34.神聖なる温泉は遊んでも大丈夫
人一人分の重みが、地面へ崩れ落ちた。
そのすぐそばで、二つの足音が止まる。
一つは大人。
もう一つは、まだ歩幅の小さな子どものものだ。
二人は倒れた者へ駆け寄り、そのそばへ膝をついた。すぐ近くでは、止まった車輪が土へ深く重みをかけている。
(家族……なのか?)
倒れた人間の体温は、普段よりもかなり低い。
完全に熱が消えたわけではないが、呼吸に合わせて伝わる胸の動きは弱く、乱れていた。
さらに意識を、三人が歩いてきた方角へ伸ばす。
こちらへ近づいてくる、四足の気配がある。
一体。
二体。
三体。
四体。
爪が土を掻く振動と、荒い呼吸。
四本の脚が地面を蹴る間隔は狼に近い。だが、一歩ごとに伝わる重みは、普通の獣より一回り大きかった。
聖域へ近づくたび、足取りがわずかに鈍る。
それでも、獲物を追うことをやめようとしない。
(よほど飢えてるのか)
家族は、魔物から逃げてきたらしい。
一人が倒れたことで、残る二人の足も止まっている。
このままでは、すぐに追いつかれる。
俺は、温泉の近くにいるヒナノの神器へ意識を集中させた。
『……外』
届く。
だが、起きているヒナノへ送れる言葉は、夢の中ほど自由ではない。
『……人、三人』
『……一人、倒れた』
『……魔物、四体』
短い言葉を、一つずつ押し込む。
神器を通じて、ヒナノの驚きが返ってきた。
すぐに、彼女が走り出す振動が伝わってくる。
◇ ◇ ◇
「村の外で、人が三人! 一人が倒れています!」
ヒナノの声に、湯場へ集まっていた村人たちが一斉に振り返った。
「森へ続く道の方です。後ろから、魔物が四体近づいています!」
村長が、黒い岩の縁から立ち上がる。
「四体で間違いないな?」
「はい。カザン様が、そう仰っています」
「分かった。見張り台の鐘を一度鳴らせ。襲撃ではない。救出の合図だ」
村長が指示を出すと、村人たちはすぐに動き始めた。
子どもと年寄りを家々へ戻す者。
温かい布や水を用意する者。
槍や弓を取りに走る者。
半年前までなら、魔物という言葉だけで混乱が広がっていたかもしれない。
だが今は、誰もが自分の役目を理解していた。
「俺たちが行く」
レンの父が槍を手に取る。
二人の猟師も弓を背負い、その後ろへレンが続いた。
「俺も行く」
「訓練ではないぞ」
「分かってる」
レンの父は息子の顔を見た後、短く頷いた。
「なら、周りを見ろ。勝手に前へ出るな」
「ああ」
四人は、聖域の外縁へ向かって走り出した。
森へ入って間もなく、横倒しになった荷車が見えてくる。
そのそばでは、女が倒れた男の身体を起こそうとしていた。幼い娘は、父親の腕へ縋りついて泣いている。
さらに後方。
木々の間から、灰色の毛に覆われた魔物が姿を現した。
痩せた身体から肋骨が浮き、口元から濁った涎を垂らしている。
四体とも聖域へ入ることを嫌がっているのか、境界付近で何度も足を止めていた。
それでも、空腹に押されるように一歩ずつ近づいてくる。
「助けて!」
女が村人たちに気づき、声を上げた。
レンが反射的に駆け出しかける。
「待て」
レンの父の太い腕が、その胸元を遮った。
「でも!」
「敵だけを見るな。守る相手と、逃げ道を見ろ」
レンは歯を食いしばり、足を止めた。
倒れた男。
動けない母娘。
横倒しになった荷車。
そして、左右から回り込もうとしている魔物。
「荷車を壁にする。母娘をその後ろへ!」
「分かった!」
レンは魔物へ向かわず、母娘のもとへ走った。
「立てますか?」
「私は……でも、夫が!」
「先に娘さんを!」
女の腕を取り、荷車の陰へ誘導する。
娘を母親へ預けると、レンは倒れた男の前に立ち、槍を構えた。
レンの父と猟師たちも、三人を守るように半円を作る。
その時、一体の魔物が地面を蹴った。
「来るぞ!」
猟師が放った矢が、魔物の前脚へ突き刺さる。
だが、魔物は止まらない。
痛みに吠えながら、正面に立つレンの父へ飛びかかった。
槍の穂先が、その肩口を捉える。
魔物の勢いに押され、レンの父の足が地面を滑った。
「右からも来る!」
二体目が木々の間を抜け、荷車の横へ回り込む。
レンが槍を向けるが、そのまま突撃はしなかった。
母娘と倒れた男から離れず、腰を落として魔物を待つ。
その瞬間。
魔物と荷車の間で、地面が低く盛り上がった。
土を押しのけ、黒い岩の壁が姿を現す。
高くはない。
だが、獲物だけを見て走っていた魔物の前脚を止めるには十分だった。
魔物が岩へぶつかり、体勢を崩す。
「今だ!」
レンが一歩だけ踏み込み、槍の柄で魔物の頭を強く打った。
横から猟師の矢が飛び、その脇腹へ突き刺さる。
正面では、レンの父が最初の一体を槍で押し返していた。
もう一人の猟師が側面へ回り込み、短槍を突き出す。
穂先が胸を貫き、魔物の身体が地面へ落ちた。
一体が動かなくなったことで、残る三体の足が止まる。
聖域への恐怖。
仲間を失った警戒。
それらが、ようやく空腹を上回ったらしい。
一体が低く唸り、後ずさる。
他の二体も、それに続いて森へ引き返し始めた。
レンが槍を握り直す。
だが、追わなかった。
「深追いはしない。倒れた人を運ぶぞ」
父の言葉に、レンはすぐ頷いた。
「ああ」
レンの父は、そんな息子を一度だけ見る。
その口元が、わずかに緩んだ。
「少しは周りを見られるようになったな」
「少しだけかよ」
「今ので褒められると思うな。荷車を起こせ」
「はいはい」
「返事は一度だ」
「はい!」
レンは槍を背負い、倒れた男を運ぶために荷車へ手を掛けた。
◇ ◇ ◇
(追わなかったか)
森へ逃げていく魔物の振動を感じながら、俺は地面の隆起を止めた。
半年前の戦いでは、目の前の敵を倒すことだけで精一杯だった。
誰かが前へ出れば、その穴を別の誰かが慌てて埋める。
指示が重なり、守るべき相手まで危険へ晒される場面もあった。
だが、今は違う。
槍を持つ者が正面を止めた。
猟師は魔物の脚を狙った。
レンは倒れた人間と母娘を守り、逃げた魔物を追わなかった。
(ちゃんと、自分たちの判断で守り切ったな)
俺が動かした岩壁は、魔物の足を止めただけだ。
もし地面を動かさなくても、村人たちは三人を救出できていたかもしれない。
浅層ダンジョンで火トカゲと戦い、何度も連携を確かめてきた成果だ。
(ダンジョンを作った甲斐があった)
もっとも、今は喜んでいる場合ではない。
倒れた男の体温は、まだ低いままだ。
レンたちは荷車を起こし、そこへ男を乗せた。
女と娘も一緒に、村へ向かって歩き始める。
(温泉が、いきなり役に立つかもしれないな)
◇ ◇ ◇
村へ運び込まれた男を、いきなり湯へ入れることはしなかった。
冷えた身体を乾いた布と毛布で包む。
湯で温めた布を固く絞り、胸元へ重ねる。
温めた石も厚い布で包み、肌へ直接触れないよう身体の脇へ置いた。
顔や腕にある傷は、井戸から汲んだ清潔な水で洗う。
「息はある」
村長が、男の鼻元へ手を当てる。
「身体が冷え切っている。急に熱くするな。ゆっくり温めろ」
つい先ほど作られたばかりの湯場から、次々と温かい布が運ばれてくる。
妻は男のそばへ座り、その手を握り続けていた。
娘も泣き疲れたのか、母親へ寄りかかっている。
しばらくすると、男の瞼がわずかに動いた。
「……ここ、は……」
「あなた!」
妻が身を乗り出す。
「大丈夫。助けてもらったの。私も、この子も無事よ」
男は霞んだ目で、妻と娘を見た。
張り詰めていたものが切れたように、その表情が崩れる。
「よかった……」
「お父さん……!」
娘が、父親の腕へ抱きついた。
井戸水をぬるく温め、男へ少しずつ飲ませる。
喉が水を受けつけることを確かめてから、薄く煮た粥も運ばれてきた。
すぐには多くを食べられなかったが、数口飲み込む頃には、青ざめていた顔へわずかに色が戻っていた。
「何があった?」
村長は、男の呼吸が落ち着くのを待ってから尋ねた。
「なぜ、魔物に追われていた」
男は横になったまま、途切れ途切れに話し始めた。
一家が暮らしていたのは、森をいくつも越えた先にある小さな集落だった。
以前から、魔物による被害はあった。
それでも狩人たちが追い払い、どうにか畑を守って暮らしてきたという。
だが、この一年で魔物の数が急に増えた。
畑は荒らされ、家畜も奪われた。
蓄えていた食料も底をつき始め、冬を待たずに集落を離れる者が増えていた。
「行く当ては、あったのか?」
「噂を、聞きました」
男は、枕代わりに畳まれた布の上で顔を動かした。
「森の向こうに、魔物の大群を退けた村があると。大地そのものが動き、人を守ったと」
周囲にいた村人たちが、互いの顔を見る。
「火山の炎は家々を避け、山からは水と鉱石が与えられる。傷ついた者を癒やす巫女もいると聞きました」
視線がヒナノへ集まった。
ヒナノは困ったように、胸元にある神器を押さえる。
「それで、この村を探してきたのか?」
「はい。ここならば、火山神様の御慈悲をいただけるかもしれないと思い……」
男は身体を起こそうとした。
「まだ寝ていろ」
村長に止められ、それでも男は妻へ目を向ける。
妻は荷車から、小さな布袋を持ってきた。
中に入っていたのは、乾燥させた豆と、固くなった黒パンだった。
一家に残された、わずかな食料だ。
「これしかございませんが、どうか火山神様へお納めください」
「受け取れません」
ヒナノが、すぐに首を横へ振った。
「それは、皆さんで食べてください」
「ですが、何も捧げずに御慈悲だけを求めるなど……」
「カザン様は、食べ物を取り上げたりはしません」
男は戸惑った顔で、布袋とヒナノを交互に見る。
「では、この村では、神へ何を捧げるのですか?」
「供物よりも、感謝を込めた鼓の音を――」
「新しい作法を増やすな」
重々しく口を開いたガンゾウを、村長が即座に止めた。
「まだ何も増やしておらんぞ」
「今、増やそうとしただろう」
「客人を歓迎する心を、形にしようとしただけじゃ」
「まずは休ませろ」
男は、ますます困惑していた。
本当に何も捧げなくてよいのか、判断できないらしい。
村長は男へ向き直り、静かに告げた。
「決められた規則を守れ。働ける者は働け。自分と家族の命を粗末にするな。それで十分だ」
「それが、火山神様の教えなのですか?」
村長は一瞬だけ考え、ヒナノを見る。
「少なくとも、これまで山が示してきたのは、そういうことだ」
「カザン様は、誰かが勝手に死ぬことを、とても嫌がる方です」
ヒナノも言葉を添えた。
「ですから、今は食べて、身体を治してください」
男は布袋を握りしめたまま、しばらく言葉を失っていた。
やがて目元を伏せ、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
男が再び眠りについた後、ヒナノは胸元の神器を両手で包み、山へ今日の出来事を報告した。
起きているヒナノへ、俺から返せる言葉は短い。
だが、彼女が祈りとして神器へ託す言葉は、こちらまで届く。
一家が噂を頼りに、この村を目指してきたこと。
残された食料を供物にしようとしたこと。
そして、自分が客人へ伝えた言葉。
(勝手に死ぬことを嫌がる、か)
間違ってはいない。
ただ、もう少し神らしい言い方はなかったのだろうか。
(それにしても、この一年で魔物が増えた……か)
半年前に逃がした、知性ある親玉の気配が頭をよぎる。
今のところ、あいつと結びつける証拠はない。
だが、忘れてよい話でもなさそうだった。
「かしこみかしこみ、申し上げます。カザン様の御威徳を慕い、初めて外部より巡礼者が参りました」
(まだ巡礼者と決まったわけじゃないぞ)
「遠方よりカザン様の御許を目指して参った者であれば、巡礼者と呼んで差し支えないかと存じます」
(逃げ場所を探して来ただけだろ)
「では、初めての帰順者として記録を改めます」
(急に国っぽくなったな。巡礼者でいい)
フランの背後で、赤い炎の花が一輪咲いた。
「歓迎の意を示すため、炎花を百輪ほど空へ咲かせてはいかがでしょう」
(やめろ。魔物に追われて弱ってる人間の前へ火を百個も出したら、歓迎じゃなくて追い打ちだ)
「では、十輪に抑えます」
(数の問題じゃない)
「一輪であれば」
(ゼロだ。火は出すな)
フランの背後に咲いていた炎の花が、少し寂しそうに萎んだ。
(お前、本当に残念そうにするんだな)
「せめて、来訪者の記録と歓迎の作法だけでも定めるべきかと存じます」
(気が早くないか? まだ三人来ただけだぞ)
「国の歴史は、最初の来訪者を迎えた日より始まります」
(村へ三人来ただけで、もう国の話になってるんだが)
フランは冗談を言っている様子ではない。
本気で、この三人が訪れた日を、国の始まりとして記録するつもりらしい。
俺はまだ、村で暮らす者たちの名前すら全員分は知らない。
それなのに、フランの記録だけは何十年も先へ進もうとしていた。
(国より先に、今夜寝る場所を考えないとな)
「空いている家屋を整え、客人用の寝所とするのがよろしいかと存じます」
(そういうところは頼りになるんだけどな)
◇ ◇ ◇
男が休んでいる間、同じように身体が冷えていた妻と娘は、ヒナノに連れられて湯場へやってきた。
山の外からも、白い湯気が見えていたらしい。
娘は黒い岩の窪みを覗き込み、不思議そうに首を傾げる。
「これは、火山神様がくださった、身体を清めるためのお湯ですか?」
「うむ」
なぜかガンゾウが、重々しく頷いた。
「災いの炎を人々の安らぎへ変えられた、神聖なる湯じゃ」
「今日できたばかりだ」
村長が横から付け加える。
「それと、まだ飲むな」
娘と妻は、どちらを信じればよいのか分からない様子で湯場を見つめた。
その横では、村の子どもたちが湯へ足を入れている。
一人が足を動かし、隣の子どもへ湯を飛ばした。
「やったな!」
「お返しだ!」
「走るな! 滑るぞ!」
大人に叱られながら、二人が笑う。
反対側では年寄りたちが並んで腰を下ろし、気持ちよさそうに両足を温めていた。
恐ろしい火山神の聖域を想像していた一家にとって、それはあまりにも生活感のある光景だった。
「神聖なる湯で、遊んでもよいのですか?」
娘が小声で尋ねる。
「転ばなければ、少しくらいは」
ヒナノが答えた。
「足を入れてみますか?」
娘は母親の顔を見上げた。
母親が頷くと、靴を脱ぎ、恐る恐る足先を湯へ入れる。
「あったかい……」
驚いた顔が、すぐに笑顔へ変わった。
母親もその隣へ腰を下ろし、ゆっくりと足を湯へ浸す。
長い間、強張っていたその表情が、ようやく少しだけ緩んだ。
◇ ◇ ◇
日が暮れた後、男は空いていた家へ運ばれた。
妻と娘にも、寝具と食事が用意される。
身体の調子が戻るまで、この村へ置いてほしい。
その願いについては、反対する者はいなかった。
だが、男が続けて口にした願いには、誰もすぐ答えられなかった。
「もし、お許しいただけるなら……身体が治った後も、この村で暮らしたいのです」
村人たちの間へ、静かなざわめきが広がる。
「三人くらいなら、どうにかなるだろう」
「だが、食料はどうする?」
「畑を広げればよい」
「種も、冬越しの蓄えも限られている」
「住む家だって、今は空いているが、直さなければ長くは使えんぞ」
「この一家だけならよい。だが、同じ噂を聞いた者が、また来るかもしれない」
歓迎したいという気持ちはある。
だが、気持ちだけで食料や家が増えるわけではない。
それに、この村は一度、盗賊に襲われている。
助けを求めてきた者を疑いたくはないが、誰でも無条件に受け入れるわけにもいかなかった。
「静かにしろ」
村長の声で、話し合いが止まる。
村長は、横になっている男と、そのそばに座る妻を見た。
「まずは身体を治せ。その間は、客人として扱う」
「ありがとうございます」
「働けるようになってから、何ができるのかを聞く。この村の規則を守れるかも確かめる。そのうえで、ここに住めるかどうかを皆で決める」
男は少し不安そうな顔をしたものの、深く頷いた。
「必ず、できることは何でもいたします」
「何でもとは言うな。できないことまで引き受けられても困る」
村長は、集まった村人たちへ向き直る。
「これから同じように人が来た時も、すぐに追い返しはしない。だが、すぐに村の一員とも認めない」
誰が、どこから、何人で来たのか。
武器は何を持っているのか。
何日滞在し、村で何をしたのか。
それらを記録し、一定の期間を共に過ごしてから、受け入れるかどうかを決める。
村に初めて、外から来た者を迎えるための規則が生まれ始めていた。
◇ ◇ ◇
話し合いが終わった後。
ヒナノは、客人たちへ追加の毛布を届けた。
男はすでに眠っている。
妻もその隣で横になり、幼い娘だけが窓の外を眺めていた。
「お姉ちゃん」
「何ですか?」
「この村は、何という名前なの?」
ヒナノは答えようとして、口を止めた。
山の村。
麓の村。
自分たちは、いつもそれだけで通じていた。
外から人が訪れることなど、ほとんどなかったからだ。
「村長さん」
近くを通りかかった村長へ、ヒナノが声を掛ける。
「この村の名前は、何でしたか?」
村長の足が止まった。
しばらく考えた後、村長はガンゾウを見る。
「何でわしを見る?」
「お前なら、何か知っているかと思った」
「祭りの名なら、いくらでも考えられるがのう」
「村の名前だ」
「……そう言われると、聞いた覚えがないな」
鼓を抱えたガンゾウまで、珍しく黙り込む。
娘は三人の顔を順番に見た。
ヒナノは、少し困ったように笑う。
「……名前は、まだないの」
「村なのに?」
誰も言い返せなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
夢の大地へ現れたヒナノは、どこか言いにくそうに俺を見上げた。
『来た人たちは、落ち着いたか?』
「はい。倒れた方も、しばらく休めば動けるようになるだろうと、村長さんが仰っていました」
『そうか。間に合ってよかった』
「それから、カザン様」
『ん?』
「今日、初めて知ったことがあります」
『何だ?』
ヒナノは、少しだけ視線を逸らした。
「私たちの村には、名前がないそうです」
『……今まで、困らなかったのか?』
「皆、この村と呼んでいましたので」
『外から来た人には通じないだろ』
「はい。娘さんにも、村なのに名前がないのかと聞かれました」
半年後に行う祭りの名前は、すでに決まっている。
温泉の使い方も、採掘場の規則も作られ始めた。
外から来た人間を受け入れるための話し合いまで行われている。
それなのに、一番最初からあったものには、まだ名前がなかったらしい。
(俺の知らないところで祭りの名前は決まったのに、村の名前はまだないのか)
ヒナノは意を決したように、俺をまっすぐ見上げた。
「ですから、カザン様」
『ん?』
「私たちの村に、名前をいただけませんか?」
読んでいただきありがとうございます。
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