48.五年の成長
レンくんがんばれぃぃぃ!
「俺と結婚してください!」
レンの声が、巫女の家いっぱいに響いた。
祈りの部屋に灯る火が、ぱちりと小さく鳴る。
外では、夕暮れの鐘の余韻が消えていくところだった。
けれど俺には、鐘よりもレンの心臓の方が、よほど大きく鳴っているように感じられた。
ヒナノは目を見開いたまま、レンを見つめている。
レンも動かない。
いや、動けないのか。
(頑張れ。そこまで言ったなら、せめて息はしろ)
俺の応援が届くはずもなく、レンの顔はみるみる赤くなっていった。
やがてヒナノが、胸の前でそっと両手を重ねる。
その瞳に浮かんだのは、戸惑いではなかった。
雨の夜、帰りの遅い探索者を二人で待っていたこと。
見張りを終えるたび、レンが必ず「異常なし」と伝えに来たこと。
ヒナノが巫女として迷った時も、答えを急かさず、隣で待っていてくれたこと。
俺も見てきた、五年分の小さな積み重ね。
そのすべてが、ヒナノの笑顔になって現れた。
「はい」
その一言で、レンの心臓が一度、大きく跳ねた。
「私も、レンと一緒に、ここで生きていきたい」
今度は、レンが目を見開く番だった。
「……本当に?」
「返事も十八回、言った方がいい?」
「一度でいい」
「もう言ったよ」
「そう、だな」
レンは笑った。
ヒナノも笑った。
その時、閉まっていた扉の向こうから、何人分もの笑い声が漏れた。
レンの笑顔が固まる。
「……誰かいるのか」
「十八回も門前を往復していれば、何事かと思うだろう」
扉が開き、村長が顔を出した。
その後ろには、見張りたちと村長、それに鼓を抱えたガンゾウまでいる。
「どこから持ってきた、その鼓」
「めでたい時に備え、常に近くへ置いておる」
「見張りの鐘より備えがいいな」
ガンゾウは、すでに両手へ撥まで構えていた。
「安心せい。まだ村の半分にしか聞こえておらん。残り半分には、わしが――」
「知らせなくていい!」
レンの声が、また巫女の家を揺らす。
今度こそ、残り半分にも届いたかもしれない。
◇
ひとしきり皆に祝われたあと、ヒナノとレンは祈りの部屋へ戻ってきた。
二人で、火神祭から受け継いだ灯火の前に座る。
「火山様」
ヒナノが、少し照れながら呼びかけた。
「私たち、結婚することになりました」
(ああ。ずっと聞いてたよ)
俺が初めて二人を知った頃、ヒナノは自分の祈りが届くのかも分からず、それでも火山へ声をかけていた。
レンは、そんなヒナノの前へ立つことだけで、彼女を守れると思っていた。
守られる側だった二人が、今では門を守り、村を守り、帰ってくる者を待つ側になっている。
これまで俺がヒナノへ送ってきた言葉は、警告や指示ばかりだった。
誰かを逃がすため。
危険を知らせるため。
けれど今は、誰の命にも危険は迫っていない。
だから俺は初めて、ただ二人を祝うために声を送った。
『祝福する。二人で幸せになれ』
ヒナノの目に、涙が浮かぶ。
「火山様が……私たちを祝福してくださったよ」
レンは一度目を閉じ、それから灯火へ深く頭を下げた。
「ありがとうございます。ヒナノだけではなく、二人で幸せになります」
守る、ではなく、幸せになる。
その言葉が、俺には嬉しかった。
灯皿へ意識を集中させ、炎の先を二つに分ける。
二つの小さな炎は並んで揺れ、やがて寄り添うように重なると、元の一つの炎へ戻った。
俺は、この身体で二人の指へ指輪をはめてやることはできない。
けれど、これくらいの祝福なら贈れる。
「かしこみかしこみ! 火脈と聖域に見守られし二つの魂が、今まさに一つの未来を――」
(フラン。まだ婚礼はこれからだぞ)
「かしこみかしこみ。ゆえに、婚礼前祝詞の第一節を先んじて申し上げております!」
(第一節?)
「かしこみかしこみ。全七十二節を予定しております」
(短くしてくれ)
開け放たれた戸口の向こうで、ヴァルも二人へ頭を下げた。
その頭の上で丸くなっていたコロが、ころりと転がり落ちる。
コロはそのまま敷居を越え、レンの膝へぶつかると、何事もなかったように平たく身体を潰した。
「かしこみかしこみ。始原の眷属たるコロ様も、全身をもって祝意を――」
(落ちただけだ)
「かしこみかしこみ。祝いの席においては、解釈もまた祝福にございます」
(便利な言葉を覚えたな)
その後、婚礼は村を挙げて行うことになった。
レンが「婚礼の日も、俺の見張り当番は変えなくていい」と言い出した時だけは、全員が揃って反対した。
「門を空けるわけにはいかない」
「門は俺たちが埋める。お前は新郎の席を空けるな」
「交代の時間だけなら――」
「お前が交代したら、ヒナノが一人で婚礼をすることになるぞ」
五年前なら、婚礼の途中でも本当に門の前から動かなかったかもしれない。
今のレンはしばらく考えたあと、真剣な顔で頷いた。
「では、当日は任せる」
「結婚するだけで、ずいぶん成長したのう」
「まだしていない!」
ガンゾウの笑い声が、夜の村へ響いていった。
◇
翌朝。
山裾が目を覚ます音を、俺は地中から聞いていた。
五年前、朝一番に届く振動といえば、畑へ向かう数人の足音くらいだった。
今は違う。
鍛冶場から響く槌の音。
倉庫へ荷を運ぶ車輪のきしみ。
宿の竈へ薪を放り込む音。
湯屋へ水を引く樋の流れと、石畳を駆けていく子供たちの足音。
朝が来るだけで、俺の山裾はにぎやかに震えるようになっていた。
村の中央では、ネスが記録帳を片手に歩いている。
「指輪は鍛冶師へ。衣装は仕立て職人へ頼めます。宴の料理は、宿の者たちが引き受けてくれるそうです」
婚礼の段取りについて報告を受けた村長が、周囲に並ぶ建物へ目を向けた。
「村の中だけで、そこまで揃うようになったか」
「五年、かかりましたからね」
ネスが最初に連れてきたのは、鍛冶師とその弟子だった。
採掘道具を直せる者がいなければ、どれほど鉱石があっても仕事は続かない。そう言って、山を越えた町から口説き落としてきた。
続いて、火トカゲの皮を扱える革職人と、布を仕立てる職人。
火傷や怪我を診られる薬師。
家や水路を造る大工と石工。
探索者を泊める宿の主人と料理人。
荷車や馬を扱う者に、素材の買い取りを任せる手代。
ネスは一度に大勢を連れてきたわけではない。
この村に次に必要となる仕事を見極め、その担い手を少しずつ呼び込んできた。
鍛冶場では、黒銀色の鉱石が赤く熱せられ、槌を受けて火花を散らしている。
隣の作業場には火トカゲの皮が並び、薬師の窓辺では、薬草を煮出す鍋の熱が揺れている。
五年前なら村の外へ頼みに行かなければならなかったことが、今では村の中で次の仕事へつながっていた。
「私が連れてきたのは、人だけですよ」
ネスは、温泉から立ち昇る湯気を見上げる。
「水と熱を絶やさず、鉱石と魔物素材が枯れないようにし、彼らがここで働き続ける理由を作ったのは、火山様です」
「かしこみかしこみ。まこと、万物はカザン様の御力によって巡り――」
(いや、そこまでじゃない)
俺が動かしたのは、熱と水と岩だ。
乾いた季節にも畑へ水が届くよう、地下水の流れを整えた。
人々が造った湯屋や鍛冶場へ地熱を分け、寒い時期には家々の床下に通した石管へも、穏やかな熱を送った。
溜まりすぎた圧力は、人のいない斜面へ逃がした。
ダンジョンには新しい階層を増やし、魔物と魔石と鉱石が、採り尽くされない速さで巡るよう調整した。
危険な通路には石門を作り、崩れそうな場所は先に塞いだ。
聖域も、俺が感知できる範囲も、洞窟の周囲から外へ続く村道の途中まで広がっている。
けれど、そこへ家を建てたのは俺じゃない。
仕事を覚え、決まりを作り、毎日の暮らしを続けてきたのは皆だ。
それでも、一つだけ。
この五年間、洞窟へ入った者を一人も行方不明にしていない。
最後の木札が裏返るまで内部へ意識を巡らせ、危険の兆しを拾えばヒナノへ知らせ、全員を門の外へ帰してきた。
そのことだけは、少しくらい誇ってもいいと思う。
(五年前の俺には、村の結婚式を心配する日が来るなんて、想像もできなかったな)
「かしこみかしこみ。されど、レン殿が見張り所より婚礼へ到着されるかについては、いまだ懸念が残ります」
(そこは皆に任せよう)
俺が人間一人を移動させようとすれば、たぶん婚礼どころでは済まない。
◇
昼を少し過ぎた頃、外へ続く村道から、複数人の足音が近づいてきた。
先頭にいる一人の歩き方には、覚えがある。
(スワイスか)
しばらく村を離れていたスワイスが、旅装のまま戻ってきた。
その後ろには、四人の男女が続いている。
使い込まれた長剣。大盾。短弓。そして、杖と薬鞄。
どれも飾りではない。傷だらけの装備を、自分の身体の一部のように扱っている。
見張り所にいたレンが、門前の村道へ降りた。
「連絡より早かったな」
「道が良くなっていた」
「火山様と石工たちが、去年整えた」
「外にいる間に、また仕事を増やしたらしいな」
スワイスは口元をわずかに緩め、背後の四人を振り返る。
「話していた冒険者たちだ。腕は信用できる」
四人は洞窟の門へたどり着く前から、落ち着きなく村の中を見回していた。
石造りの見張り所。
人と荷車が行き交う道。
槌の音が響く鍛冶場に、二階建ての宿。
湯気を上げる湯屋と、素材を運び込む倉庫。
剣を背負った男が、スワイスへ顔を寄せた。
「おい。本当にここなのか?」
「何がだ」
「山奥の小さな村だと聞いていた」
「五年前の話なら、間違っていない」
盾を背負った大柄な男が、荷車を避けて道の脇へ寄る。
「俺の故郷より、人が多いぞ」
「お前の故郷は、家より山羊の方が多かっただろ」
「山羊を数に入れれば、まだ負けていない」
どうやら、腕だけでなく口もよく動く一行らしい。
そこへ、ネスが出迎えに現れた。
「ようこそ、火守村へ」
短弓を持った女が、鍛冶場から上がる煙と、宿の看板を交互に見る。
「これだけ揃っていて、まだ村なの?」
「名前が、発展に追いついていないだけですよ」
ネスは、いつもの商人らしい笑顔で答えた。
「宿も食事も、武具の修理もできます。素材の買い取りも、湯屋もあります。ただし、洞窟へ入るなら、先に巫女の家で受付をしてください」
「湯屋があるの!? すごいわね!」
女は目を輝かせた。
「洞窟へ入るだけで、受付?」
「名前、人数、装備、目的、帰還予定を記録します。最後の一人が戻るまで、木札は外しません」
杖を背負った者が、門の向こうに見える巫女の家へ目を向けた。
「ずいぶん細かいんだな」
「その細かさのおかげで、五年間、一人も消えていない」
答えたのは、スワイスだった。
四人の顔から、軽口めいた笑みが消える。
「五年……本当に一人も?」
「入った人数も、戻った人数も、全部記録に残っている」
「浅い洞窟じゃないんだろう?」
「階層は今も増え続けている。下へ行けば、俺でも一人では入らない」
剣を背負った男は、しばらく黙って洞窟の石門を見つめていた。
やがて、確かめるように問いかける。
「魔石が採れる。珍しい鉱石も、魔物の素材もある。それで、五年間、行方不明者はゼロ」
「そうだ」
「そんな場所が本当にあるなら、宝の山なんて言葉じゃ足りないぞ」
男はスワイスからレンへ、レンから巫女の家へ視線を移した。
「明日、俺たち四人で潜る。ここの決まりが命を守るというなら、全部従おう」
そして、最後に笑った。
「ただし、ここが本物だと判断したら――次にこの門を叩くのは、四人じゃ済まない」
レンの手が、腰の武器の柄へ静かに添えられる。
敵意に備えたのではない。
これから増えるかもしれない者たちも、自分たちが守るのだと確かめるように。
ネスは笑みを深くし、スワイスは黙って洞窟を見た。
四人の客が、明日この場所で何を見て、どんな答えを外へ持ち帰るのか。
その答え次第で、火守村の次の五年は大きく変わる。
(いいだろう)
俺は地中へ意識を伸ばし、浅層から第二層まで、すべての道と熱と魔物の位置を確かめた。
(見せてやる)
五年間、俺と皆が築いてきた――生きて帰れるダンジョンを。
明日、その価値が初めて、外の世界を知る者たちに試される。
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