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第1話 些細な悪意

放課後の放送室は、世界から切り離された潜水艦のようだった。


厚さ十センチを超える防音扉が重たい音を立てて閉まると、廊下の喧騒は嘘のように遮断される。

そこに残るのは、空調の微かなハミングと、機材から発せられる無機質な熱気だけだ。



「ねえりつ。またそんな難しい顔して。ミキサーのツマミと心中でもするつもり?」

マイクの前で、佐倉遥さくら・はるかがいつものように悪戯っぽく笑った。


彼女は放送部の『看板』だ。透明感のある声と、全校生徒を惹きつける華がある。

俺――機材担当の律に対しては、遠慮のない言葉を投げかけてくるが、それは彼女なりの信頼の裏返しだということも、薄々とは気づいていた。


「……機材チェックしてるだけだ。おい、勝手に触るなよ、設定が変わる」

「はいはい。律は相変わらず真面目すぎ。少しは私のトークに聞き惚れる余裕、持ったらどう? ほら、これ、読み合わせ用の資料」


遥が差し出したのは、今日の特別番組の進行表。


いつもなら、本番十分前には打ち合わせを終え、彼女は「ちょっと集中してくる」と席を立つ。

それが彼女のルーティン――トイレに行き、身だしなみを整え、喉を潤して本番に備える儀式だ。


だが、今日は違った。

「あ、佐倉さん。ちょっといいかな。さっきの原稿、一部差し替えになったから、今すぐ確認してほしいんだ」

入ってきたのは、顧問だった。


(……チャンスだ)


俺の胸の内で、小さな、黒い火が灯った。

いつも自分勝手に俺を振り回し、「律なら大丈夫でしょ」と無茶振りを押し付けてくる遥。

そんな彼女が、少しだけ困った顔をするのが見たいと思ってしまった。


顧問の長話が始まった。遥は時計をチラチラと気にし、俺の方へ、『早く止めろ』と助けを求める視線を送る。


『……先生、そろそろ放送開始の準備が』

俺がそう一言添えれば、顧問は話を切り上げただろう。だが、俺はわざと口を噤んだ。

どころか、話の腰を折らないように、新しい機材の資料を広げて顧問に質問を投げかけた。


「あ、律くん、それね……」

顧問の熱弁に拍車がかかる。


遥の顔から、余裕が消えていった。彼女は膝を落ち着かなげに揺らし、手に持ったハンカチを何度も握りりなおしている。


結局、話が終わり顧問が部屋を出たのは、本番二分前だった。



「――っ、もう! 律、なんで止めなかったのよ!」

遥が真っ青な顔で立ち上がる。

だが、廊下を走ってトイレに行って戻ってくるには、もう一秒の猶予も残されていない。



「ごめん。機材のことで頭がいっぱいで。……行かなくていいのか? あと九十秒だぞ」

「い、行けるわけないじゃん……! 律のバカ、もう知らない!」



彼女はマイクの前に滑り込み、荒い呼吸を整えながら、手元の原稿をめくった。

今日の放送は、近隣校との合同イベントを紹介する特大ボリュームの生放送だ。いつもなら十分で終わるコーナーが、今日は三十分以上も続く。


オンエアを告げる赤いランプ――「ON AIR」のサインが、情け容赦なく点灯した。


「――皆さま、こんにちは。本日も始まりました、放課後の『ブルー・アワー』。ナビゲーターは私、佐倉遥がお送りします」


本番に向けて研ぎ澄まされる集中力。艶と張りのある、心地よい抑揚の聞いた声。完璧だった。

さっきまでの焦りも、不安も微塵も感じさせない。


スピーカーから流れる彼女の声は、初夏の風のように爽やかで、聴く者の心を洗う。

だが、俺は知っている。彼女が今、無理やり肺を膨らませ、声を絞り出していることを。




放送開始から十五分。

原稿を読み上げる彼女の指先が、わずかに震え始めた。


今日の彼女は、昼休みに俺が「これ、美味しいらしいよ」と勧めた限定品の巨大なカフェラテを、完飲していた。

高性能のマイクは、彼女の『声』だけではなく、その背後にある『異変』を拾い始めていた。


文章の区切りではない場所で入る、短い、強張った呼吸。

椅子の上で、微かに姿勢を変える時に生じる、衣服が擦れる音。

そして、ガラスの向こう側で、彼女の膝が小刻みに、しかし激しく震え始めている。



(……少し、やりすぎたか)



俺の背筋に、冷たいものが走った。

最初は、ほんの少しのいたずらのつもりだった。彼女が途中で『律、ごめん、もう無理!』と泣きついて、俺が『しょうがないな』とBGMに切り替えて助けてやる。

そんな、ちょっとした貸しを作るつもりだった。



だが、今の遥の瞳には、そんな甘えは微塵もなかった。

そこにあるのは、純粋な、剥き出しの『恐怖』だ。

一度でも声を乱せば、全てが崩れ去る。その絶望の縁で、彼女は死に物狂いで踏み止まっている。



俺は、フェーダーを握る手に力を込めた。

ここで止めてやれば、彼女は救われる。だが、生放送中に何の理由もなく音を絞れば、彼女がこれまで築き上げた評価と信頼に傷がつく。


『カフを下げて……』

『BGMを流して……』

『お願いだから……助けて……』


聞こえるはずのない声が、脳に響く。

彼女の瞳が、涙で潤み、無言で俺を凝視する。


不意に、マイクが「っ…………」という、押し殺した小さな、甘い悲鳴のような音を拾った。

それは、彼女の理性という堤防が、決定的な亀裂を上げた音だった……

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