66.国になった朝
いつも誤字脱字報告や評価をありがとうございます。
「火竜王国」
ジンが口にした名を、クライスが空白の木札へ書き込んだ。
火。
竜。
王。
国。
一文字ずつ、急がず。それでも迷うことなく書き終える。
クライスはその木札を、水門の鍵、種袋、石工の鑿、警鐘の槌の中央へ置いた。
「記録しました」
顔を上げる。
「本日、日の出とともに、警鐘でつながる集落は一つの国となりました」
歓声が上がった。
隻眼のオーガを倒した時とは違う。
剣や盾を掲げる者はいない。疲れ切った者たちが、隣にいる家族や、昨日までは別の村で暮らしていた者たちと顔を見合わせ、声を上げている。
「火竜王国!」
誰かが叫んだ。
「火竜王国!」
別の声が重なり、さらにいくつもの声が続く。
昨日までは存在しなかった国。
王も。
城も。
決まりさえ、ほとんどない。
それでも。
ここにいる者たちは、自分たちが何になったのかを知っていた。
(火竜王国、か)
少し大げさな気もする。
だが、俺自身が火山で、その山からあれだけ大きな火竜が出てきた。
名前だけなら、間違ってはいない。
「かしこみかしこみ。御山の神火に守られ、黒き火竜を王と仰ぎし新生の国、今ここに黎明を迎え――」
(フラン)
「かしこみかしこみ。国ができました」
(短くなったな)
「かしこみかしこみ。日々、精進しております」
東から差し込む朝日が、ヴァルの翼を照らす。
黒曜石のような鱗の縁へ、赤金色の光が走った。
空を大きく一度旋回したヴァルが、火守村の上へ戻ってくる。翼が打ち下ろされるたび、強い風が村へ吹きつけた。
「天幕を押さえて!」
ナキアが叫ぶ。
「水桶も! 倒れるわよ!」
村人たちが慌てて布と桶を押さえる。
半壊していた小屋から、屋根板が一枚飛んだ。
「屋根!」
ホムラの声。
コーレリアが飛んでいく板を目で追う。
「人はいない場所へ落ちる」
「なら大丈夫?」
「屋根の持ち主は、大丈夫じゃないと思う」
「あとで拾おう!」
ヴァルは火守村から少し離れた場所へ降り立った。
それでも、着地の振動で祈りの石床が揺れる。
地面へ伏せた黒い翼だけで、小さな家が何軒も隠れそうだった。
「……大きいな」
ダンが杖をついたまま見上げる。
「二十年前は、抱えられるほどだったと思うが」
「お前が抱えようとして噛まれただろう」
スワイスが言った。
「あれは噛まれたのではない。手を口に入れてしまっただけだ」
「同じだ」
「ヴァル様のお口が、偶然そこにあった」
(そこまでヴァルを庇わなくてもいいぞ)
ヴァルの金色の目が、二人へ向いた。
ダンとスワイスが、同時に姿勢を正す。
「お目覚めになられたこと、心よりお喜び申し上げます」
「火竜様におかれましても、ご壮健のご様子で何よりでございます」
(急に丁寧になったな)
ヴァルの喉が低く鳴った。
返事なのか。
昔のことを覚えているのか。
今の俺にも、そこまでは分からない。
ただ、怒ってはいないらしい。
祈りの石床に集まっていた者たちも、ヴァルへ向き直った。
誰かが膝をつく。
その隣の者も頭を下げる。
やがて朝日の中で、多くの者が火竜へ礼をした。
「火竜様」
水路集落の代表が声を上げる。
「我らをお救いくださり、ありがとうございました」
「ありがとうございました!」
人々の声が重なる。
ヴァルは、しばらく彼らを見ていた。
やがて大きな頭を、ゆっくりと下げる。
礼を返したようにも見えた。
「ヴァル様」
ホムラが前へ出ようとする。
「動かないでください」
サナが、巻き終えたばかりの腕の布をつかんだ。
「少しだけ」
「駄目です」
「ヴァル様に挨拶するだけだよ」
「ここからでも聞こえます」
確かに。
今のヴァルの大きさなら、数歩近づいたところで大差はない。
ホムラは諦め、神器を持っていない左手を上げた。
「ヴァル様! 力を貸してくださって、ありがとうございました!」
ヴァルがホムラを見る。
続いて、包帯を巻かれた右腕へ視線を移した。
鼻先から細い息が漏れる。
炎ではない。
温かな風が、ホムラの髪を揺らした。
「熱くない」
『祝福の残りを確かめたんじゃないか』
「もう消えたよ」
『見れば分かると思う』
「じゃあ、心配してくれた?」
ヴァルの目が、俺の山へ向いた。
(答えに困ってこっちを見るな)
キイナが、サナに支えられながら片手を上げる。
「ヴァル様」
いつもの呼び方より、わずかに丁寧だった。
「火守村を。新しく生まれた国を守ってくださり、ありがとうございました」
ヴァルの喉が鳴る。
「でも」
キイナが、村の家々を見回した。
「今のお身体では、ここで暮らすのは少し難しそうですね」
「少し?」
ホムラが尋ねる。
「寝返りを打ったら、村が半分なくなるよ」
「それは少しじゃないね」
ヴァルが翼をわずかに動かした。
それだけで、また強い風が起こる。
押さえられていた天幕が、大きく膨らんだ。
「火竜様!」
天幕を押さえていた男が、慌てて声を上げる。
「大変恐れ入りますが、翼はそのままでお願い申し上げます!」
ヴァルが動きを止めた。
金色の目が、天幕と男を交互に見る。
「通じた……」
男が、ほっと息を吐く。
「かしこみかしこみ。国民の願いを聞き届け、御翼を鎮めたまいし火竜の慈悲――」
(今のは、言ってもいいんじゃないか)
「かしこみかしこみ。では最初から――」
(最初からはいい)
ヴァルが、俺の山へ顔を向けた。
火口からは、まだ薄い煙が立ち昇っている。
その奥には、長い眠りを過ごした深い空洞と、今のヴァルでも身体を休められる地底の空間がある。
(戻るのか)
金色の目が一度だけ細くなった。
俺へ届く熱が、肯定するように揺れる。
ヴァルが地面を蹴った。
翼が大きく開く。
「今度こそ天幕を押さえろ!」
クローシュの声。
「屋根も!」
ホムラが続ける。
「さっき飛んだ屋根板は!」
「もう落ちた!」
コーレリアが答えた。
「どこに!?」
「人のいない畑」
「あとで拾おう!」
強い風が村を駆け抜ける。
ヴァルの巨体が浮かび上がった。
人々は天幕や水桶を押さえながら、それでも空を見上げる。
「火竜様!」
ダンが杖を掲げる。
「御山へお戻りになられましても、どうか我らをお見守りください!」
「火竜様、ありがとうございました!」
「また、お姿を――」
そこまで言いかけた男が、飛びそうになった桶を慌てて押さえた。
「……お見せいただければ、うれしく存じます!」
(毎日は難しそうだな)
ヴァルが朝の空を一度、大きく旋回する。
生まれたばかりの国を見渡すように。
水へ沈んだ西の畑。
落ちた東の橋。
焼けた北の見張り台。
崩れた岩壁。
そして、その中央で朝を迎えた人々。
すべてを金色の目へ映してから、ヴァルは火口へ向かった。
黒い翼が折り畳まれ、巨大な身体が煙の中へ消える。
火道を下りる振動が、山体へ届いた。
一度。
二度。
やがてヴァルは、地底の広い空洞へ戻った。
身体を丸め、翼を畳む。
眠りへ戻ったわけではない。
金色の目は開いたまま、俺の熱へ触れながら地上の様子を確かめている。
(これからは、そこにいるのか)
低い唸りが、岩を通して返った。
(分かった。地上へ出たい時は、先に教えてくれ)
ヴァルの尾が、地底の岩へ当たった。
ごん。
村にいた者たちが、一斉に足元を見る。
「今の揺れは?」
ホムラが尋ねる。
『ヴァルが尻尾をぶつけた』
「大丈夫なの?」
『ヴァルは大丈夫だ』
「山は?」
『少し痛い』
「ヴァル様、次からお気をつけください!」
ホムラが地面へ向かって呼びかける。
返事の代わりに、地底から温かな熱が届いた。
◇ ◇ ◇
「それでは」
ジンが、祈りの石床へ新しい木板を置いた。
「国として、最初の仕事を始めます」
「休むのが先ではないのか」
レンが言った。
鎧も槍も、泥と煤にまみれている。
「休む者を決めるためにも、今の状況を確認します」
「理屈は分かるが、お前も寝ていないだろう」
「レンさんもです」
「俺は慣れている」
「何に?」
「眠れない夜にだ」
「それは慣れない方がいいと思う」
キイナの言葉に、レンが黙る。
ホムラが首を傾げた。
「おじいちゃん、何日くらい寝なくても平気?」
「二日だ」
「三日目は?」
「寝る」
「普通だね」
「人間だからな!」
(そこは威張るところなのか)
クライスが木札を並べる。
最初は、治療所。
「負傷者、二十六人。うち、すぐに動かせない方が四人。サナさんたちが治療を続けています」
「重傷者は?」
「命に関わる状態の方はいません」
サナが答えた。
「ただし、無理をすれば悪化する方は多いです」
「戦える者は?」
「その質問を、負傷者の前ではしないでください」
「なぜですか」
「全員、戦えると言いますから」
治療所の方から声が上がった。
「俺は戦えるぞ!」
「寝てください」
「槍なら持てる!」
「寝てください」
「片腕だけでも――」
「次に口を開いたら、眠くなる薬を使います」
静かになった。
(本当に、セナの家は敵に回したくないな)
クライスが次の木札へ触れる。
「避難名簿上の欠員はありません。火守村、水路集落、畑集落、石切り集落。そのほか警鐘で避難した方々も、確認できる範囲では全員います」
何人かが、その場へ座り込んだ。
戦っていた間は、数を聞いても、すぐ次の敵を見なければならなかった。
今になって、ようやく。
自分たちが生き残ったことを実感したらしい。
「灰色の魔物は?」
ジンが尋ねる。
「六体。すべて生存しています」
「生きているのか」
ガルクが言った。
「サナが手当てしたからな」
「敵だぞ」
「動けないようにしただけです」
サナは平然と答える。
「死なせるようには切っていません」
「どうする」
レンが、灰色の魔物を押さえ込んでいる場所を見る。
盾。
槍の柄。
布。
縄。
あり合わせの物で、六体はそれぞれ拘束されている。
「今すぐ処分するべきだ」
「待ってください」
ナキアが言った。
「地面の下を通り、魔力を使わず神器へ近づいた。隻眼のオーガが、どうやって指示を出していたのかも分からない」
「調べたいのか」
「ええ。もう一度、同じ方法で侵入されたくないでしょう?」
「逃げられたら」
「逃がしません」
ジンが少し考える。
「古い採石場の石穴を使います」
「祈りの石床から遠い場所だな」
「入り口を石で狭くして、見張りを置く。御山様にも、周囲の振動を確認していただきます」
『北側ほどは焼かれてない。あそこなら分かる』
ホムラが、俺の言葉を伝えた。
「カザン様にも確認していただけるって」
「決まりだ」
レンは完全には納得していない様子だったが、槍を下ろす。
「逃げる素振りを見せたら、俺が止める」
「おじいちゃんが見張るの?」
「交代制だ」
「零歩以内?」
「魔物へくっついてどうする!」
(歩数の使い方が変わってきているな)
クライスが、被害を示す札を並べ始める。
「北の見張り台、焼失」
一枚。
「北門と外壁、大破」
二枚目。
「石材置き場、消失。保管していた補修用の石材と木材も、ほぼすべて失われています」
三枚目。
「西の畑は広い範囲で浸水。水路の一部も破損」
四枚目。
「東の古い橋、崩落」
五枚目。
「屋根の焼けた家、十一軒。壁に被害がある家、二十七軒」
六枚目。
「古い排水路と祈りの石床の下に、侵入経路となった空洞があります」
七枚目。
木板が、被害を示す木札で埋まっていく。
「国って、最初から壊れてるんだね」
ホムラが呟く。
「生まれたばかりなら、壊れているのではない」
ダンが答えた。
「これから作る場所が多いだけだ」
「言い方の問題じゃない?」
「物事は、言い方で少し変わる」
「じゃあ、石材置き場がなくなったのは?」
「新しい広場ができた」
「あれは穴だよ」
「深い広場だ」
(言い方にも限界はあると思う)
それでも、人々の間へ小さな笑いが生まれた。
ジンは木板を見下ろす。
「すべてを同時には直せません」
「どこから手をつける」
水路集落の代表が尋ねた。
「負傷者の治療と、寝る場所の確保が最優先です。その次が水路」
「北門ではないのか」
火守村の男が声を上げる。
「魔物は散っただけだ。戻ってくるかもしれない」
「北側には見張りを置きます。崩れた岩を使い、仮の柵も作る」
「それで守れるのか」
「北門を完全に直そうとすれば、残った石材と人手のほとんどを使います」
ジンの指が、西の畑と水路を示す札へ触れた。
「水路を直さなければ、水へ沈めた畑から水を抜けません。下流へも水が届かない」
「火守村より、畑集落を先に直すのか」
「畑集落だけではありません」
水路集落の代表が答えた。
「上流の壊れた場所を直さなければ、火守村の水路にも影響する」
「でも、門が――」
「門は食えん」
畑集落の代表が言った。
「水がなければ、国全体が困る」
火守村の男は口を閉じた。
ジンが頷く。
「共通の水路を先に直します。その次に、北側の防備を固める」
「食料は?」
「水が引いた場所から、回収できる作物を集めます。濡れた種や穀物も、乾かせるものは乾かす」
「東の橋は」
「当面は渡し舟と綱を使います。橋を作り直すのは、そのあとです」
石切り集落の代表が、落ちた橋を示す札を見る。
「石切り集落へ戻れない者も出るぞ」
「仮の住居を火守村と周辺へ作ります」
「火守村へ入れという話ではないと言ったな」
「はい」
ジンは木板の中央にある、火竜王国と書かれた札を指した。
「火守村の者が、同じ国の者へ土地を貸します」
「返せるものがない者もいる」
「今は返さなくていい」
「いつ返す」
「次に、別の場所が困った時です」
水路集落の代表が、わずかに笑う。
「国になったばかりなのに、もう借りが増えるな」
「貸し借りを数える者ならいます」
ジンがクライスを見る。
「俺ですか?」
「頼めるか」
「人だけでなく、食料と資材も?」
「国の記録として残してほしい」
クライスは、火竜王国の木札を見る。
続いて、被害と人々の札へ目を移した。
「分かりました」
胸元から、新しい木札を取り出す。
「最初の国の記録は、何を残しますか」
ジンは少し考えた。
「勝ったことではなく」
治療所。
壊れた家。
水へ沈んだ畑。
落ちた橋。
それらを見渡す。
「誰が生きていて。何を失い。何を直さなければならないのか。それを残してください」
「分かりました」
クライスが、最初の印をつける。
「火竜王国、第一日」
◇ ◇ ◇
「それで」
石切り集落の男が、ジンを見る。
「王は誰なんだ」
祈りの石床へ、微妙な沈黙が落ちた。
「国の名前に、王と入っている」
「火竜王国ですからね」
ジンが答える。
「火竜様が王なのか?」
何人かが、俺の山を見上げた。
火口からは、静かに煙が上がっている。
地底では、ヴァルが広い空洞へ身体を丸めていた。
会議へ出てくる様子はない。
「火竜様に、毎日の水門の開閉まで決めていただくのか?」
水路集落の代表が尋ねる。
「それは無理だと思う」
ホムラが答えた。
「どうしてだ」
「ヴァル様、たぶん水門の大きさを知らないよ」
『昔なら、水門そのものより小さかった』
「今は?」
『尻尾を動かしたら、水門がなくなる』
「それは、お願いしない方がよさそうだな」
笑いが漏れた。
「かしこみかしこみ。火竜ヴァル様は国家守護の御位に座し、日々の政は人の王が担うものと――」
「それでいい」
ダンが言った。
フランの言葉を止めようとしていたホムラが、口を閉じる。
「火竜様は、この国を守る象徴だ」
ダンが火山を見る。
「御山様は、我らが暮らす土地そのものを守ってくださる」
続いて、人々へ目を向ける。
「だが、水門を開け、橋を直し、食料を分けるのは人の仕事だ」
「なら、その人間を誰がまとめる」
レンが尋ねた。
答えは、すぐには返らなかった。
ただ。
一人。
また一人。
人々の視線が同じ場所へ集まっていく。
ジンが眉を寄せた。
「……嫌な予感がするんですが」
「何がだ」
ダンが尋ねる。
「皆さん、俺を見ています」
「見ているな」
「昨日、王にはならないと言いました」
「聞いた」
「では」
「だが、国はできた」
「話がつながっていません」
「つながっている」
水路集落の代表が言った。
「昨日、畑を沈めると決めたのは誰だ」
「俺一人ではありません」
「石材置き場を捨て、人を優先すると決めたのは?」
「皆の状況を聞いた上でです」
「戦線を分け、誰をどこへ動かすか決めたのは」
「必要だったからです」
「だからだ」
畑集落の代表も続く。
「一人で全部決める者が欲しいわけじゃない」
水門の鍵を見る。
「皆の話を聞いた上で、最後に決める者が要る」
「俺でなければならない理由はありません」
「では、誰を推す」
ジンが黙った。
祈りの石床へ、わずかな笑いが広がる。
「卑怯ですよ」
「何がだ」
ダンが尋ねる。
「断るなら代わりを出せという顔をしています」
「王とは、そういうものかもしれんな」
「絶対に違うと思います」
「少なくとも、俺はやらん」
「ダンさん」
「年寄りに国を背負わせるな」
「さっきまで一番元気に建国を進めていたでしょう」
「建てるのと背負うのは別だ」
(逃げたな)
ジンが深く息を吐いた。
その目が、水路の鍵へ。
種袋へ。
石工の鑿へ。
警鐘の槌へ。
最後に。
火竜王国と書かれた木札へ向く。
「一つだけ、条件があります」
ざわめきが止まった。
「王が何でも決める国にはしません」
ジンは顔を上げた。
「各集落から代表を出す。水路。畑。道。防衛。暮らしている者にしか分からないことは、その人たちの話を聞く」
「それでいい」
ダンが頷く。
「御山様やヴァル様の名を、俺の命令へ勝手に使うこともしません」
ホムラが少し笑った。
「カザン様、勝手に神託を出されたら怒るもんね」
『かなり困る』
「だそうです」
「最後に」
ジンが続ける。
「次の王をどう決めるかは、今ここでは決めません。国の仕組みと一緒に、時間をかけて定めます」
「よかろう」
ダンが杖を地面へついた。
「では」
ジンが目を閉じる。
一度だけ。
長く息を吐いた。
そして。
「……初代王を、引き受けます」
今度こそ。
大きな歓声が上がった。
「ジン王!」
「やめてください」
「もう王だぞ!」
「なった瞬間くらい慣れる時間をください!」
ホムラが笑う。
「ジン様?」
「もっと慣れません」
「陛下?」
「急に遠くなった気がします」
「王様?」
「それもやめてください」
「全部駄目じゃない」
「今までどおりジンで」
「王なのに?」
「王でも名前はジンです」
(そこは変わらないんだな)
クライスが、すでに木札へ文字を書いていた。
「初代国王、ジン」
「早いな」
「今、決まりました」
「まだ心の準備が」
「心の準備は記録できません」
「逃げ道がない……」
ジンが額を押さえる。
「クライスは」
ダンが尋ねた。
「記録を続けるのか」
「はい」
「これからは国中の人と物を数えることになるぞ」
「人数が合わないよりは、その方がいいです」
「仕事が増えるぞ」
「増えても、数は合います」
(クライスらしい答えだ)
「では、国の記録役」
ジンが言う。
「頼みます」
「承りました」
クライスは火竜王国の札へ、新しい役目を書き加えた。
「ハロルドたちは?」
ホムラが尋ねる。
「親衛隊ですよね」
サナが即座に否定する。
「違います」
「でも、五人いるよ」
「今は国の話をしています」
「国の巫女を守るなら、国の仕事じゃない?」
「ホムラ様」
クライスが真面目な顔で尋ねた。
「親衛隊として正式に記録しますか」
「する!」
「しません!」
ホムラとサナの声が重なる。
ハロルドが首を傾げた。
「親衛隊になると、新しい盾をもらえるのか?」
「支給品はありません」
ジンが答える。
「王になったのに?」
「王になった瞬間に盾が生えるわけじゃない」
「国って不便だな」
「国は便利な鍛冶屋ではない」
ガルドが言った。
「でも、国を守る盾だよ?」
「まず壊れた水路を直せ」
「盾より水路が先なのか」
「飲める盾を作れるなら、盾でもいいぞ」
「無理だね」
「なら、水路だ」
ガルクが戦斧を肩へ担ぐ。
「俺の斧は?」
バルクが刃を確かめた。
「欠けてる」
「直せる?」
「水路を直したあとだ」
「斧で水路を直すか」
「余計に壊すなよ」
「斧の使い方に、急に幅が出てきたな」
コーレリアが、二人を見て小さく息を吐く。
「親衛隊というより、作業隊」
「それも記録しますか?」
クライスが尋ねる。
「しなくていい」
サナが答えた。
「でも、患者を運ぶ人手は必要です」
ハロルドとガルクが、同時にサナを見る。
「俺たち?」
「動けるのでしょう?」
「親衛隊は?」
「まず担架です」
「盾より担架が先か」
「今は、盾より人の身体が先です」
「それなら納得」
ハロルドが治療所へ向かい、ガルクも続く。
「斧は置いていいか?」
「患者へ当たらない場所へ置いてください」
「やっと置いていいと言われた」
(バルクの教えは守ったな)
二人のあとへ、コーレリアが続いた。
高い場所から、壊れていない道を探すためだ。
クライスは運ぶ人数を記録し、サナは負傷者を移す順番を決める。
親衛隊かどうかは、まだ決まっていない。
それでも。
盾。
刃。
目。
数。
癒やす手。
五人は、もう自分たちの役目を知っていた。
◇ ◇ ◇
朝日が、少しずつ高くなる。
眠っていない者たちが水路へ向かい、壊れた家から使える木材を集め、治療所へ毛布を運ぶ。
火守村の者が、水路集落の水番へ道具を渡す。
畑集落の者が、石切り集落の負傷者へ肩を貸す。
石切り集落の職人は、自分たちの橋より先に、火守村の仮設天幕へ杭を打っていた。
昨日までなら、自分の村へ戻ってからするはずだった仕事だ。
今は。
誰も、どこの村の仕事なのかを尋ねない。
「国になったからって」
ホムラが、その光景を見ながら呟く。
「急に何かが変わるわけじゃないと思ってた」
『うん』
「でも、少し変わってる?」
『呼び方が変わっただけかもしれない』
「それだけ?」
『今まで手伝う理由が必要だった相手へ、理由を考えなくてよくなった』
「同じ国だから?」
『たぶん』
「国って、そういうものなのかな」
『俺も初めてだから分からない』
「カザン様、国を作ったのに?」
『俺が作ったことになってるのか?』
「山がなかったら、集まってないよ」
『でも、国になると決めたのは人間たちだ』
「じゃあ、半分ずつ?」
『ジンの分は?』
「王様だから、一番多い?」
(さっきまで嫌がってたけどな)
少し離れた場所で、王になったばかりのジンが資材の割り振りをしていた。
やっていることは、昨日までとほとんど変わらない。
ただ。
呼ばれるたびに。
「陛――」
「ジンで」
「王――」
「ジンで」
と訂正している。
(慣れるまで時間がかかりそうだな)
地底にいるヴァルへも、俺の考えが届いたらしい。
金色の目が開く。
喉の奥から低い音が返った。
(お前も国を守ってくれるんだろ)
温かな熱が揺れる。
尾が岩へ当たりそうになり。
直前で止まった。
(今度は気をつけたな)
熱が、少しだけ誇らしげに揺れた。
その時。
「ジンさん!」
北側から、見張り役が走ってくる。
ジンが顔を上げた。
「何がありました」
「森の外に人影です!」
作業を始めていた者たちの手が止まる。
レンが槍を取った。
「魔物か!」
「違います! 人です!」
「人数は!」
クライスが尋ねる。
「三人! 馬が二頭!」
「武器は?」
「持っています! ですが、こちらへ向けてはいません!」
「どこから来た」
「南西の街道です!」
ジンが木板へ目を落とす。
南西。
警鐘でつながる集落より、さらに外側へ続く道。
昨日までは。
火守村にとって、外の土地へ向かう道だった。
「旗は?」
「見たことのない印です!」
「進ませるな」
レンが言う。
「門の外で止めろ。こちらの状況も、国になったことも知らん」
「こちらが国になったことを」
ホムラが神器を握る。
「最初に外の人へ伝えるんだね」
「そうなります」
ジンは、火竜王国と書かれた木札を見る。
泥も。
血も。
朝露もついた。
この国で最初の木札。
「誰が行く」
レンが尋ねる。
「俺が行きます」
ジンが答えた。
「王だから?」
ホムラが言う。
ジンが一瞬、黙る。
「……そういうことになるんでしょうね」
「初仕事だ」
ダンが笑う。
「さっきまで水路の順番を決めていました」
「それも王の仕事だ」
「王って、思っていたより地味ですね」
「派手な王よりは安心だ」
「否定できません」
ジンが南西の道へ歩き始める。
レンと数人の護衛。
そして、クライスも木札を持って続いた。
「俺も行きます」
「なぜ」
「国として初めて会う、外の人です」
クライスは新しい木札を一枚取り出した。
「記録します」
「俺が変なことを言ったら?」
「記録します」
「訂正は」
「訂正したことも記録します」
「逃げ道がないな」
「王ですから」
「もう慣れたのか」
「記録上は」
(クライスが一番早く適応してるな)
ジンは一度、空を見上げた。
そこにヴァルの姿はない。
それでも、火口から立ち昇る煙は遠くからでも見える。
北には、隻眼のオーガの亡骸。
周囲には、壊れた岩壁。
祈りの石床には、火竜王国と書かれた木札がある。
ここで何かが起きたことを。
外から来た者たちも、すぐに知るだろう。
(国ができたら)
俺は、南西の道へ意識を向けた。
(今度は、外の世界と話さないといけないのか)
「かしこみかしこみ。御意。国は生まれし瞬間より、隣国、交易、国境、使節、条約、貨幣、法、軍制、税――」
(フラン)
「かしこみかしこみ。外から人が来ました」
(急に大変そうだな)
昨日まで。
ここにあったのは、警鐘でつながる村々だった。
今朝。
火竜王国という国が生まれた。
そして。
生まれたばかりの王国へ。
最初の客人が、やって来ようとしていた。
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