22.備える者達
空が白み始めても、森の異変は消えていなかった。
新しく繋がった地脈を通じ、俺は山の外側へ意識を伸ばし続けている。
昨日まで森を駆け回っていた小動物たちは、ほとんどいなくなった。
地面を蹴る軽い足音も、枝から枝へ飛び移る鳥の気配もない。
代わりに、火山領域のぎりぎり外側から、時折重い振動が伝わってくる。
どすん。
しばらく間を置いて、もう一度。
どすん。
(まだいる)
昨日より近づいてはいない。
だが、遠ざかってもいなかった。
森の途中で足を止め、同じ場所に留まっている。
(何をしてるんだ?)
獲物を追ってきただけなら、もっと好き勝手に動くはずだ。
縄張りを奪うつもりなら、森の中で争う音が聞こえてもいい。
だが、今感じている振動には妙なまとまりがある。
散らばっていた足音が、一か所へ集まっていた。
(ヒナノに知らせたいけど……)
俺は信仰感応を通して、村の方角へ意識を伸ばす。
まだ眠っているらしいヒナノの、穏やかな気配が微かに伝わってきた。
(起きろー。森に何かいるぞー)
当然、返事はない。
《神託機能:未解放》
(分かってるよ)
地面を揺らせば、異変を知らせることはできるかもしれない。
だが村人からすれば、火山が突然揺れたようにしか見えないだろう。警告どころか、噴火の前触れだと思われる可能性もある。
熱を送るのも同じだ。
伝えたいことが多い時ほど、言葉を使えないのがもどかしい。
(神様って、もう少し何でもできるものじゃないのか?)
前世で見た物語の神様は、夢に出たり、空から声を響かせたりしていた。
現実の俺は火山から出られないうえに、まともな会話もできない。
(せめて、近づいたらすぐ分かるようにしておくか)
俺は新しい地脈から、細い熱の流れを枝分かれさせた。
地表を熱くするほどではない。
岩の隙間や木々の根を避けながら、村へ続く森の地下へ、細い糸のように熱を伸ばしていく。
一つ。
二つ。
三つ。
足音や振動を拾うための、見えない警戒線だ。
(火山式の防犯センサーってところかな)
これなら、何かが領域へ近づけばすぐに分かる。
どの方角から来るのかも、今までより正確に掴めるはずだ。
「ぷる?」
コロが俺のコアへ近づき、不思議そうに体を傾けた。
(村の方が、ちょっと危ないかもしれないんだ)
「ぷる……」
言葉が分かったのか、いつもより低い声を出す。
(でも、まだ襲ってくると決まったわけじゃない)
そう考えた直後、村の方角から慌ただしい足音が伝わってきた。
一人の男が、見張り台から村の中央へ走っている。
(気づいた人がいたのか)
俺はわずかに安堵した。
どうやら、何も知らないままではないらしい。
◇ ◇ ◇
朝早く。
村の中央にある大きな家へ、夜番を終えた男が駆け込んだ。
「村長!」
呼ばれて姿を現したのは、白髪交じりの短い髪を持つ男だった。
年齢は六十に近い。
だが背筋は真っ直ぐに伸び、厚い肩には、若い頃から村を守ってきた者の名残がある。
騒ぎを聞いて集まった村人たちとは違い、村長は表情を変えなかった。
「何があった」
「昨夜、森の中に赤い光が見えました。二つや三つじゃありません。唸り声も聞こえました」
「光は動いていたか」
「少しだけ。ですが、すぐに一斉に消えました」
「高さは」
「獣の目くらいです。低いものも、高いものもありました」
「声は一方向からか」
「いえ。森の広い範囲から聞こえたように思います」
村長は黙って聞いていた。
男の話を疑っている様子も、すべて鵜呑みにしている様子もない。
「ほかに気づいたことは」
「鳥です。日が暮れても、一羽も森から戻ってきませんでした。それと……」
男が一度、唾を飲み込む。
「風に、焦げ臭い匂いが混じっていました」
周囲の村人たちがざわめいた。
「魔物じゃないのか?」
「群れが近くに来てるんじゃ……」
「今のうちに逃げた方がいいんじゃないか?」
「静かにしろ」
村長の低い声が響いた。
大声ではなかったが、それだけで騒めきが止まる。
「まだ、何かが村へ向かっていると決まったわけではない。だが、見なかったことにもできん」
村長は集まった者たちを見回した。
「猟師を三人出す。森の浅い場所だけを調べろ。深追いはするな。異変を見つけても、確かめようと近づかず、すぐに戻ってこい」
「分かりました」
「それから今日から、子どもだけで森へ入ることを禁じる。薬草採りも狩りも、しばらくは村の近くに限れ」
その言葉を聞いたヒナノが、困ったように眉を下げる。
「山も駄目ですか?」
村長はヒナノへ視線を向けた。
「駄目だ」
「でも、お母さんの薬草が……」
「今ある分を大切に使え。足りなくなれば、村で保管している薬草を回す」
ヒナノはまだ何か言いたそうだったが、村長は厳しい口調で続けた。
「お前が山で何を見たかは聞いている。火山がお前を助けたという話もな」
「本当です」
「嘘だとは言っておらん」
村長は静かに答えた。
「だが、確かめられないものへ村人の命をすべて預けることはできん。たとえ火山様とやらが本当にいるとしても、守られる側が何もしなくてよい理由にはならん」
ヒナノは村長を見つめた。
火山様を信じていないから拒んでいるのではない。
村のみんなを守ろうとしているのだ。
そう理解したヒナノは、素直に頭を下げた。
「……分かりました」
◇ ◇ ◇
昼前。
森へ入っていた猟師たちが戻ってきた。
先頭の男が、険しい顔で村長の前へ膝をつく。
「森に魔物の姿はありませんでした」
その言葉に、何人かの村人が安堵の息を吐いた。
「じゃあ、もうどこかへ行ったのか?」
「見張りの見間違いだったんじゃないか」
「待ってくれ」
猟師の男は、持ち帰ったものを地面へ置いた。
黒く焼け焦げた樹皮だった。
「森の中で見つけました。雷が落ちた跡ではありません。それに、地面には見たことのない足跡がいくつも残っていました」
「いくつも?」
「種類が違います。四つ足のもの。腹を引きずるもの。人より大きなものも混じっていました」
続けて、別の猟師が口を開く。
「鹿も兎も見かけませんでした。巣穴まで空になっています。小さな獣は、森の外へ逃げたようです」
「危険が去ったから、まだ戻ってないだけじゃないのか?」
一人の村人が、期待するように尋ねた。
村長は焼け焦げた樹皮を拾い、表面を指でなぞった。
「危険が去ったのなら、獣は少しずつ戻る」
ざわめいていた者たちが黙る。
「戻らんということは、まだ森の中に何かがいるということだ」
村長は顔を上げた。
「今日、明日に村へ来るとは限らん」
その言葉に、少しだけ空気が緩む。
「だが、数日後も来ないとは誰にも言えん」
再び緊張が走った。
「何も起きなければ、それでいい。備えたことを皆で笑えば済む」
村長は焼けた樹皮を地面へ戻した。
「備えずに起きれば、笑う者はいなくなる」
反対する者はいなかった。
「柵を補修する。見張りは二人一組に増やし、夜番の交代を早めろ。水桶と砂袋を村の各所へ運べ。食料と薬は中央の倉へ集める」
村長から次々に指示が飛ぶ。
「村の入口には鳴子をつけろ。何かあった時は、子どもと年寄りを中央の家へ避難させる。誰がどこを守り、誰が避難を手伝うのかも、今日中に決めるぞ」
止まっていた村が、一斉に動き始めた。
◇ ◇ ◇
壊れかけていた柵には、新しい丸太が打ち込まれた。
隙間には先端を尖らせた杭を並べ、村の入口には縄と鈴を使った鳴子が張られる。
水桶が運ばれ、倉には干し肉や穀物、包帯に使える布が集められていった。
ガンゾウは祭りに使っていた古い鈴を抱え、上機嫌で村の入口へ現れる。
「ほっほっほっ! 飾りつけなら、わしに任せい!」
「祭りじゃないぞ、爺さん」
「似たようなもんじゃ!」
「どこがだよ」
「皆で働き、飯を運び、鈴を吊るす!」
ガンゾウは縄へ鈴を結びつけ、満足そうに鼓を鳴らした。
ぽんっ。
「祭りと同じじゃろう!」
「最後に魔物が来る祭りなんて聞いたことないぞ」
「ならば、来んことを祈ればよい!」
ぽんっ。
「暗い顔で備えても、柵が丈夫になるわけではないからのう!」
村人たちは呆れながらも、少しだけ笑った。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
ガンゾウの言うことは相変わらず妙だったが、こういう時に救われる者もいた。
◇ ◇ ◇
村の端では、一人の少年が木槍を握っていた。
ヒナノと同じくらいの年頃だ。
短く切った亜麻色の髪が汗で額に張りつき、両手には日々の鍛錬でできた硬い豆が並んでいる。
「もう一度!」
レンは地面を蹴り、父親へ木槍を突き出した。
父親は半歩だけ体をずらし、槍の柄でレンの足を払う。
「うわっ!」
レンは土の上へ転がった。
「踏み込みが大きすぎる。相手しか見えていないから、足元を狙われる」
「もう一回だ!」
「立つ前に、何が悪かったか考えろ」
厳しい言葉だった。
それでもレンは唇を噛み、すぐに起き上がる。
「俺も夜の見張りに立つ」
「駄目だ」
「どうしてだよ。森に何かいるんだろ?」
「だからだ」
父親は木槍を下ろした。
「お前はまだ、怖くなった時に周りを見る余裕がない」
「逃げない!」
「逃げないことと、戦えることは違う」
レンは悔しそうに拳を握った。
「でも、ヒナノがまた山へ行ったら……」
「私の話?」
背後から声がして、レンは勢いよく振り返った。
薬草と布を抱えたヒナノが立っている。
「山へ行くつもりなのか?」
「今日は行かないよ。村長さんにも止められたから」
「今日だけじゃない。森が安全になるまで行くな」
「分かってるよ。でも、お母さんの薬が足りなくなったら――」
「それでも一人では行くな」
レンの声が大きくなった。
ヒナノが目を丸くする。
レンは言いすぎたと思ったのか、わずかに視線を逸らした。
「……火山様がお前を助けたって話は聞いた。でも、次も必ず間に合うとは限らないだろ」
「火山様は、きっと守ってくれるよ」
「守ってもらえるからって、危ない場所へ行っていいわけじゃない」
レンは木槍を強く握った。
「ヒナノに何かあったら、俺は嫌なんだ」
真っ直ぐな言葉だった。
ただし、その体は泥だらけで、つい先ほど父親に転ばされたばかりである。
ヒナノは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、レン」
「笑うなよ!」
「笑ってないよ」
「笑ってるだろ!」
二人のやり取りを見ていた父親が、小さく息を吐いた。
「守ると言うだけなら、子どもでもできる」
レンが口を閉じる。
「本当に誰かを守りたいなら、勝手に飛び出すな。周りを見ろ。命令を聞け。一人で敵へ突っ込む者は、守るどころか仲間まで危険に晒す」
レンは木槍を見つめた。
しばらくして、小さく頷く。
「……分かった」
「なら、今日は水桶を運べ。終わったら、もう一度鍛錬だ」
「分かった!」
レンはすぐに走り出した。
その背中を、ヒナノが見送る。
「レン、頑張ってるね」
「お前を守るためだそうだ」
「えへへ」
ヒナノは少し照れくさそうに笑った。
◇ ◇ ◇
村人たちが備えを始めたことは、俺にも伝わっていた。
地面へ杭を打ち込む振動。
重い水桶を運ぶ足音。
森の入口を、何人もの人間が行き来している。
(あの村、ちゃんと自分たちで動いてるんだな)
何も知らずに過ごしているわけではない。
俺が知らせられなくても、森の異変を見て、考え、備え始めている。
(村長って人が指示してるのか? 結構、頭が切れそうだな)
全員を火山の力だけで守れるとは限らない。
むしろ村人たちが自分で動いてくれるなら、その方がずっと心強い。
(こっちも負けてられないな)
俺は森の地下へ伸ばした警戒線を、さらに細かく枝分かれさせた。
村へ通じる道。
獣が通りやすい斜面。
木々の少ない谷間。
何かが近づきそうな場所へ、順番に感覚を繋げていく。
作業は細かい。
だが一つ増やすたび、森を伝わる振動が少しずつ鮮明になった。
(これで、奇襲だけはさせない)
俺が直接力を振るえるのは、基本的に火山領域の中だけだ。
それでも早く気づければ、できることは増える。
蒸気を噴き出す。
熱で進路を変える。
地面を隆起させ、群れを分断する。
村へ辿り着く前に、少しでも数を減らせるかもしれない。
「ぷる!」
コロもやる気らしい。
新しい横穴の前で、何度も高く跳ねている。
(お前は、いざとなったら俺の近くにいろよ)
「ぷるる!」
(絶対、前に出るつもりだろ)
返事だけは、いつも通り元気だった。
◇ ◇ ◇
夕方。
ヒナノは村の中から、遠くに見える火山へ向かって両手を合わせた。
「火山様」
今日は山へ行けなかった。
いつもの道を歩き、薬草を採り、石さんやコロに挨拶することもできなかった。
「しばらく、そちらへ行けないみたいです」
少し寂しそうな声だった。
それでも、すぐにいつもの笑顔へ戻る。
「でも、毎日ちゃんとお祈りします」
ヒナノは深く頭を下げた。
「火山様も、気をつけてくださいね」
(いや、気をつけるのはそっちだから!)
思わず心の中で叫ぶ。
神様を心配する巫女候補なんて、ヒナノくらいではないだろうか。
胸の奥へ、温かな力が流れ込んでくる。
《信仰値:増加》
《継続祈願を確認》
《巫女契約条件:3/7》
(進んだ)
ヒナノが山へ来られなくても、祈りは途切れていない。
そのことが少し嬉しかった。
(でも今は、手放しで喜んでる場合じゃないか)
俺は地脈を通じ、森の奥へ意識を戻した。
◇ ◇ ◇
その夜。
補修された柵の内側には、松明が等間隔に並べられていた。
見張り台には二人の男が立ち、村の入口には鳴子が吊るされている。
村人たちは早めに家へ戻り、子どもたちも外へ出ていない。
だが、夜が深くなっても何も起こらなかった。
森は静かなままだ。
「やっぱり、考えすぎだったんじゃないか?」
見張りの一人が小さく呟く。
「そうなら、その方がいい」
隣に立つ男は、森から目を逸らさなかった。
「村長も言っていただろ。何もなければ、笑えば済む」
風が止まる。
鳴子は鳴らない。
魔物の姿もない。
一見すれば、穏やかな夜だった。
だが、地中の振動を探っていた俺には分かっていた。
森の奥で、足音が増え続けている。
軽い四足。
地面を擦るような音。
二本の足で歩くもの。
岩を落としたような、重い足取り。
種類の違う何かが、次々と同じ場所へ集まっていた。
(おかしい)
本来なら、縄張りの違う魔物同士が近づけば争うはずだ。
だが、戦っている気配がない。
互いを避けることすらせず、一つの群れとして動いている。
(ただ集まってるんじゃない)
ざざざざっ。
新たな足音が加わる。
その瞬間。
森の中心から、低く重い振動が一度だけ響いた。
どん。
地鳴りに似ていたが、地面が動いたわけではない。
何かが足を踏み鳴らした。
あるいは、声を発した。
それまで動いていた無数の足音が、一斉に止まる。
(……号令?)
群れの中央に、一つだけ動かない重い気配があった。
周囲へ魔物が集まっても、その場から一歩も動いていない。
まるで、集まってくる魔物たちを見渡しているように。
《周辺生態異常:拡大》
《複数の魔物反応が一帯へ集結中》
(誰かが集めてるのか?)
村の入口で、風もないのに鳴子が一度だけ揺れた。
からん。
まだ、魔物たちは襲ってこない。
来ないのではない。
来るための準備をしている。
森の奥で、ばらばらだった魔物の群れが、一つの軍勢へ変わろうとしていた。
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