16.一時の平和と夢見る少女
朝だった。
昨夜の激戦が嘘のように、山には静かな時間が流れていた。
洞窟の奥ではマグマがゆっくりと赤い光を揺らしている。崩れた岩盤も、溶け落ちた壁も、戦いの跡をまだ残していた。けれど地脈から流れ込む熱が、少しずつ傷を塞ぐように岩肌を新しく固めている。
(……平和だ)
しみじみと思う。
昨日まで盗賊団が命懸けで攻めてきていたとは思えない。平和が一番だ。本当に。
「ぷる!」
コロが元気よく跳ねた。
ぴょん。ころん。ぴょん。
(お前は今日も元気だな)
昨日、瀕死だったとは思えない回復力だった。コロは俺の前で得意げにぷるぷるしている。
「ぷるる!」
(うん、かわいい)
かわいいは正義である。火山になっても、この真理だけは変わらないらしい。
コロはそのまま近くの赤い鉱石に飛びついた。
むしゃ。
(いーっぱい食べなー)
相変わらず食べるらしい。
赤い鉱石の欠片が、コロの半透明な体の中でふわりと溶ける。すると体の中心にある小さな炎が、ほんの少しだけ大きくなった。
(……成長してる?)
「ぷる!」
コロがどこかわからない胸を張るように震えた。
(きゅんです)
よく分からない。だが悪くはなさそうだ。
問題は別にある。
俺の視界の端には、昨夜からずっと表示が残っていた。
《守護眷属生成条件を解放》
《条件:火竜核の形成》
(で、火竜核ってなんだよ)
火竜。ドラゴン。どう考えてもロマンの塊だ。
ドラゴンというのは何においてもだいたい強い。問題は、その作り方がまったく分からないことだった。
(核ってことは、中心になる何かだよな)
地脈の熱。赤い鉱石。マグマの流れ。眷属の炎。
それらを集めればいいのか。それとも、まったく別の条件があるのか。
(説明不足にもほどがあるだろ、このシステム)
せめて初心者用の説明を出してほしい。火山に転生した時点で、だいぶ上級者向けなんだから。
(わかったぞ!)
(システム!火竜核の作成条件を開示してくれぃ!)
(………なーんにもおこらないかー)
「ぷる!」
コロがぴょんぴょん跳ねる。まるで何かを訴えているようにも見えた。
(お前、知ってるのか?)
「ぷる!」
(分からん)
でもかわいい。
そんな平和な時間は、突然終わった。
《生命反応:一》
(……え?)
一瞬、思考が止まる。
(また!?)
昨夜の光景が脳裏をよぎった。盗賊団。ガレス。
俺の山を奪おうとした人間たち。
(いや待て。落ち着け)
表示を見る。
一。
(……一人?)
俺は意識を山の外へ広げた。
森の中。木々の間を、こちらへ向かって歩いてくる人影がある。
小柄で細い。武器は持っていない。手にしているのは、薬草を入れるような小さな籠だけだった。
(女の子……?)
白い服。長い黒髪。まだ若い。
少女だった。
◇ ◇ ◇
少女は山道を歩いていた。
息は荒い。足は何度も止まりかける。それでも、引き返すことだけはできなかった。
手には古びた籠。中には村の外れで摘んだ薬草が少しだけ入っている。けれど、それでは足りない。
母の熱を下げるには、この山の中腹にしか生えない赤葉草が必要だった。
(もう少し見つけないと)
少女は唇を引き結ぶ。
怖くないわけではない。この山は村人たちが恐れる山だ。
近づけば熱に焼かれる。奥には魔物がいる。夜には赤い光が山肌を走る。大人たちはそう言って、決して近づこうとしなかった。
それでも少女は足を止めなかった。
母を助けたい。
それだけだった。
けれど昨夜から、胸の奥に妙な感覚が残っている。
夢を見た。
赤い空。紅蓮の炎。深く静かな鼓動。そして、巨大な火山。
夢の中で山は燃えていた。けれど不思議と恐ろしくはなかった。
少女は山を見上げる。
黒い山肌。朝の光を受けて、赤く光る岩の筋。村から見れば不吉な山。だけど今は。
(……変)
胸がざわつく。
まるで。
(山が、こっちを見てる?)
そんなはずはない。山は山だ。人のように見るわけがない。
がさっ。
茂みが揺れた。
少女が振り向く。
木陰から現れたのは、赤い目をした狼型の魔物だった。黒い毛並み。低い唸り声。口元からこぼれる白い息。
「……っ」
少女の喉が引きつる。
逃げなければいけない。分かっている。けれど、体が言うことを聞かなかった。
魔狼が低く身を沈める。
飛びかかる。
その一瞬前。
(まずい!)
俺は反射的に地脈の熱を引き上げた。
ただし強すぎてはいけない。少女を焼いたら本末転倒だ。
地面の下を走る熱を、魔狼の足元だけに集める。空気を震わせ、岩の隙間から一気に吹き上げる。
ごうっ!!
「ギャウッ!?」
猛烈な熱風が魔狼の足元で爆ぜた。
魔狼の体が宙に浮き、斜面を転がる。焦げた匂いが一瞬だけ漂ったが、炎は広がらない。
魔狼は悲鳴を上げると、尻尾を巻いて森の奥へ逃げていった。
(よしよし。けっこういい感じに加減できたな、追い払い成功)
昨夜の戦闘が糧になり成長しているのを感じる。
少女はその場に立ち尽くしていた。風が白い服の裾を揺らし、長い黒髪が頬に張りついている。
震えている。
けれど、逃げなかった。泣きもしなかった。
少女はゆっくりと山を見上げた。
俺は思わず身構える。
(……怖がるよな)
当然だ。突然地面から熱風が吹き上がったのだ。
普通なら逃げる。戸惑い、理解ができないだろう。化け物の仕業だと思う。
昨日の盗賊たちのように。
けれど少女の目に浮かんでいたのは、恐怖だけではなかった。
驚き。困惑。そして、祈るような期待。
少女は両手で籠を抱きしめた。それから小さな声で言った。
「……あなたが」
声が震えている。けれど、それは逃げるための震えではなかった。
「助けてくれたんですか?」
(えっ)
俺は固まった。
(バレた!?)
そんなわけがない。たぶん確信はない。でも、この子は感じている。
山の奥に、何かがいることを。
俺がここにいることを。
少女はしばらく山を見つめていた。そして、静かに膝をつく。
深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声に恐怖はなかった。
あったのは、まっすぐな感謝だけだった。
俺は言葉を失う。
(……なんだ、この子)
盗賊たちは俺を恐れた。奪おうとした。壊そうとした。
それは当然だと思っていた。
俺は火山だ。普通は噴火し、焼き、飲み込むものだ。人間から見れば、恐ろしい存在でしかない。
けれど、この少女は違った。
初めてだった。
人間に感謝されたのは。
恐れられるのではなく。
怯えられるのでもなく。
まっすぐ、頭を下げられた。
「母を助けたいんです」
少女は山に向かって、ぽつりと言った。
「赤葉草を探しに来ました」
(……母親の病気か)
俺は山の中へ意識を広げる。
赤葉草。
名前は知らない。だが山肌の中腹に、赤い葉をつけた草が群生している場所はあった。
熱い岩の隙間。普通の人間なら近づきにくい場所だ。
(あそこか)
行かせるのは危険だ。でも助けたい。
せっかく初めて感謝してくれた人間だ。いや、それ以前に。
母親を助けたい子どもを、見捨てるのは寝覚めが悪い。
(いまのところ睡眠とかいらなそうなんだけどね)
俺は地脈を細く動かした。
少女の少し先で、山道の石がひとつ赤く光る。次に、その奥の石が光る。
まるで道しるべのように。
少女が息を呑んだ。
「……こっち?」
(そうそう。そっち。本当は知らない火山に案内されてもついて行っちゃダメだよー)
声は届かない。
けれど少女は俺の示した光を見て、そっと立ち上がった。その瞳に、ほんの少しだけ涙が浮かんでいる。
「ありがとうございます」
もう一度、少女は頭を下げた。
その瞬間。
俺の中のマグマが、かすかに震えた。
熱ではない。
力でもない。
もっと別の何か。
山の奥深くに、小さな火種が灯るような感覚だった。
洞窟の中で、コロがぴょんと跳ねる。
「ぷる……?」
(今の、なんだ?)
視界の端に、静かに文字が浮かんだ。
《信仰を獲得》
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