第3話 不潔で愛おしい鎖
放送部による放課後の生放送『ブルー・アワー』。
佐倉遥による特大号の生放送は、律の最後の良心が流したクラシックとともに、表向きは『機材が復旧せず後日に振り替え』として幕を閉じることになった。
後始末はやっておくから、と彼女に伝え、廊下に人の気配が無いことを確認して裏口から逃がす。
重い防音扉が閉まり、放送室は完全な静寂に包まれた。一人残された律は、ミキサー席からゆっくりと立ち上がる。
視線の先には、隠しようのないほど大きく、濃い色の染みが広がった、グレーの布張り椅子があった。
律は、吸い寄せられるようにその椅子へと近づいた。
一歩踏み込むたびに、鼻をつく、ツンとした熱を帯びた匂いが強くなる。
彼女の体内から放出されたばかりの、決して他人には見られたくない、生々しい、生理現象の匂いだ。
誰もいないのはわかりきっているのに、左右、後方と、誰もいないことを確認する。
大きく深呼吸をして、律は、椅子の前に膝をついた。
(……佐倉)
震える手を伸ばし、その染みへと触れる。指先が、ぐっしょりと濡れた布地の感触を捉えた。
まだ、少し温かい。
彼女の体温が、その水分を通して、律の指先へと直接伝わってくる。
そのまま手のひら全体をひたしていく……
律は、その濡れた手を自分の鼻先へと近づけた。深く、深く息を吸い込む。
未だ経験したことのない『彼女』の匂いだ。
いつも自分を小馬鹿にする、あの凛とした彼女が、極限の緊張と恥辱の中で吐き出した、不潔で、しかし狂おしいほどに甘い、敗北の匂い。
律の喉が、ゴク、と鳴る。心臓が、破裂しそうなほどに早く脈打つ。
座面の中央に、ゆっくりと顔を近づけ――
(……っ、ああ…………)
その瞬間、律は自分がやったことの重さと、それに対する異常な興奮に身震いした。自分は、彼女を壊した。そして、その壊れた破片を、今、この手で、五感ですべて貪り食っている。
この瞬間、律は単なる『加害者』ではなくなった。彼女の醜態を愛し、その汚点に依存する、底なしの泥沼に深く嵌ってしまったのだ。
「……コーヒー、こぼしちゃったんです。機材の調整中に、手が滑って」
翌朝、律は職員室で顧問に頭を下げた。
嘘をつくのは、意外なほど簡単だった。
律は、自身のハンカチを座面に当て、遥の証を吸わせると、備品のビニール袋に入れてズボンのポケットにねじこんだ。
その後、備品のインスタントコーヒーをあえてドロドロの濃さで作ると、残った温もりに後ろ髪を引かれる思いで、痕跡を塗りつぶすように椅子にぶちまけた。
ジュウー、と熱い液体が布を吸い込む。鼻をつく安っぽいコーヒーの香りが、元の匂いを覆い隠す。だが、律は知っている。このコーヒーの匂いの下には、一生、彼女のあの匂いが、そして自分の手に残るあの熱が、眠り続けていることを。
――それから、放送室の空気は変わった。
遥は、以前にも増して『看板アナ』としての精度を上げていた。
律だけは分かっている。
彼女が時折、本番前になってもわざとトイレに行かず、冷たい水を喉に流し込みながら、マイクの前に座る姿を見かけるようになったことを。
あの日、全校生徒に届くマイクの前で、絶望の淵に立たされたあの快感。尊厳が崩壊する寸前の、あの異常なまでの集中力。彼女は、律が与えたあの地獄を、自分を輝かせるための『燃料』に変えてしまったのだ。
「――皆さま、こんにちは。本日も始まりました、放課後の『ブルー・アワー』。ナビゲーターは私、佐倉遥がお送りします」
いつもと変わらぬ、いや、いつもよりも完璧な美声。
だが、律だけは、彼女の呼吸がわずかに震え、膝を固く閉じ、限界を競うように原稿をめくる速度が速まるのを、熱っぽい視線で追っていた。
放送中、彼女と目が合う。遥の瞳は潤み、頬は上気し、あの日と同じ『助けて』という悲鳴のような光を放っている。律はその光景を独占しながら、わざとゆっくりとフェーダーを動かす。
彼女が崩壊するか、放送が先に終わるか。全校生徒を巻き込んだ、ギャンブルに興じていた。
「……以上、本日の放送を終了します。お相手は、佐倉遥でした」
放送終了のランプが消えた瞬間、遥は弾かれたように席を立った。一言も発さず、掠れた吐息だけを残して、彼女は放送室を飛び出していく。
数分後。廊下を戻ってくる、軽い足音が聞こえた。
扉が開き、少し乱れた髪のまま、遥が律の横を通り過ぎようとする。彼女からは、石鹸の香りと、そして微かに、あの放課後と同じ、ツンと鼻を突く熱い匂いが漂ったような錯覚を覚えた。
律の喉が、ゴク、と鳴る。すれ違いざま、遥が律の耳元に顔を寄せた。
「……ねえ、律。今日はね、ちょっとだけ、間に合わなかった」
彼女の声は、悪戯が成功した子供のように弾んでいた。遥はスカートの裾を指先で少しだけつまみ、軽く持ちあげると、挑発するように律を見る。
「……見たい?」
律の心臓が、耳元でうるさく跳ねた。視線を落としそうになる彼を、遥は楽しそうに、そして残酷に突き放すように笑った。
「ダメ。……これは、私だけの秘密」
彼女はそのまま、軽やかな足取りで部室を出て行った。
(……)
一人残された放送室。
律は、コーヒーの染みが残る布張りの椅子を見つめると、ポケットからビニールに包まれたハンカチを取りだす。
『彼女』をたっぷりと蓄えていた布は、何度も出し入れをするうちに、すっかり乾き、全体が薄茶色に染まっていた。
「これは、俺だけの秘密……」
あの日と同じように、鼻先を近づけ、深く息を吸い込む……
乾いて尖りが無くなり、甘さと芳醇さが増した強い臭いが脳を貫く。
二人を繋ぐのは、愛なんて綺麗な言葉じゃない。
あの日、律の「魔」が差し、彼女が決壊した瞬間に始まった、終わりのない、歪んだ放課後。
律は、彼女の奏でた『音』と『匂い』の残滓を、一生、手放せないことを確信していた。




