「熱い岩へ直接かけないで! 外側の土へ! 水と泥で隙間を埋める!」
水桶が並べられる。
魔法を使える者たちが、水を薄い流れにして陥没地の周囲へ巡らせた。
水が土と混ざり、玄武岩の外側へ流れ込む。
「地面を固めろ!」
クローシュも杖を向ける。
「全部じゃない! 御山様が出した岩の根元だけだ! 広げたら魔力が足りなくなる!」
若者たちの魔力が、泥へ染み込む。
柔らかかった土が締まり、岩の隙間へ食い込んだまま固まっていく。
人間たちの魔法だけでは、隻眼のオーガを止められない。
俺の岩だけでも、壊され続ける。
だが。
俺が押し上げた岩を。
人間の水と土が、外側から支えている。
「石材運搬の鎖を持ってこい!」
ジンが指示を出す。
爆発を免れた倉から、太い鎖が運ばれてくる。
もともとは、大きな石を荷車へ固定するためのものだ。
「どこへかける!」
鎖を持った男が尋ねる。
「金棒だ!」
ジンは、陥没地へ斜めに落ちた金棒を指した。
「持ち上げさせるな! 御山様が岩で包める位置へ固定する!」
「俺たちで、あれを押さえるのか?」
「力比べはしなくていい! 位置だけ保て!」
八人が、二組に分かれて鎖を持つ。
ハロルドたちが、その前へ盾を並べた。
陥没地の周囲には、隻眼のオーガへ近づこうとする小型の魔物が集まり始めている。
「右から三体!」
コーレリアの矢が飛ぶ。
一体目の前脚へ。
二体目の目の前へ。
三体目は、矢を避けて跳ぶ。
その着地点へ、ガルクの戦斧が振り下ろされた。
「鎖を通せ!」
ハロルドが盾を押し出す。
「こっちは持たせる!」
鎖を持った者たちが、金棒の下へ鉄の鉤を滑り込ませる。
反対側で受け取り。
太い柄へ二重に巻く。
「八人、全員通した!」
クライスが数える。
「退避も八人! 欠けていません!」
鎖の先が、俺の押し上げた岩柱へ結ばれる。
(そこだ)
俺は岩柱の上部を広げ、鎖ごと包み込んだ。
反対側も。
金棒が、陥没地へ斜めに固定される。
隻眼のオーガが持ち上げようとする。
鎖が張る。
岩柱が軋む。
人間の鎖だけなら、一瞬で引きちぎられていただろう。
だが、鎖の先は俺の岩の中にある。
金棒そのものにも、下から新しい岩をせり上げる。
太い柄へ絡みつかせる。
一重。
二重。
三重。
金棒と。
それを握る隻眼のオーガの両腕を。
陥没地の中へ押さえ込む。
巨体の拳へ、炎が集まった。
「火が来る!」
ナキアの声。
隻眼のオーガが、岩の拘束を内側から焼こうとしている。
『ホムラ。拳が見えるか』
『見える』
『どこへ火が集まってる』
『手首の内側。鎖の近く』
ホムラが神器を引いた。
光の矢を放つ。
狙ったのは、隻眼のオーガではない。
拳と鎖の間へ流れ込もうとする炎だ。
赤金色の矢が、火の中心へ突き刺さる。
炎が弾ける。
消すことはできない。
それでも、鎖へ集まるはずだった熱が左右へ散った。
「水は!」
ホムラが叫ぶ。
「だから、直接かけないで!」
ナキアが言い返す。
「蒸気で鎖ごと飛ぶわ!」
「じゃあ、何かして!」
「今してる!」
「見えない!」
「魔法道具は、派手に光ればいいものじゃないの!」
(それは神器にも言っているのか?)
ナキアが並べた金属板が、淡い青色の光を放つ。
ホムラの視界を通して、その光が俺にも伝わってきた。
鎖の周囲にある熱を少しずつ奪い、水路へ流しているらしい。
隻眼のオーガの火魔法と比べれば、あまりにも小さな力だ。
だが。
鎖が赤熱するまでの時間を遅らせることはできる。
その時間に。
俺が、さらに岩を重ねる。
人間たちが、外側を固める。
隻眼のオーガが、再び咆哮した。
岩の顎が一つ砕ける。
すぐに、ホムラが亀裂を見つける。
『左の腰!』
『分かった』
新しい岩を差し込む。
今度は右。
肩の下。
金棒の先。
ホムラの目が。
コーレリアの矢が。
クライスの数が。
俺だけでは見つけられない場所を教えてくれる。
崩れるたびに、塞ぐ。
壊されるたびに、重ねる。
隻眼のオーガの力が衰えたわけではない。
それでも。
一人ではない俺たちの方が。
壊されたあとに、もう一度立て直すのが速かった。
やがて。
隻眼のオーガの動きが止まった。
◇ ◇ ◇
「止まった……?」
誰かが呟く。
「違う」
レンは槍を下ろさない。
「あいつが、止まっただけだ」
隻眼のオーガは。
両脚を岩に埋められ。
腰と胸を、何重もの玄武岩に囲まれ。
金棒ごと両腕を固定されている。
残る右目だけが、岩の隙間から火守村を見ていた。
無理に動けば、拘束は少しずつ壊れる。
だが、動くたびに俺たちは弱い場所を見つけ、岩を重ねてくる。
それを理解したのかもしれない。
隻眼のオーガは、力を使うことをやめた。
右目が、ホムラを見ている。
「笑ってる?」
ホムラの声が、小さくなる。
『そう見えるな』
『捕まってるのに?』
『捕まっているからだ』
動かなければ。
俺たちは、どこが崩れようとしているのか分からない。
火守村の者たちは拘束を見張るため、人を残し続けなければならない。
隻眼のオーガは、自分が抜け出すまでの時間と。
俺たちが疲れ切るまでの時間を比べている。
北の森から、短い咆哮が返った。
小型の魔物たちが、同時に後退する。
「追うな!」
ジンが叫ぶ。
「逃げているんじゃない! あいつらも待つつもりだ!」
魔物たちは森の中へ消えなかった。
矢の届かない距離。
だが、火守村からも見える場所へ散らばり、座り込む。
獣型も。
小鬼型も。
互いに争わず。
隻眼のオーガが、再び命令を出す時を待っている。
戦いの音が消えた。
代わりに。
水が泥へ染み込む音。
負傷者の息遣い。
拘束する岩の奥から響く、小さな亀裂だけが聞こえた。
「ナキア」
ジンが尋ねる。
「どのくらい、もちますか」
ナキアが、金属板へ浮かぶ赤い線を確かめる。
「動き続ければ、すぐ壊れると思っていたわ」
「今は動いていません」
「だから、分からない」
「分からない?」
「あいつ、力を溜めてる」
赤い線は消えていない。
隻眼のオーガの身体の中では、まだ大きな魔力が動いている。
「このまま何もしなければ?」
「夜明けまでは、もたせられるかもしれない」
「夜明けたら?」
ホムラが尋ねる。
「朝食より先に、拘束が壊れるかも」
「じゃあ、いつ食べればいいの?」
クローシュが答えた。
「今だ」
「食べてる間に壊れたら?」
「片手で食べろ」
「巫女って忙しいね」
「今日なったばかりの人間が、もう仕事へ文句を言うな」
(でも、食べることは大事だ)
ホムラの視界の端で、ジンが空を見上げた。
西へ傾いた太陽が、山の端へ沈み始めている。
ホムラの目を通して見える空は、赤かった。
隻眼のオーガの炎ではない。
一日の終わりを知らせる、夕暮れの色だ。
「一晩」
ジンが呟く。
「俺たちが買えたのは、それだけか」
「一晩もある」
ダンが、杖をつきながら祈りの石床へ歩いてくる。
その後ろには、スワイスと、避難してきた集落の代表者たちがいた。
水路集落。
畑集落。
石切り集落。
それぞれの土地で暮らしていた者たちだ。
「休むには短い」
ダンが、岩に埋まった隻眼のオーガを見る。
「だが、決めるには十分だ」
「何を決めるんですか」
ジンが尋ねる。
「明日の戦い方ではない」
ダンの杖が、木板の上を示す。
北の見張り台は焼かれた。
東の橋は落ちている。
西の畑は水へ沈んだ。
石材置き場も、巨大な穴へ変わっている。
避難してきた者たちの家が残っているかどうかさえ、まだ分からない。
「今日を生き延びても、以前と同じ村へ戻れるとは限らん」
ダンは続ける。
「橋を直す者が要る。畑を作り直す者が要る。食料を分け、道を守り、次の襲撃へ備える者も要る」
「それぞれの村で――」
畑集落の代表が言いかける。
途中で、口を閉じた。
それぞれの村だけでは、できなかった。
今日、どこか一つの集落だけで守ろうとしていたら。
いくつの場所が失われていたか分からない。
「警鐘は、二十年前からつながっていた」
スワイスが言う。
「道も、水路もつないだ。今日は、命まで同じ場所へ集まった」
木板の上には。
火守村の者だけではなく。
周囲の集落に暮らす、一人ひとりの木札が並んでいる。
クライスが、そのすべてを数え続けていた。
「それでも、明日になれば別々の村へ戻るのか」
スワイスの問いに、誰も答えなかった。
「火守村へ入れという話ですか」
水路集落の代表が尋ねる。
「違う」
ダンは首を振る。
「火守村だけが残り、他の村がその下へ入る形では、何も変わらん」
「では、どうする」
「それを今夜、皆で決める」
ダンが、岩の隙間からこちらを見続ける隻眼のオーガへ目を向ける。
「あれが拘束を壊す前に」
ジンが眉を寄せた。
「急いで決めていい話ではありません」
「二十年かけて、準備はしてきた」
「俺たちは、国を作るために道をつないだわけではない」
「人を守るためだ」
「はい」
「なら、同じだ」
ダンの言葉が、静かに落ちる。
「村という形で守り切れなくなったのなら、守れる形へ変える」
畑集落の代表が、木板を見る。
「村を束ねるだけでは足りない」
「そうだ」
「同じ決まりを作り。同じ備えを持ち。同じ指示で動く」
「そうしなければ、次は間に合わん」
代表者が、ゆっくりと息を吐いた。
「そこまで一つにするなら……」
その声が、夕暮れの祈りの石床へ響く。
「もう、村ではない」
短い沈黙。
やがて、誰かが呟いた。
「……国、か」
誰も、すぐには答えなかった。
否定する者もいない。
だが。
まだ決まってはいない。
家を失った者も。
家を残してきた者も。
二十年間、この土地を守ってきた者も。
今日初めて同じ壁の内側で戦った者もいる。
その全員が。
これまでとは違う一つの形で生きていくのか。
今夜。
答えを出さなければならない。
その時。
ぎしり。
隻眼のオーガを拘束する玄武岩の奥で、何かが軋んだ。
一本の亀裂が。
ゆっくりと、上へ伸びていく。
「……クライス」
ジンの声が低くなる。
「見張りを倍に」
「はい」
夜明けまで、あと一晩。
俺たちが買った時間は。
休むための夜ではなかった。
この土地に生きる者たちが。
明日から、何になるのか。
それを決めるための夜だった。
「残された時間は僅かだか、決めねばなるまい」
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