44.初めての火神祭
どん。
鼓の一音が、朝の空気を叩き割った。
広場から伝わった振動が地面を駆け、麓から俺の身体を駆け上がってくる。
間を置かず、二打目、三打目。
どどん、どん、どどん。
俺は祭壇の脇にいるヴァルの目と耳を借り、広場の様子を捉えていた。
ガンゾウの両腕が、目で追うのも難しいほどの速さで動いている。撥が振り下ろされるたびに鼓の皮が震え、腹の底まで響くような音を生み出していた。
普段、酒樽へ忍び寄ってはダンに捕まっている老人と、同じ人物とは思えない。
(……速くないか?)
俺はもっと、ゆったりとした祭りを想像していた。
静かな音に合わせてヒナノが舞い、村人たちが厳かに祈りを捧げる。そんな光景を思い浮かべていたのだ。
だが、実際に流れているのは、祈りを捧げる曲というより――
(これ、強敵と戦っている時の曲だろ)
しかも、一度倒した相手がさらに強くなって立ち上がった時に流れるような曲だ。
「かしこみかしこみ。ガンゾウ殿は昨夜、『火山様を退屈させてはならぬ』と申しておりました」
(退屈する暇はなさそうだな)
むしろ、俺に腕があれば、今ごろ武器を構えているところだ。
鼓の連打が、不意に途切れた。
その静寂の中、祭壇の前に立つヒナノが、胸の前で両手を重ねる。
白と赤の祭装束に身を包み、顎まで伸びた黒い髪を、朝の風に小さく揺らしていた。
次の瞬間。
どんっ!
ガンゾウが撥を振り下ろすのと同時に、ヒナノが地面を強く踏みしめた。
静かな舞ではない。
両腕を大きく広げ、身体を低く沈める。そこから一気に立ち上がり、白と赤の袖を炎のように翻した。
一歩、二歩と後ろへ退き、見えない何かから逃れるように身体を捻る。
鼓の音が迫る。
どどん、どん。
ヒナノは片腕で顔を守り、もう一方の腕を背後へ伸ばした。
背後にいる誰かを、庇うように。
(あの日の村か)
舞が何を表しているのか、すぐに分かった。
一年前、森から押し寄せた魔物たち。
家族を守ろうとしながら、少しずつ追い詰められていった村人たち。
向かい合う敵などいない。
それでも、ヒナノの前には確かに、あの日の魔物たちが見えた。
鼓がさらに激しくなる。
ヒナノは何度も踏みとどまりながら、それでも少しずつ祭壇の端へ追い詰められていく。
そして、とうとう片膝をついた――その時だった。
鋭く澄んだ笛の音が、鼓の連打を切り裂いた。
高い一音が朝の空へ駆け上がり、山の斜面へ広がっていく。
続けて、細かく刻まれた音が次々と流れ込んできた。
俺の疑問に応えるように、ヴァルが顔をそちらへ向ける。
広場の端で横笛を構えていたのは、短い亜麻色の髪をした少年だった。
(……レン!?)
「かしこみかしこみ。レン殿にございます」
(見れば分かる。なんで、あいつがあんなに上手いんだ?)
レンの指は、笛の上を流れるように動いていた。
ほんのわずかに息を継いだかと思えば、先ほどよりも高く、力強い音が響き渡る。
「かしこみかしこみ。レン殿は幼少の頃より、ガンゾウ殿から笛の手ほどきを受けていたとのことです」
(あのじいさん、ちゃんと人に教えられたのか)
「かしこみかしこみ。少なくとも、笛については」
(今、笛以外は教えられないって言ったか?)
演奏中のガンゾウが横目でレンを見て、不敵に笑った。
次の瞬間、鼓の速さがさらに増す。
それに応えるように、レンの指も動きを速めた。
(槍を持っている時より、指が速くないか?)
「かしこみかしこみ。日頃の短槍の鍛錬も、笛に生きているものと存じます」
(順番が逆じゃないか?)
最初は鼓に添えられていた笛が、次第に曲全体を引っ張り始めていた。
レンが鋭い音を放てば、ガンゾウが重い一打で受け止める。ガンゾウが連打を浴びせれば、レンはさらに細かな音を重ねて押し返す。
まるで、師弟が音で戦っているようだった。
笛が加わると、ヒナノの舞も変わった。
それまで後ろへ退いていた足が、初めて前へ出る。
迫り来る鼓の音を恐れるのではなく、真正面から受け止める。一歩踏み込むたびに赤い袖が閃き、見えない魔物を打ち払っていく。
村人たちには見えないその背後で、フランが両腕を広げた。
赤い火の粉がいくつも生まれ、ヒナノの衣を焦がすことなく、その周囲を舞い始める。
一つ一つの火の粉が花びらへと形を変え、やがてヒナノの背後に、大きな炎の花を咲かせた。
ヴァルも翼を広げ、広場の上空へ舞い上がる。
村人たちの頭上を一度だけ旋回すると、誰もいない空へ向けて細い炎を吐き出した。
赤い炎が朝空に弧を描き、村人たちから大きな歓声が上がる。
役目を終えたヴァルは、再び祭壇の脇へ降り立った。
コロも負けじと、鼓に合わせて跳ね始める。
「ぷる!」
どん。
「ぷる!」
どん。
最初の二度までは、ぴったり合っていた。
曲がさらに速くなった途端、着地が一拍遅れる。
「ぷる?」
慌てて二度続けて跳ねると、今度は曲を一拍追い越した。
「かしこみかしこみ。コロ様は、独自の拍をお刻みになっております」
(それは、ずれてるって言うんだ)
「ぷるる!」
コロが抗議するように、さらに高く跳ねた。
その間にも、舞と演奏は勢いを増していく。
ガンゾウの鼓。
レンの笛。
ヴァルの炎。
フランが咲かせた赤い花。
そのすべてを従え、ヒナノが大きく一回転した。
白と赤の袖が広がり、炎の花びらと重なる。
レンの笛が、どこまでも伸びていくような長い一音を奏でた。
ヒナノが祭壇の正面へ片膝をつく。
最後に一度だけ、ガンゾウの撥が振り下ろされた。
どん。
すべての音が止まった。
鼓の余韻だけが地面を伝い、ゆっくりと俺の岩盤へ溶けていく。
「カザン様」
静まり返った広場に、ヒナノの声が響いた。
「一年前、私たちを魔物からお守りくださり、ありがとうございました」
ヒナノが両手を地面へつき、深く頭を下げる。
「この一年、私たちがここで生き、笑い、今日を迎えられたのは、カザン様が見守ってくださったからです」
ヒナノの後ろで、村人たちも一斉に頭を下げた。
ダンも、ガンゾウも、レンも。
ネスとスワイスも、村人たちに倣って俺の山へ頭を垂れる。
「これからも私たちは、この山とともに生きていきます。そして、守っていただくだけではなく、私たちもこの山を守ります」
その言葉が、俺の身体へ深く染み込んでいく。
村人たちは、俺に守られたと言う。
だが、ただ死にたくないと願い、がむしゃらに力を振るっていた俺を、守り手にしてくれたのは彼らだ。
俺をカザンと呼び、信じ、この場所で生き続けてくれた。
もし、この村がなかったら。
俺は今も、自分がただの災害なのか、それとも一つの命なのかさえ分からないままだったかもしれない。
(礼を言うのは、俺の方だ)
この気持ちを、村人全員へ言葉で伝えることはできない。
だから俺も、この日のために返事を用意してきた。
意識を山の上部斜面へ伸ばす。
人が立ち入らない岩場に、半年かけて刻んだ細い溝がある。
何度も深さを調整し、どれほどの熱なら周囲の岩盤を崩さずに済むか確かめてきた。村まで熱が届かず、噴煙も上がらない場所を選び、地下から細い流路も通してある。
俺はその流路へ、地下深くからごく少量のマグマを押し上げた。
山は揺れない。
岩が砕ける音もなく、噴煙も上がらない。
ただ、黒い山肌の一角に、細い赤い線が灯った。
一人の子供が、それに気づいて山を指差す。
「あっ!」
赤い線が、ゆっくりと左右へ分かれていく。
さらに枝分かれし、弧を描きながら山肌を進む。
幾重にも重なった赤い線が繋がり、やがて一つの形を作り上げた。
黒い山肌に咲く、巨大な炎の花。
祭壇へ供えられた赤い花と、同じ形だ。
「火山様が……花を咲かせた」
誰かの呟きが聞こえた。
ヒナノが顔を上げる。
炎の花を見つめたまま、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「カザン様からのお返事です」
(守ってくれて、ありがとう)
村人たちの歓声が、朝の火守村へ響き渡った。
同時に、俺の意識の奥で二輪の赤い花が強く輝く。
その周囲に、細かな光が次々と集まってきた。
光は小さな塊となり、一つ、また一つと、小さな蕾へ形を変えていく。
まだ、どれも花開いてはいない。
それでも、確かに新しい何かが育ち始めていた。
ガンゾウが、再び鼓を強く叩く。
どん!
「火山様から、もう一曲やれとのお告げじゃ!」
「お前がやりたいだけだろう!」
ダンの怒鳴り声に、広場が笑いに包まれた。
◇
奉納の儀が終わると、祭壇へ供えられていた料理や乾燥果実が、村人たちへ振る舞われた。
焼いた肉の匂いが広場へ広がり、ネスが持ち帰った香辛料を使った煮込みが、大きな鍋から次々と器へ盛られていく。
ガンゾウが、祭壇の上に残っていた乾燥果実へ手を伸ばした。
「これはカザン様が召し上がったあとの、ありがたい果実じゃ」
横から伸びたダンの手が、ガンゾウの手の甲を叩く。
「供えてから、まだ十呼吸も経っていないぞ」
「神ともなれば、召し上がるのも速い」
(俺は一つも食べてないぞ)
「かしこみかしこみ。では、火口までお運びいたしましょうか」
(やめてくれ。食事のたびに噴火口へ供物を投げ込まれたら困る)
「これは村人が分けて食べるものだ。勝手に持っていくな」
「わしも村人じゃ」
「一人で全部食べようとするなと言っている」
「ならば、半分で手を打とう」
「一人分だ!」
ダンから乾燥果実を一つだけ渡され、ガンゾウは不満そうに口へ放り込んだ。
その近くでは、レンが父親から器を受け取っていた。
「今日のお前は、村で一番だったぞ」
父親の言葉に、レンが目を輝かせる。
「本当か?」
「笛はな」
「そこは全部って言えよ!」
「舞はヒナノ、鼓はガンゾウだ。ほかの何を一番だと言えばいい?」
「分かってるけど、言い方ってもんがあるだろ!」
隣で聞いていたスワイスが、声を上げて笑った。
「だが、本当に見事だった。砂漠連邦でも、あれほど笛を吹ける者は多くない」
「ほら、聞いたか?」
レンが得意げに胸を張る。
「槍より笛を持った方が、冒険者として名が売れるかもしれないぞ」
「魔物が聞き惚れて、襲うのをやめてくれるならな」
「笛を聞きに寄ってくる魔物ならいる」
「本当か?」
「お前を食うためにな」
「やっぱり槍も持つ」
また笑い声が上がった。
スワイスは長旅の疲れを見せることもなく、空いた器を集め、料理を運ぶ女たちを手伝っていた。
子供に砂漠の話をせがまれれば足を止め、身振りを交えながら答えている。
「本当に、いい村だな」
スワイスが隣に立つネスへ言った。
「ええ。私も、そう思います」
ネスは自分が褒められたように、嬉しそうに笑った。
どこから見ても、スワイスは誠実な男だった。
ヴァルを前にしても逃げず、ネスを守ろうとした。
村へ着いてからも、必ずダンかネスに許可を取り、勝手な行動は一度もしていない。
だから俺も、この時までは何ひとつ疑っていなかった。
祭りが最も賑やかになった頃、ガンゾウが再び鼓の前へ座った。
「レン、もう一度じゃ!」
「今、食ってる!」
「笛吹きの口は空いておるじゃろう!」
「食べるのにも口は使うんだよ!」
文句を言いながらも、レンは口の中の料理を急いで飲み込む。
横笛を手に取り、ガンゾウの鼓へ音を重ねた。
どん、どどん。
笛の音が空へ伸びる。
村人たちが手を叩き、子供たちがヒナノの舞を真似て広場を走り回る。
何人もの足音が重なり、地面を絶えず揺らしていた。
その中に混じった小さな違和感を、俺は一度、聞き流しかけた。
どん。
鼓が鳴る。
その音の底に、一人分の足音があった。
どどん。
広場から離れていく。
大人の歩幅。
ゆっくりだが、迷いはない。
三歩進むたび、硬いものが地面を叩いていた。
かつ。
かつ。
長い槍の石突だ。
(……スワイス?)
昨日、村へ着いてから何度も感じた足運びだった。
俺はヴァルへ広場を見回すよう伝え、その目を借りる。
ダンがいる。
ネスも、ヒナノもいる。
レンとガンゾウは演奏を続けている。
だが、先ほどまでネスの隣にいた男の姿だけが見当たらない。
荷車の脇に立てかけられていた長槍も消えていた。
(フラン。スワイスはどこだ?)
「かしこみかしこみ。先ほどまで、ネス殿の傍らに――」
フランが広場を見回す。
まとっていた赤い炎が、わずかに揺れた。
「……お姿が、ございません」
俺は意識を足音へ集中させる。
スワイスは村の外へ向かっているのではない。
浅層ダンジョンへ続く道を進んでいた。
祭りの音が遠ざかるにつれ、その足取りがはっきりと伝わってくる。
一人だ。
村人の案内はない。
ダンもネスも、広場にいる。
足音が、浅層ダンジョンの入口で止まった。
しばらく動かない。
引き返すのかと思った。
だが、次に伝わってきたのは、入口に張られていた縄が岩肌を擦る感触だった。
スワイスが、縄を持ち上げている。
その下をくぐり、一歩、洞窟の中へ踏み込む。
続いて、もう一歩。
祭りの鼓が、遠くで鳴った。
どん。
昨日、ネスを守るためにヴァルの前へ立った男。
荷を運び、村人たちと笑い、今さっきまで「いい村だ」と言っていた男。
なぜ、そいつがここにいる。
――山および洞窟へ、許可なく立ち入らないこと。
ネスと交わした護衛契約の末尾に、確かに記されていた一文。
スワイスも、それを読んだうえで署名している。
どん。
再び鼓が鳴り、スワイスの足音を覆い隠す。
火守村が俺を祝う、初めての祭りの日。
その最も賑やかな音に紛れて、スワイスは俺の身体の中へ入ってきた。
そして、一つの約束が破られた。
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