33.火山温泉と祭りの予感
噴火から、幾つもの月が過ぎた。
新しく繋がった地脈は、今も熱と魔力を運び続けている。
最初の頃は流れに強弱があり、そのたびに山の内部で熱が偏った。だが、岩場へ作った放熱口を少しずつ広げ、既存の地脈との間に魔力を逃がす経路を増やしたことで、現在は大きな変動もなくなっている。
赤く溶けていた岩場も、表面は黒く固まった。
内部にはまだ熱が残っているものの、以前のようにマグマが噴き上がる気配はない。
そして、噴火によって流れを変えた地下水は、今も岩の割れ目から湧き続けていた。
「かしこみかしこみ、申し上げます。新たな地脈からの流入量、放熱口の状態ともに安定しております。熱水の湧出量にも、この十日間、大きな変動はございません」
(ようやく、安心して使えそうだな)
「御意にございます」
フランは岩壁へ炎文字を描きながら答えた。
新旧二本の地脈。
深層のマグマ流路。
新たにできた放熱口と、そこから湧き出す熱水。
赤金色の線が重なり合い、現在の山の内部が一つの図として浮かび上がる。
噴火直後に増えた亀裂も、すでに修復してある。
採掘区画については、念のため入口を塞いだままにしていた。新しい地脈の影響が、どこへ現れるか分からなかったからだ。
数日程度の安全だけを確認して村人へ開放し、そこで何か起きては意味がない。少し時間はかかったが、これならヒナノへ伝えてもよいだろう。
「ぷる!」
少し離れた空洞から、コロの鳴き声が届く。
続いて、軽いものが地面へ落ちる振動。
コロが、ヴァルの背中から飛び降りたらしい。
ヴァルはまだ大きな犬ほどの体格だが、生まれた頃よりも脚取りが安定している。翼も少し強くなり、広い空洞の端から端までなら、地面へ降りずに進めるようになった。
もっとも、背中へコロが乗れば話は別だ。
「ぷるる!」
「グル……」
ヴァルが短く喉を鳴らす。
怒ってはいない。
ただ、飛ぶ練習を邪魔されたことへ、わずかに呆れている。
(コロ。ヴァルの練習中は、背中に乗るなって言っただろ)
「ぷる?」
(初めて聞いたみたいな反応をするな)
「ぷる!」
元気よく返事はした。
たぶん、次も乗る。
フランは二人へ近づき、乱れていた岩片を一つずつ元の場所へ戻していく。
「コロ様。ヴァル様の鍛錬中は、少々離れてお見守りくださいませ」
「ぷる……」
「鍛錬が終わりましたら、背へお乗りになってもよろしいかと存じます」
(許可するのはヴァルじゃないのか?)
ヴァルがフランへ顔を向け、小さく頷いた。
(いいのか)
「ぷるる!」
コロが喜んで跳ねる。
どうやら三人の間でも、少しずつ暮らし方が決まり始めているらしい。
変わったのは、山の中だけではなかった。
村から伝わってくる振動も、以前とは違う。
魔物に壊された家々を直していた、不規則な槌の音は減った。
代わりに決まった時刻になると、村の外縁で足音が高い場所へ上っていく。新しく作られた見張り台へ、村人が交代で上がっているのだろう。
朝には、槍の石突きが地面を叩く。
昼には、浅層ダンジョンへ複数人が入り、夕方になる前に戻ってくる。
鍛冶場からは以前より重い金属音が響き、畑の周辺を歩く者の足取りも増えた。
復旧だけをしていた村が、再び先へ進み始めている。
(あれから、どれくらい経ったんだろうな)
火山になってから、時間の感覚は随分と曖昧になった。
夜と昼は、地表の温度で分かる。
雨が降れば、山肌へ触れる水や土の重さで気づく。
それでも、何日経ったのかまでは数えていない。
フランは山の変化を記録しているが、人間が使う暦までは知らなかった。
(ちょうど報告したいこともあるし、今夜ヒナノに聞いてみるか)
◇ ◇ ◇
夢の中には、穏やかな赤い光が満ちていた。
黒い岩の大地。
その下を、地脈を表す光がゆっくりと流れている。
俺が待っていると、遠くから一人の少女が歩いてきた。
顎の辺りで整えられた、短い黒髪。
胸元には、黒銀色の神器。
ヒナノは俺の気配を見つけると、ほっとしたように微笑んだ。
「カザン様。お待たせいたしました」
『いや、こっちが呼んだんだから気にするな』
「お山の具合は、いかがですか?」
『もう大丈夫そうだ。新しく繋がった地脈も、噴火した場所も落ち着いてる』
ヒナノの表情が柔らかくなる。
「よかった……」
『村の方も、前より随分落ち着いたみたいだな』
「はい。壊れた家や柵は、ほとんど直りました。見張り台もできて、今は毎日交代で森を見張っています」
『やっぱり、あの高い場所へ上っていく足音は見張り台だったのか』
「分かるのですか?」
『誰かが毎日、同じ場所で地面より高いところまで上ってるからな。たぶんそうだと思ってた』
人間のように姿を見ることはできなくても、長く村を感じていれば、振動の意味も少しずつ分かるようになる。
「浅い洞窟へ入る人も増えました。レンも、傷が治ってから、お父さんに槍を教わっています」
『もう傷は大丈夫なのか?』
「普段の生活には困りません。でも、村には傷が痛む人や、夜中に魔物の声を思い出して眠れなくなる人もいます」
『……そうか』
身体の傷が塞がれば、すべて元通りになるわけではない。
魔物が柵を壊す音。
暗闇から襲いかかってくる気配。
命を奪われるかもしれない恐怖。
俺は地中から戦いを感じていただけだが、村人たちは自分の目で見て、自分の身体で向き合っていた。
誰も死ななかった。
だからといって、何も残らなかったわけではない。
『あの襲撃から、どれくらい経った?』
「もう半年ほどになります」
『半年?』
思っていたより長かった。
『俺、そんなに長く山をやってたのか』
火山として目覚めてからは、もっと長い。
それでも、人間と関わり始めてからの時間は、妙に短く感じていた。
『火山になってから、曜日どころか日付まで分からなくなったな』
「曜日、ですか?」
『前の世界で、何日目かを分けるために使ってたものだ。今は別に、明日が何曜日でも困らないけどな』
休みの日を待つ必要もない。
そもそも、火山に休日があるのかも分からない。
(噴火した日は、休みにしてもらいたいけど)
誰に申請すればいいのだろう。
「それから、半年後のことなのですが」
『ん?』
ヒナノが少し言いにくそうに、両手を胸元で重ねた。
「魔物の襲撃から一年になる日に、村でお祭りを開くことになりました」
『祭り?』
「はい。火神祭と呼ぶそうです」
『……俺、聞いてないんだが』
火山神の祭りらしい。
たぶん、俺のことだ。
その本人が、今初めて知った。
「魔物から守っていただいたことへ感謝し、全員が生きて一年を迎えられたことを祝うお祭りです」
『それ、もう決まってるんだよな?』
「村の皆で話し合いました」
『誰が言い出した?』
ヒナノの視線が、わずかに横へ逸れた。
『ガンゾウか?』
「……はい」
『やっぱり、あの爺さんか』
勝利祭。
俺の命名を祝う祭り。
山開き。
何かあるたび、祭りを増やそうとしていた。
とうとう半年先の祭りまで作り始めたらしい。
『でも、村長がよく認めたな』
「村長さんは、毎年、避難場所や井戸、鳴子を確かめる日にしようと仰っていました。火を使う場所を点検して、避難の訓練もするそうです」
『祭りなのか、点検の日なのか、どっちなんだ』
「両方です」
ヒナノは真面目に答えた。
「昼は皆で備えを確かめます。夜は火を灯し、料理を囲んで、無事に一年を過ごせたことをお祝いします」
『この先も、毎年やるつもりなのか?』
「はい。守っていただいたことだけではなく、私たちも自分の足で立ち続けることを、カザン様へお見せする日です」
祭りを口実に騒ぎたいだけなら、止めようと思ったかもしれない。
だが、村人たちが危険を忘れず、自分たちで備えるためだと言われれば、反対する理由はなかった。
『それなら……まあ、好きにすればいい』
「ありがとうございます」
『今ので許可を出したことになるのか?』
「はい。皆も喜びます」
『やっぱり、俺が何を言っても開催するつもりだったよな?』
ヒナノは答えなかった。
代わりに、少しだけ楽しそうに笑う。
半年後。
どうやら俺を祝う祭りが、勝手に一つ増えるらしい。
『祭りのことは分かった。それで、俺からも村へ伝えたいことがある』
「何でしょうか?」
『まず、採掘場を新しく作った』
「新しい採掘場……?」
『今まで使っていた浅層から分けてある。魔物と戦う場所を通らず、鉱石だけを採りに行ける』
噴火前に作った採掘区画の形を、夢の大地へ浮かび上がらせる。
入口から少し進んだ分岐。
一方は、これまで通り火トカゲと戦うための環状通路。
もう一方は、魔物を配置していない採掘専用の道。
『噴火の後、しばらく安全を確かめてた。地脈も落ち着いたし、そろそろ使っていいと思う』
「鉱石を採る人は、魔物と戦わなくてもよいのですね」
『ああ。鉱石を背負ったまま火トカゲに追われたら危ないだろ』
採掘が目的の者へ、無理に戦いまで求める必要はない。
『ただし、赤い線の先には入らないこと。鉱石も一度に採りすぎないこと。その辺の細かい規則は、村長に決めてもらってくれ』
「分かりました。鍛冶仕事をする人たちも、きっと喜びます」
『喜ぶのは、最初の調査が終わってからにしてくれ。魔物はいないけど、採掘そのものが安全なわけじゃない』
天井を無理に掘れば崩れる。
鉱脈の奥へ進みすぎれば、岩が割れることもある。
安全な道を作ったからといって、好き勝手に掘ってよいわけではない。
「必ず村長さんへ、そのように伝えます」
『頼む』
まず一つ。
続いて、もう一つ。
『それと、噴火した場所から温かい水が湧いてる』
「温かい水ですか?」
『正確には、かなり熱い。ずっと同じ量が湧いてるから、村の近くまで引こうと思う』
ヒナノは少し考え、やがて目を見開いた。
「皆で、湯浴みに使えるのでしょうか?」
『水質を確かめてからだけどな。飲み水にはしない方がいい。ただ、身体を洗ったり、温めたりする分には使えると思う』
ヒナノの手が、胸元の神器へ触れる。
「今は、怪我をした人の身体を拭く時も、水を汲んで薪で温めています」
『それなら、少しは薪を使わずに済むな』
「傷が治っても、身体が冷えると痛むという人もいます。温かいお湯へ入れたら、きっと喜びます」
傷を治す力が、湯にあるわけではない。
失ったものを戻すこともできない。
それでも、冷えた身体を温め、疲れを和らげることはできる。
眠れない夜に、少しだけ力を抜ける場所にはなるかもしれない。
『じゃあ、作るか』
「ありがとうございます」
『まだ完成してないぞ』
「カザン様なら、きっと作ってくださると思いましたので」
『信用が重いな』
ただ、一つ問題がある。
『今の湯が、人間にとってどれくらい熱いのか、俺には正確に分からない』
「カザン様にも、分からないことがあるのですね」
『人間だった頃の感覚は覚えてる。でも今は、自分の手を入れて確かめられないからな。俺にとっては、マグマだって身体の一部みたいなものだし』
熱水と冷たい地下水を混ぜれば、温度は下げられる。
だが、どの程度下げれば人間が安全に入れるのかは、実際に確かめてもらう必要がある。
『最初に湯を流したら、ヒナノが確かめてくれ。熱すぎたら湯船の縁を三回、ぬるすぎたら二回、ちょうどよければ一回叩いてくれれば分かる』
「分かりました」
『温泉を作るのに、まさか暗号が必要になるとはな』
◇ ◇ ◇
翌朝。
ヒナノは、夢で聞いた内容を村長へ伝えた。
採掘区画については、まず三人だけで中を調べる。
天井や岩柱。
鉱石の状態。
赤い進入禁止線の位置。
問題がなければ、採掘する者と護衛する者を決め、持ち帰る量を記録することになった。
温泉についても、すぐに全員が入ることは認められなかった。
「まずは、水の色と匂いを確かめる」
村長は、集まった者たちへ告げる。
「最初は手足を浸す程度に留める。飲むことは禁止する。異常があれば、すぐ利用を止める」
「温泉ができるのじゃぞ!」
ガンゾウが鼓を抱えたまま、身を乗り出す。
「湯開きの祭りも必要ではないか?」
「半年後に、大きな祭りをするのだろう」
「祝い事は多い方がよい!」
「薪と食料には限りがある」
「温泉があれば、薪は減らせるではないか!」
「その温泉は、まだできていない」
村長は、ガンゾウを横目で見た。
「お前が騒いでいる間に、予定地の石を片づけろ」
「祭りの準備と思えば、それもまた一興!」
結局、ガンゾウも村人たちに交ざり、石を運び始めた。
温泉を作る場所は、村の家々から少し離れた土地に決まった。
古井戸や畑よりも低い。
万が一、温泉水が溢れても、飲み水や作物へ流れ込まない場所だ。
村人たちが地面にある石や倒木を取り除き、全員が予定地から離れる。
ヒナノが火山へ向かって頭を下げた。
「カザン様。お願いいたします」
◇ ◇ ◇
村人たちの足音が、予定地から遠ざかる。
(始めるか)
「承知いたしました」
フランが、噴火跡から村まで続く地中へ炎文字を描いた。
湧き続ける熱水。
途中にある岩盤。
古井戸へ繋いだものとは別の、細い地下水の流れ。
そして、村外れの予定地。
熱水のすべてを、村へ流す必要はない。
噴火跡から湧き出した水の大部分は、これまで通り山の外側へ逃がす。その一部だけを分け、細い地下水路へ通すことにした。
まず、熱水が流れ込む入口を狭くする。
そこから少し下った場所へ、土砂を沈めるための小さな空洞を作った。
さらに先には、冷たい地下水を混ぜる空間。
異常が起きた時には村側への水路を塞ぎ、余った湯を別の排水路へ逃がせるようにする。
(温泉を止めたら、今度は地中で破裂しました、じゃ笑えないからな)
「幾重にも安全を備えられる御配慮、感服いたします」
(噴火で一度失敗したから、慎重になってるだけだ)
「失敗を未来の守りへ変えられることこそ、尊き御業にございます」
(相変わらず、何をしても評価が上がるな)
フランの背後で、小さな炎の花が咲いた。
俺は岩盤を削り、熱水の流れる道を村へ向けて延ばしていく。
その先では、黒い岩の床をゆっくりと沈めた。
人間が数人並んで足を入れられる程度の、浅い窪み。
周囲の岩を隆起させ、腰掛けられる高さへ整える。
底は土が混ざらないよう、硬い岩のまま滑らかにした。外側には排水用の溝を作り、余った湯が村とは反対方向へ流れるよう傾斜をつける。
地中で岩が動くたび、予定地から離れていた村人たちの足が一斉に動く。驚きのどよめきにも似た振動が、地面を通じて伝わってきた。
それでも、振動が止まるまで誰も近づいてこなかった。
(よし。まずは、山の中で温度を確かめるか)
混合用の空洞へ、熱水を流す。
白い蒸気が立ち上り、周囲の岩が急速に温められた。
「ぷる?」
熱に気づいたコロが、空洞へ近づいてくる。
(まだ入るなよ)
「ぷる!」
返事と同時に跳んだ。
(おい!)
コロは、熱水を溜めた小さな窪みへ飛び込んだ。
半透明の赤橙色の体が湯の中へ沈み、少ししてから、ぷかりと浮かび上がる。
「ぷるぅ……」
中心の炎が、気持ちよさそうに揺れている。
(どうだ?)
「ぷる!」
(快適なのか)
コロが、湯の中で体を広げる。
それだけを見れば、温度はちょうどよいらしい。
だが、コロは溶岩すら食べる。
(お前が平気でも、人間の参考にはならないんだよな)
「ぷる?」
「コロ様にとっては、適温のご様子にございます」
(この山、人間の温度を実際に確かめられるやつが一人もいないな)
コロは溶岩を食べる。
ヴァルも熱に強い。
フランは炎の精霊。
そして俺は、火山だ。
冷静に考えれば、温泉作りに向いているようで、肝心な部分を誰も確かめられない。
(コロ、そろそろ出ろ。村へ流すぞ)
「ぷるぅ……」
(お前の風呂じゃないからな)
コロは名残惜しそうに体を揺らしたものの、やがて窪みから跳ね出した。
その姿を確かめてから、まずは少量の湯を村側へ流す。
◇ ◇ ◇
黒い岩で作られた窪みへ、白い湯気とともに湯が流れ込んできた。
村人たちは少し離れた場所から、その様子を見守っている。
水は澄んでいる。
わずかに岩の匂いが混じっているものの、鼻を刺すような異臭はなかった。
ヒナノが、慎重に窪みへ近づく。
「気をつけろ」
村長が声を掛けた。
「はい」
ヒナノは縁へ膝をつき、まず指先だけを湯へ触れさせた。
「あつっ」
すぐに手を引く。
火傷するほどではないが、このまま身体を浸けるのは難しい。
ヒナノは、黒い岩の縁を三回叩いた。
こん、こん、こん。
少しすると、流れ込む湯の勢いが弱まる。
代わりに地下から流れ込む冷たい水が増え、窪みの中で二つの水が混ざった。立ち上る湯気も、少しずつ薄くなっていく。
ヒナノは再び手を入れた。
今度は、すぐに引かない。
指先から手首までを沈め、しばらく温度を確かめる。
強張っていた表情が、ゆっくりと和らいだ。
そして、縁を一回叩く。
こん。
◇ ◇ ◇
(一回。これでいいのか)
ヒナノの神器からも、柔らかな安堵が届いてくる。
(やっぱり、火山の感覚だけで温泉を作るのは危ないな)
「記録いたしました。今後は、同じ割合で地下水を混合いたします」
(頼む)
フランが炎文字へ、新しい印を書き加える。
熱水と冷水の割合。
流れ込む量。
排水の速度。
これで次からは、最初から人間が入れる温度に近づけられる。
《熱水路の形成を確認》
《地下水混合経路を確認》
《新規設備:温浴用水場》
(温浴用水場か)
名前は少し堅い。
今はまだ、村人が足を入れられるだけの石の窪みだ。
屋根も、壁もない。
それでも、ここから人間が手を加えれば、もっと使いやすい場所になるだろう。
◇ ◇ ◇
その日は安全を確かめるため、手足を浸すことだけが認められた。
最初に湯へ足を入れたのは、魔物の襲撃で脚へ深い傷を負った男だった。
傷そのものは、すでに塞がっている。
それでも、冷える日や長く歩いた後には、今も脚が痛むという。
男はズボンの裾を膝まで上げ、黒い岩の縁へ腰を下ろした。
湯の中へ、傷跡の残る脚をゆっくりと沈める。
「どうだ?」
村長が尋ねる。
「……温かい」
男の肩から、力が抜けた。
「痛みが消えたわけじゃない。だが、随分と楽になる」
その言葉を聞き、年老いた者たちも順番に湯へ足を入れていく。
最初は恐る恐る。
だが、一度浸かれば、強張っていた顔が少しずつ緩んだ。
ヒナノの母親も湯へ両手を入れ、立ち上る蒸気へ頬を近づける。
「温かいね」
「うん」
ヒナノが隣で笑う。
子どもたちは、湯気へ手を伸ばして遊び始めた。
「ここに屋根を作れば、雨の日も使えるな」
「外から見えないよう、壁も必要だろう」
「湯を流す時間も決めた方がいい」
「身体を洗う場所と、湯へ入る場所は分けた方がよいかもしれん」
村人たちの間で、早くも新しい湯場についての相談が始まっている。
ただ温かい水が湧いただけではない。
そこへ人が集まり、使い方を考え、暮らしに合った形へ変えていく。
山から与えられたものを、そのまま受け取るだけではなく、自分たちの知恵で育てようとしている。
ガンゾウは湯へ両足を浸し、満足そうに鼓を抱えていた。
「うむ。火神祭には、皆で身を清めてから祈りを捧げるとしよう」
「まだ半年先だぞ」
村長が呆れたように答える。
「半年など、祭りの準備をしておれば瞬く間じゃ!」
「温泉の中で鼓を鳴らすなよ」
「何故じゃ?」
「落とすからだ」
「わしは落とさん!」
ガンゾウが胸を張った直後、抱えていた鼓が腕から滑りかける。
慌てて受け止めた老人を見て、周囲から笑いが起こった。
その笑い声は、湯気とともに夕暮れの空へ上っていった。
◇ ◇ ◇
村から届く感情が、聖域を通じて山へ流れ込んでくる。
温かい。
湯の熱とは違う、人の感謝だ。
戦いの傷が消えたわけではない。
失った時間が戻るわけでもない。
それでも、張り詰めていた身体を休め、明日へ進むための力を取り戻せる場所にはなったらしい。
「かしこみかしこみ、申し上げます。災いとなり得た熱を、人々の安らぎへ変えられる御業、しかと記録いたしました」
(湧いた湯を村まで流しただけだぞ)
「その湯が生まれた理由まで含め、人々へ恵みとして返されたことに意味がございます」
(俺としては、放っておくと水が余るからな)
「不要なものすら、民の暮らしを支える宝へ変えられる。まこと、カザン様の御慈悲には限りがございません」
(やっぱり、何を言っても駄目だな、これ)
フランの背後へ、大きな炎の花が咲いた。
その横では、コロが温泉へ戻りたそうに体を揺らしている。
(村人が使い終わってからな)
「ぷる!」
ヴァルは、コロが先に飛び出さないよう、前脚で進路を塞いでいた。
山の中にも。
村にも。
以前にはなかった、温かな場所が増えていく。
(半年後には祭りか)
今でも、話が大きくなっている気はする。
それでも村人たちが、あの夜を忘れず、生き延びたことを祝うというのなら悪くない。
(まあ、好きにすればいいか)
その時だった。
聖域の外縁へ、見慣れない振動が触れた。
(……ん?)
村人の足音ではない。
歩幅も、靴底が地面へ触れる重さも違う。
複数人。
その近くには、何かを引く車輪の振動もある。
長い距離を歩いてきたのか、どの足取りも重い。
特に一つ。
体温が低く、歩調が乱れている人間がいた。
一歩。
もう一歩。
聖域の境界を越えたところで、その足音が途切れる。
代わりに、人一人分の重みが地面へ落ちた。
(……まずい)
誰かが倒れた。
村に初めて温泉が湧いた、その日の夕暮れ。
山の外から、初めての来訪者たちが現れた。
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