第2話 汚れた聖域
ミキサー席のデジタル時計が刻む赤い数字が、網膜に焼き付く。
特大放送の開始から二十二分。
予定の終了時刻まで、あと十分ある。
ガラスの向こう側で、放送部の看板娘、佐倉遥はもう、座っていることすらままならないようだった。
膝を固く閉じ、上体を不自然なほど前傾させて、原稿を、手に血管が浮き出る程力を入れて握りしめている。
(……三十分くらい、普通に耐えられると思ってたんだ)
律は、自分の浅はかさを呪った。
自分の感覚なら、少しばかり尿意を催したところで、集中していれば三十分など造作もない。
だが、遥は違う。彼女は今日、律が手渡した大容量のカフェラテを本番前に飲み干している。
女子の身体構造、冷えやすい放送室、トイレに行くタイミングで始まった顧問の長話、そして何より『一秒も失敗が許されない生放送』という極限のストレス。
それらが膀胱にかかる圧力を、何倍にも増幅させていることに、律は考えが至っていなかった。
「……続いての、ニュース、です。……っ」
遥の声が、ついに上ずった。
鈴を転がすようだった美声は、今や、震えだしそうなほどに細い。
文章の合間、彼女がマイクから顔を逸らさずに、必死に呼気を整える音がスピーカーから漏れる。それは、溺れかけている人間が、水面で必死に空気を求めているような、悲痛な喘ぎだった。
(……もう流石に限界だ……!)
律の指が、フェーダーにかかる。
今、これを下げてBGMを流せば、彼女をこの地獄から連れ出せる。機材トラブルということにすれば、彼女のプライドも守れる。
……そう、分かっていたはずだった。
律の心臓が、不意に別のリズムを刻み始めた。
いつも自分を小馬鹿にし、天真爛漫に振る舞うこの完璧な女子が。
自分達しかいないこの密室で、生理現象に負け、耐えきれずにすべてを漏らし、崩壊してしまうのではないか。
そんな、あってはならない『最悪の結末』を想像した瞬間、律の喉の奥が熱く焼けた。
彼女の凛とした声が濁り、尊厳が足元から崩れ去る。その瞬間を、自分だけが目撃する。
背徳的な想像が、律の思考を麻痺させた。
助けなければならない。そう思う理性とは裏腹に、期待とも恐怖ともつかない得体の知れない衝動が、律の腕を硬直させる。
自分が彼女の命運を握っているかと思うと、鼓動が早くなり、息が止まりそうになる。
ガラスの向こう、遥の瞳が、ついに限界を認めるように律を凝視した。
大きく見開かれたその瞳からは、一筋の涙が溢れ、頬を伝っている。
彼女の唇が、音もなく動いた。
『――た、すけて』
その瞬間、律が我に返り、指に力を込めた。
……しかし……遅すぎた。
放送室の静寂を、微かな、だが決定的な『音』が支配した。
……じゅぃぃぃぃぃぃぃ…
コンデンサーマイクは、皮肉なほどに高性能だった。
続いて彼女の喉から漏れた「っ、ぁ……」という、絶望に満ちた吐息。
そして、布張りの椅子が水分を吸い込み、重く沈む際に生じた、湿った摩擦音。
「――っ!」
律は弾かれたように、フェーダーを叩きつけるように下げる。同時に、予備のクラシックCDの再生ボタンを、壊れんばかりの勢いで押し込んだ。
「……っ、う……っ…ひぐっ…ぅぅ…」
遥が、原稿を放り出して、顔を覆った。
彼女の啜り泣きと、くぐもった水音が、残酷なほど鮮明に響き渡る。
スピーカーを通して全校に流れていく、間一髪のところで間に合った。
「……現在、機材トラブルが発生しております。放送を一時中断します」
律は、あえて震えを殺した無機質な声をマイクに乗せ、それからすべてのスイッチを切った。
静寂が、戻ってきた。
重く、湿り気を帯びた、濃密な空気。
律は防音扉を開け、彼女の座るブースへと足を踏み入れた。
そこには、椅子に崩れ落ちたまま、両手で顔を覆って号泣している遥がいた。
「……佐倉」
彼女が座っているグレーの布張り椅子には、隠しようのないほど大きな、濃い色の染みが広がっていた。そこから床へと、ポタポタと、黄色がかった滴が、静かに伝い落ち続けていた。
「……ごめん。……ごめん、佐倉」
律は、震える手で自分の学ランを脱いだ。
そして、泣きじゃくる彼女の肩から、それをそっと被せる。
「俺のせいだ。……全部、俺がやりすぎたんだ。本当に、ごめん」
遥は、律の学ランの袖をぎゅっと掴んだ。その手は氷のように冷たく、ひどく震えている。
「……律」
掠れた声で、彼女が俺の名を呼んだ。
顔を上げた彼女の瞳には、怒りも、恨みもなかった。
ただ、深い、深い絶望と――そして、蜘蛛の糸に縋るような、歪な色があった。
「一生……誰にも言わないって。この部屋で、何が起きたか……私がどうなったか、一生、秘密にするって……約束して」
彼女は、濡れた声で囁いた。
彼女の指が、律の手首に食い込む。
その痛みは、永遠に解けない鎖のようだった。
「……ああ。約束する。……ごめん……」
律は、彼女の腰回りを隠すように上着を整え、そのまま彼女を抱きしめた。
彼女の体温と、それ以上に熱い、独特の湿った感覚が、律の制服を通して伝わってくる。
放送室という名の聖域で、共犯関係を結んだ。
全校生徒がクラシック音楽に耳を傾けているその裏側で、二人の嗜好は、取り返しのつかない方向へと大きく捻じ曲げられていったのだ。




