56.大規模襲来の鐘
いつも誤字脱字報告や評価をありがとうございます。
矢を放つ直前だった。
低く生い茂る草の向こうで、野兎が耳を立てる。
弓を引き絞ったホムラは、呼吸を止めた。
あと少し。
野兎がもう一歩だけ前へ出れば、枝の隙間から狙える。
だが、その一歩を待たず、野兎は身を翻した。
「あっ」
矢が弦を離れるより早く、白い尾が草の奥へ消えていく。
「もう。今のは当たってたのに」
(放ってないなら、当たってはいないんじゃないか?)
俺に、森の様子が見えているわけではない。
火守村から北へ離れたこの場所では、ホムラの足音さえ、俺にはぼんやりとしか分からない。
それでも、キイナに頼まれ、姿を消して付き添っているフランが、見聞きしたものを俺へ伝えてくれていた。
「かしこみかしこみ。狩猟の成否は、矢が獲物へ到達した時に定まるものかと存じます」
(やっぱりそうだよな)
「フランさん。御山様に、今のは枝が邪魔だったって伝えておいて」
「かしこみかしこみ。ホムラ様は、障害物さえなければ必中であったと主張しておられます」
(それは今、聞こえてる)
ヒナノの孫で、キイナの娘。
十六歳になったホムラは、弓を持って森へ入ることを狩りと呼び、キイナはそれを遊びと呼んでいた。
実際、獲物を持ち帰る日より、泥だらけになって戻る日の方が多い。
それでも、足跡を見つけることも、風下へ回ることも、獣道を通って森を駆けることも。
ホムラにとっては、息をするのと同じくらい自然なことだった。
「次、探そう」
ホムラが弓を下ろした時、草むらがもう一度揺れた。
逃げた野兎が戻ってきたわけではない。
一匹でもなかった。
野兎が二匹。
そのすぐ後ろを、細身の狐が駆け抜ける。
さらに、低い枝を押し分けて、数頭の鹿まで現れた。
獲物も、それを狙う獣も、互いへ目を向ける余裕さえなく、同じ方角へ走っていく。
北から、南へ。
鳥たちも、少し前から北の空を離れていた。
北だけではない。
少し東へ離れた森からも、太い枝が続けて折れる音が近づいている。
ホムラから、さっきまでの軽い気持ちが消えた。
「……変だ」
鹿の一頭は、片側の毛に灰のような粉をつけていた。
足を怪我しているわけでもないのに、何度も後ろを振り返りながら走っている。
その背後で、さらに重いものが草木を踏み分ける音が続いた。
猪だ。
だが、立ち止まって地面を掘ることも、人の匂いへ向きを変えることもない。
ただ南だけを目指していた。
「北で何かあった」
ホムラが弓を握り直し、獣たちが来た方角へ身体を向ける。
その足が一歩、北へ出かけたところで。
警鐘が鳴った。
かああん。
短い音ではない。
森の中を押し広げるような長い音が、遠くから届く。
二度目。
かああん。
三度目。
かああん。
そこで、長い間が空いた。
ホムラの指が、弓の握りへ食い込む。
聞き間違えるはずがない。
魔物でも、火事でも、負傷者でもない。
二十年前に決められてから、一度も使われなかった合図。
長い音が、もう三度。
多数の魔物が押し寄せ、一つの集落だけでは対処できないことを知らせる警鐘だった。
「大規模襲来……」
最初の見張り台が、六度目の音を鳴らし終える。
間を置かず、少し南にある別の見張り台が、同じ長い音を返した。
一つ。
また一つ。
二十年前につながれた警鐘が、迫る危険を追い越し、火守村へ向かって鳴り継がれていく。
ホムラは北を見た。
獣たちが逃げてきた方角だ。
「かしこみかしこみ。見に行くことは、お勧めいたしません」
姿を消したままのフランが言う。
「分かってるよ」
返事と同時に、ホムラは南へ走り出した。
「一人で確かめに行かない。警鐘を聞いたら、決められた場所へ戻って知らせる。何度も聞いてるから」
口調は不満そうだったが、足に迷いはない。
道ではなく、木の根と岩の間を抜ける細い獣道へ入る。
枝を避け、倒木を飛び越え、伝令が使う街道よりも短い道を、ホムラは火守村へ駆け戻っていった。
◇ ◇ ◇
「お母さん!」
火守村の門をくぐったホムラは、そのまま祈りの石床まで走ってきた。
「北から来る伝令より先に戻ったよ!」
「競争じゃないの!」
神器の杖を持ったキイナが、娘の無事を喜ぶより先に叱った。
「でも、わたしの勝ちだよね?」
「何に勝ったの?」
「伝令に」
「だから競争じゃないって言ってるでしょう」
(前にも、似たようなやり取りを聞いた気がするな)
石床のそばにいたヒナノが、口元を押さえている。
「おばあちゃん。笑ってないで、お母さんに言ってよ。早く知らせるのは大事だって」
「大事だよ。でも、伝令の人はお仕事だから、勝ち負けを決められると困るんじゃないかな」
「じゃあ、今度から参考記録にする」
「今度がない方がいいの」
キイナの言葉に、ホムラもようやく表情を引き締めた。
「北の森で、獣が逃げてた。兎も、狐も、鹿も猪も。全部、同じ方角から来て、南へ走ってた」
「どの辺り?」
「古い炭焼き小屋より北。鹿の毛に、灰みたいなものがついてた。北東の方からも、木を踏み折る音がしてたと思う」
「魔物は見た?」
「見てない。見に行こうとしたけど、ちゃんと戻ってきたよ」
最後だけ、少し強く言う。
褒められる準備をしていることが、声だけでも分かった。
「うん。戻ってきてくれて、よかった」
キイナが素直に答えると、ホムラは一度だけ瞬きをした。
「……そこは、もっと驚くところじゃない?」
「普段から言われた通りにしてくれたら、毎回驚かなくて済むんだけど」
「今日はしたよ」
「今日はね」
「かしこみかしこみ。ホムラ様は日頃より山野を駆け、その地形と獣道を御身へ刻み込む実地鍛錬を重ねておられます。本日の狩猟もまた――」
『フランさん。ただ遊びながら狩りをしていただけですよね』
「かしこみかしこみ。遊びの中より学びを得る、実に尊き――」
『逃げた兎は?』
キイナに尋ねられ、フランの言葉が止まった。
「かしこみかしこみ。警鐘の発生を機敏に察知し、捕獲を免れました」
(兎の方を褒め始めたぞ)
「逃げられたんじゃないよ。今日は見逃したの」
「弓を引いていたところまで、フランさんから聞こえてるからね」
「フランさん、そこは伝えなくてもよかったのに」
「かしこみかしこみ。御山へ虚偽を申し上げることはできません」
「言わないことと、嘘をつくことは違うよ?」
(そこをホムラに教えなくていい)
緊張の中に、ほんの短い笑いが生まれる。
その時だった。
キイナが持つ杖の先で、赤い結晶が一度だけ脈打った。
いつものような、俺とキイナをつなぐ熱ではない。
結晶から溢れた細い熱が、キイナの手を通り過ぎる。
そして、すぐそばに立つホムラへ触れた。
「えっ」
ホムラが胸元を押さえる。
ほんの一瞬。
俺とキイナの間にある道が二つに分かれ、その細い片方がホムラへ届いた。
言葉を送れるほど強くはない。
その存在を確かめるより早く、細い道は閉じてしまう。
だが、キイナも、ホムラも、確かに感じていた。
「……今の、わたし?」
「たぶん」
キイナは神器を見上げ、それから娘へ目を戻した。
「御山様へつながる道が、少しだけあなたへ伸びた」
ヒナノが、神器を持っていた頃の癖のように、何もない胸元へ手を添える。
驚いてはいる。
けれど、いつか来ると知っていたものを、少し早く目にしたような表情だった。
「やっぱり、いつかはわたしなんだよね」
ホムラの声から、いつもの勢いが少し消えた。
キイナは、すぐには答えなかった。
巫女になることが、杖を受け取るだけではないと知っているからだ。
「いつかはね」
やがて、ゆっくり頷く。
「でも、今決めることじゃないよ。神器が少し応えたからって、今日から急に全部を背負わなくていいの」
「怖くないって言ったら、たぶん嘘になる」
ホムラは、まだ熱の残る胸元から手を離した。
「でも、逃げたいとも思わないよ」
キイナの手が、娘の頭へ伸びる。
撫でようとして、葉と小枝だらけの髪に触れ、途中で止まった。
「その前に、お風呂へ入ることは覚えてほしいかな」
「今、すごく大事な話をしてたよね?」
「巫女もお風呂には入るから」
「そこは知ってるよ!」
(継承より先に、そっちを心配されるのか)
ホムラが頬を膨らませた、その直後。
北東から、別の警鐘が響いた。
かああん。
長い音が、三度。
間を置いて、さらに三度。
北から順番に伝わってきた音ではない。
別の場所で、同じ合図が鳴り始めたのだ。
石床の周囲から、笑いが消えた。
北と、北東。
少なくとも二つの方角で、同時に異変が起きている。
しかも、北東から始まった合図は、途中の見張り台で途切れた。
本来なら、さらに南の見張り台が返すはずの音が鳴らない。
鳴るはずの音がない。
その静けさが、どんな警鐘よりも大きく感じられた。
◇ ◇ ◇
俺は、聖域の北側へ意識を伸ばした。
祈りの温かさが、いくつもの集落で大きく揺れている。
その温かさの集まりが、南へ動き始めた場所もある。
その場へ留まっている場所もある。
だが、一人ひとりがどこにいて、何に追われているのかまでは分からない。
地脈を通じて大きく力を流せば、岩壁を作ることはできる。
街道を持ち上げ、魔物の足を止めることもできる。
けれど、人と魔物の位置が分からないままでは、逃げ道まで塞いでしまう。
二十年前と同じだった。
守りたい場所は広がった。
見張り台も、街道も増えた。
それでも、俺一人の感覚だけで、すべてを確かめることはできない。
(知らせてくれ。どこにいる。何が必要だ)
返事の代わりに、火守村の警鐘が大規模襲来の合図を打ち返した。
長い音が、村中へ響く。
その下で、人々が動き始める。
井戸の前へ、水桶が並ぶ。
倉から、乾燥させた食料と毛布が運び出される。
子どもや老人を受け入れる祈りの石床の奥では、ヒナノが避難場所を開けていた。
門の前には荷車が集められ、負傷者を受け入れるための敷物が広げられていく。
二十年前なら、警鐘の意味を巡って声が重なっていた。
今は違う。
何を持ち、どこへ集まり、誰の指示を聞くのか。
長い年月の中で何度も訓練してきた動きが、それぞれの足へ染み込んでいる。
それでも、訓練では決められないことがあった。
「門を閉めるべきです!」
北門を守る男が叫ぶ。
「合図が二か所から来ている。魔物が先に着いたら、村の中へ入られるぞ!」
「北の集落には、まだ避難できていない者がいる!」
集落の代表者が言い返す。
「門を閉めたら、逃げてきた者はどうする!」
「荷車を全部出してくれ! 歩けない者が多いんだ!」
「全部出したら、負傷者を何で運ぶ!」
「倉の食料は、火守村が冬を越すためのものだ。何人来るかも分からないのに、今から配るのか?」
「俺の家族が北にいる。先に探しに行かせてくれ!」
誰も、自分だけが助かりたいと言っているわけではない。
守りたいものが違うだけだ。
だからこそ、声は簡単に一つへまとまらなかった。
「静かにしろ」
大声ではなかった。
それでも、ダンの一言で周囲の声が止まった。
ダンも、今では木の杖を使うようになっている。
だが、火守村の村長として決断を下してきた声は、二十年前と変わらない。
その隣には、一枚の大きな木板を抱えた男が立っていた。
ジン。
三十歳になる、ダンの養子だ。
幼い頃に引き取られ、ダンのもとで育った。
木板には、火守村と周辺集落をつなぐ街道、水路、見張り台の位置が刻まれている。
その周囲へ、集落ごとの人数。
歩けない老人のいる家。
荷車の数。
食料を置いた倉。
橋や井戸まで書き加えられていた。
ジン自身が何度も集落を歩き、増えた家を確かめるたびに直してきた木板だ。
「ジン」
ダンが養子へ向き直る。
「何を優先する」
何人もの視線が集まる。
ジンは、すぐには答えなかった。
地図の上で、返ってこない北東の見張り台へ指を置く。
次に、火守村まで続く街道をなぞった。
「戻ってくる道です」
「敵を倒すことよりもか」
「倒しに行く者も、逃げてくる者も、道がなければ戻れません」
ジンは北門を見た。
「門は、すぐには閉じません。外へ盾持ちを置き、門の内側には荷車で二つ目の壁を作る。魔物が見えた時は、外の者を入れてから門を閉めます。閉めるのが遅れた時は、荷車の壁で食い止めます」
「遅れれば、魔物まで入るぞ」
門を守る男の声は厳しい。
「門を閉じる判断は、レンさんと見張り役に任せます。合図が出た時、門の前へ誰も残さないため、人数を数える者も別に置きます」
ジンは木板に、小さな木札を並べていく。
「荷車は半分を救援へ。残りは、村で負傷者を運ぶために残す。救援へ出すものも、返鐘があった最後の見張り台までです。音が途切れた先へは、偵察が戻るまで進ませません」
「だが、返鐘のない場所にも人はいる!」
「だから、徒歩で動ける救援隊を別の道から出します。荷車まで失えば、その先で見つけた人を運べなくなる」
反論した代表者は、唇を噛んだ。
納得したわけではない。
それでも、何も考えず見捨てようとしているのではないことは伝わった。
「食料は?」
「避難してきた者にも、火守村の者にも、同じ量を配ります」
「倉が空になったらどうする」
「今日を越えられなければ、冬の食料は必要ありません」
ジンの声が、そこで初めて強くなった。
「あの警鐘をつないだのは、火守村だけが逃げるためじゃありません」
長い音は、一つの集落だけでは対処できない時のものだ。
助けを求める音を隣が受け取り、さらに次へ送る。
その最後にある火守村が門を閉じれば、警鐘をつないだ意味まで閉ざしてしまう。
ダンが問う。
「お前の判断で門を開け、そのせいで中の者が傷ついたらどうする」
「俺が責任を取ります」
「責任を取ると言っても、傷は消えん」
「はい」
ジンは目を逸らさなかった。
「だから、門の内側に俺が立ちます。閉じる判断が遅れた時は、俺が最後まで残ります」
「死ねば責任を取ったことになると思うな」
「思いません」
一度、息を吸う。
「生きて、入ってきた全員を数えます。足りない者がいれば、その名前を覚えて、次に迎えに行く者へ渡します」
ダンは、しばらくジンを見ていた。
やがて、木の杖を石床へ一度だけ突く。
「聞いたな」
集まった者たちへ告げる。
「これより、救援と受け入れの指揮はジンに任せる。ジンの指示は、村長である俺の指示と思え」
ジンが、わずかに目を見開いた。
「父さん」
「返事は」
「……はい」
「声が小さい」
「はい!」
今度は、警鐘に負けない声が返った。
(ダンが育てたのは、跡を継ぐだけの息子じゃないみたいだな)
ジンは、すぐに木板を門のそばへ移した。
迷っていた者たちへ、役目が一つずつ渡されていく。
誰が来たのかを数える者。
どの集落から来たのかを記す者。
水と食料を同じ量へ分ける者。
荷車を出し、戻った車輪を直す者。
ばらばらだった足音が、少しずつ同じ目的へ向かい始めた。
救援隊は、北と北東の二つへ分けられた。
どちらにも、戦える者だけでなく、道を確かめる者、負傷者を運ぶ者、火守村へ状況を戻す伝令が加えられる。
敵を追わない。
途切れた警鐘の先にいる者を見つけ、帰る道をつくる。
その流れの中へ、長年この土地を守ってきた五人と、その家族たちも加わっていく。
◇ ◇ ◇
二十年前、スワイスと四人の上位冒険者たちの後ろには、武器を手にした若者たちが立っていた。
その中には、五人それぞれの子どもたちもいた。
今では、その子どもたちも親になっている。
そして今日、その孫たちまでが、それぞれの家に受け継がれた役目へ加わろうとしていた。
スワイスの髪には、白いものが増えた。
それでも、人の動きを見る目は衰えていない。
「出た人数と、戻った人数を別々に書け。戻った方が一人でも少なければ、終わりじゃない」
その言葉を受け、スワイスの子が救援隊と伝令の役目を分ける。
孫は門のそばで木札を握り、出ていく者の名を一人ずつ読み上げていた。
バルクの家族は、救援隊の先頭へ集まった。
剣を帯びた子の隣で、孫が斧と楔を荷車へ積んでいる。
「敵を見つけても追うな」
バルクが、かつてレンから受けた言葉を、今度は家族へ伝える。
「道を塞ぐものだけを斬れ。俺たちの役目は、勝って立つことじゃない。道を開けて帰ることだ」
ガルドの家族は、北門の前で盾を並べた。
大盾を地面へ突き立てる重い音が、三世代ぶん重なる。
「間を空けるな。隣が下がったら、自分が半歩出ろ」
「じいちゃん。その盾、本当にまだ持てるの?」
「持てる」
「さっき、腰を押さえてたけど」
「盾を持つために、腰を確かめただけだ」
(レンの言い訳に少し似てるな)
孫の心配をよそに、ガルドは大盾を持ち上げる。
だが、二歩進んだところで、何も言わず子へ渡した。
「持てるんじゃなかったの?」
「持てることと、若い者へ任せないことは別だ」
「今考えたでしょ」
緊張していた門番たちから、小さな笑いが漏れた。
ミレアの家族は、屋根と見張り台へ分かれる。
高い場所から街道と森の揺れを見て、魔物の位置を知らせる役目だ。
弓を持った孫が北の見張り台へ上ろうとすると、ミレアが襟をつかんだ。
「一番高い所へ行けばよく見える、は半分だけ正しいよ」
「残り半分は?」
「敵からもよく見える」
孫は黙って、一段低い屋根へ移った。
セナの家族は、祈りの石床の脇へ治療場所を整える。
薬草。
清潔な布。
水。
添え木。
子が負傷者を診る場所を作り、孫たちが担架を並べていく。
「薬の名前を間違えても、見た目が似ているからでは済まないからね」
「大丈夫。全部覚えた」
「なら、これは?」
「苦いやつ」
「効き目を聞いてるんだよ」
(味で覚えてるのか)
スワイス、バルク、ガルド、ミレア、セナ。
五人がこの土地へ残したものは、戦い方だけではなかった。
一人で行かないこと。
敵を倒すより、皆で戻ること。
守る相手を置き去りにしないこと。
それぞれの家で、同じ教えが次の世代へ渡されている。
「かしこみかしこみ。五つの家へ継がれし守護の炎が、巫女を中心として今まさに――」
「フランさん。説明は短くして」
ホムラが言った。
「かしこみかしこみ。かつてキイナ様より賜りしものと同じご指摘を、二代にわたり頂戴いたしました」
(そこは誇るところじゃないぞ)
キイナの周りへ集まっている者はいない。
門に立つ者。
道を開く者。
高い場所から危険を探す者。
負傷者を受け入れる者。
伝令をつなぐ者。
皆が別々の場所に立つことで、巫女が運ぶ御山の言葉も、人々が巫女へ託す声も、途切れずに行き来できる。
二十年前に一度だけ口にされ、キイナがすぐに断った親衛隊という呼び名。
それ以来、正式に使う者はいなかった。
少なくとも、一人を除いては。
「なんか、わたしの親衛隊みたい」
「ホムラ」
キイナの低い声が返る。
「冗談だよ。半分くらい」
「半分は本気なのね」
弓を背負い直したホムラが、北門へ向かおうとする。
その進路へ、キイナとレンとジンが同時に立った。
「北へは行かせない」
「行くな」
「別の仕事を頼む」
三つの声が、ほとんど重なった。
「まだ何も言ってない!」
「北へ行くつもりだったでしょう」
キイナが言う。
「北へ行く人たちに、地図を届けようと思っただけ」
「弓を持ったままか?」
レンが矢筒を見る。
「地図が襲われた時のために」
(地図を狙う魔物がいるのか?)
「矢筒が満杯だ」
「いつも満杯だよ?」
「それは反論になっていない」
「おじいちゃん、昔はお母さんが何歩離れたかまで数えてたって本当?」
「今は、その話をしていない」
「否定もしないんだ」
レンの返事が止まる。
キイナが横を向き、笑いを堪えていた。
「ホムラ」
ジンが木板を地面へ置く。
「北へ見に行く者は、もう決めてある。だが、その者たちが帰る道を知っている者が足りない」
木板に刻まれているのは、荷車が通れる街道と、集落をつなぐ道だけだ。
ホムラがいつも通る獣道までは書かれていない。
「古い炭焼き小屋から、北の集落へ抜けられる道はあるか?」
「三本」
ホムラは即答した。
「一番東は、鹿なら通れるけど、人は崖で止まる。真ん中は雨が降ると沢になるけど、今日は乾いてる。西は遠回り。でも、三つ岩のところまでなら、子どもでも歩けるよ」
「荷車は?」
「無理。ガルドさんの盾も、横にしたら引っかかると思う」
「俺の盾を道幅の基準にするな」
少し離れた北門から、ガルドの声が飛んできた。
ジンは笑わず、口元をわずかに緩めながら、ホムラが示す道を木板へ刻んでいく。
「その三本を、ここへ全部書いてくれ。行き止まりも、隠れられる窪みもだ」
「わたしが案内した方が早いよ」
「三つ岩までだ」
「そこから先は?」
「行かない」
「一歩だけなら?」
「行かない」
「片足だけなら?」
「もっと駄目だ」
(片足だけ北へ出る状況が、よく分からないな)
ジンは、呼び集めた五つの家の孫たちへ目を向けた。
「一緒に行ってくれ。道を塞ぐ枝はバルクの家。前と高い場所を見るのはミレアの家。危険が来たらガルドの家が前へ出る。怪我人はセナの家。通った者の数はスワイスの家が記す」
「わたしは?」
「道を間違えない」
「一番大事だね」
「そうだ。一番大事だ」
冗談ではない声で言われ、ホムラが少しだけ照れたように鼻を擦る。
キイナは娘を見つめた。
心配は消えていない。
それでも、杖を握る手に力を込め、最後には頷く。
「三つ岩まで。必ず、みんなと一緒に戻ること」
「分かってる」
「返事が軽い」
「分かっています、巫女様」
「そういう時だけ巫女様って呼ばないの」
ホムラが笑い、五つの家の孫たちとともに北門を出る。
六人の足音が、地面を通じて少しずつ遠ざかっていった。
◇ ◇ ◇
三つ岩は、火守村と北の集落の中ほどにある。
大きな岩が三つ、互いを支えるように重なった場所だ。
そこから北は、俺が細かな振動を感じ取れる範囲の外へ入る。
今回も、フランが姿を消したまま六人へ付き添っていた。
だから俺は、自分の感覚では届かない森の様子を、フランが運ぶ音と光景を通して知ることができる。
北門の外では、バルクの子を先頭にした救援隊が待っていた。
ホムラは、その隊を真ん中の獣道から三つ岩まで案内した。
そこから先へ進むのは、大人たちだけだ。
ホムラたちは約束どおり岩より南側で止まり、皆が戻るための道を整えた。
やがて、救援隊の足音も北の森へ消え、細い道には六人だけが残った。
バルクの孫が、邪魔になる枝を斧で落とす。
ミレアの孫が岩へ上り、森の揺れを見張る。
ガルドの孫は細い道の前へ立ち、セナの孫が水と布を確かめる。
スワイスの孫は木札と炭を手に、まだ誰も通っていない道へ最初の印をつけた。
ホムラは、矢を一本だけ弓へつがえて待つ。
遠くで、警鐘が鳴っている。
だが、その音は少しずつ減っていた。
避難が終わり、鳴らす者がいなくなったのか。
見張り台が襲われたのか。
ここからでは分からない。
風が枝を擦る音。
時折、逃げ遅れた鳥が南へ飛ぶ羽音。
それ以外は、何も聞こえない。
「遅いね」
ホムラが呟く。
「静かすぎる」
岩の上から、ミレアの孫が答える。
「静かな方が見つけやすいよ」
「何を?」
「静かじゃないもの」
「それ、答えになってる?」
「今のところは」
軽いやり取りが途切れる。
北の茂みが揺れた。
全員の動きが止まる。
一度。
間を置いて、また一度。
風ではない。
何かが、枝へ触れないようにしながら近づいてくる。
ホムラが弓を引いた。
岩の上でも、短弓が同じ方角へ向く。
ガルドの孫が前へ出る。
茂みの奥で、低い音がした。
唸り声にも、息を殺した人の声にも聞こえる。
ホムラの指が、弦から離れかける。
その時。
枝の隙間から、小さな手が出た。
「待って!」
矢を上へ逸らす。
茂みから転がり出てきたのは、泥だらけの子どもだった。
後ろには、その背中を押す母親。
さらに老人と、肩を貸し合う男たちが続く。
誰も魔物ではない。
北の集落から逃げてきた人々だ。
「火守村の者です!」
ホムラが弓を下ろし、大きく手を振る。
「こっち! この道は、火守村まで続いてる!」
張り詰めていたものが切れたように、母親がその場へ膝をついた。
「道が……あった……」
すぐ後ろから、救援へ出ていた者たちも姿を現す。
バルクの子が先頭に立ち、負傷した見張り役を背負っていた。
「ホムラの地図がなければ、戻れなかった」
「街道は?」
「橋が落ちていた。倒木で、脇道まで塞がれている。暴れた跡にしては、道だけが狙われすぎていた」
偶然とは思えない。
逃げる者が使う場所を選び、道を塞いだように見える。
ホムラの表情から、浮かびかけた喜びが消えた。
自分が遊びながら覚えた細い道を、息を切らした子どもたちが通ってくる。
今日ほど、獣道を知っていてよかったと思ったことはない。
同時に。
今日ほど、その道を遊びに使えないと思ったこともなかった。
「立てる?」
ホムラは、最初に出てきた子どもの前へしゃがんだ。
「うん……」
「じゃあ、わたしの後ろを歩いて。この道は、わたしが何度も通ってるから」
「魔物、いない?」
「今はいない」
大丈夫だとは言わなかった。
それでも、怖がる手を取る。
「もし来ても、みんながいる。だから、一緒に帰ろう」
ガルドの孫が前に立つ。
ミレアの孫が後ろへ回る。
バルクの孫は歩きやすいよう、道へ張り出した枝をさらに落とした。
セナの孫が足を傷めた者へ布を巻き、スワイスの孫が通る者を一人ずつ数える。
六人は、誰に命じられるでもなく、ホムラと避難民の周りへ散った。
その配置は、かつて彼らの祖父母がキイナを守った時と、よく似ていた。
ただし、守っているのはホムラ一人ではない。
彼女の手を握る子どもも。
肩を貸し合う者も。
負傷した見張り役も。
同じ道を、全員で火守村へ戻っていく。
スワイスの孫が、最後の木札へ印をつけた。
「三十七人」
救援隊の者が首を振る。
「集落を出たのは三十九人だ」
足音が止まった。
二人、足りない。
北の森の奥から。
獣とも鐘とも違う、低く長い咆哮が響いた。
木々の葉が震える。
地面を通じ、重い振動が三つ岩まで届く。
ホムラが振り返りかける。
「戻るよ」
スワイスの孫が言った。
「人数が足りないのに?」
「だから戻る。誰がいないのかを伝える。今ここにいる人を、危険へ戻すわけにはいかない」
迷いながらも、ホムラは頷いた。
弓を握る手に力を込め、今度こそ南へ向き直る。
追いかけるのではなく、連れて帰るために。
◇ ◇ ◇
避難民が火守村へ着くと、門の前でジンが人数を受け取った。
「北の水路集落、三十七人。出発時は三十九人。未確認が二人」
木板に、二つの印が残される。
名前を確かめると、すぐ別の救援隊へ伝えられた。
足りない二人を忘れないための印だ。
負傷した見張り役は、セナの家族が整えた場所へ運ばれる。
片腕を深く切られ、呼吸も乱れていた。
それでも、薬を飲まされるより先に、レンの腕をつかんだ。
「違うんだ……あれは、ただ押し寄せてきたんじゃない」
「ゆっくり話せ」
「小さいやつが……先に来た。草の中へ隠れて、道を見てた。鐘を鳴らそうとしたら、大きいのが見張り台へ来た」
セナの子が傷を押さえながら、話を止めようとする。
だが、見張り役は首を振った。
「台を壊したやつと、橋を壊したやつは別だ。種類も違った。普段なら、近くにいれば争う魔物だ。それなのに……一緒に動いてた」
周囲が静かになる。
「人を追うやつもいた。殺そうとしてたんじゃない。街道へ追い出して、待ってる大きいやつの方へ……」
レンの表情が変わる。
「群れじゃない」
低い声が落ちた。
「命令を受けて動いている」
スワイスが、北を示す木板を見る。
「見張り台を壊し、鐘を止め、橋を落とした。俺たちの守り方を知っている動きだ」
「命令しているのは、どこにいる?」
ジンの問いに、見張り役の身体が震えた。
「北の尾根だ」
荒い息の合間から、言葉を絞り出す。
「他の魔物は、あいつの咆哮が聞こえるたびに動きを変えた。自分は戦わない。高い所から、ずっと見てた」
「どんな魔物だ」
「大きい。見張り台の上からでも、木の間に背が見えた」
見張り役が、残った力で顔を上げる。
「片方の目が……潰れていた」
その言葉を聞いた瞬間。
かつて感じた熱と振動が、俺の中によみがえった。
皆を守るために、追うことを諦めた魔物。
深い傷を負いながら、聖域の外へ消えた片目の親玉。
(まさか)
北の遠い森から、もう一度咆哮が響いた。
今度は、俺にも分かった。
細かな位置までは分からない。
それでも、地面を押し、周囲の魔物を従わせるような重い振動を、忘れるはずがない。
直後。
北側に残っていた見張り台の鐘が、一つ消えた。
音が途切れたのではない。
鐘を支えていた柱ごと、地面へ倒れる振動が届いた。
あの日、俺は皆を守るため、逃げるあいつを追わなかった。
その選択を後悔したことはない。
けれど、あいつは俺たちを忘れていなかった。
二十年のあいだに増えた見張り台も。
集落をつないだ街道も。
危険を伝える警鐘も。
すべてを知ったうえで、その守りを壊しに来た。
片目の親玉が帰ってきた。
今度は、群れではなく。
俺たちの守り方を知る、軍勢を連れて。
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