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遠征3

ワイバーンが、あらかた地上に落ちたころ。


残った二匹が、旋回をやめた。潮が引くように高度を上げ、北の空へ向かって遠ざかりはじめる。



「——追うぞ」


セラフィンクロアは鋭い瞳のまますでに馬首を返している。


「待て」


ジルヴェスターが手綱を引いた。剣の血も拭っていない。


「怪我人が出ている。後方は岩の下敷きだ。いま隊列を割って追うのは危険が大きい。……逃げるなら、行かせておけばいい」


「駄目だ」


セラフィンは短く言い、それから、初めてこちらを振り返った。


「理由は後で話す。……いまは、指示に従ってもらおう」


言うなり、彼自身が真っ先に馬を出していた。


ジルヴェスターは眉を顰める。灰色の目に、隠しもしない苛立ちが浮かぶ。それでも彼は舌打ちひとつせず、剣を握り直した。


「——騎馬、三十。ついてこい。ルーク、来い」


数十騎が土煙を上げて隊列を離れ、北へ駆けた。先を行くセラフィンと聖騎士たちに、みるみる追いついていく。空の二匹は羽ばたきを速め、小さくなっていく。


「ルーク!」


「はいはい、承知してます」


馬上のルークが片手を掲げた。前方の空——ワイバーンの進路の先に、大きな光の膜が立ち上がる。行く手を塞ぐ壁だった。


二匹は、その膜にぶつかりかけて、急旋回した。


そして、片方が向きを変えた。


進路を塞がれた獣は、逃げるのをやめて、地上の追手へ——真下へ、翼を畳んで突っ込んできた。爪と、牙と、風を裂く音が、みるみる大きくなる。


ジルヴェスターは、避けなかった。


馬を止め、鐙を踏んで立ち上がり、下から上へ、剣を振り抜く。三日月の光が飛び、急降下してくる獣の首を、正面から断った。首を失った巨体が勢いのまま脇を通り過ぎ、地面を長く抉って止まる。


もう一匹は、その隙に高度を上げようとした。


そこへ、セラフィンは短剣を腰から取るとまっすぐワイバーンに向かって投げる。それはワイバーンの首深くに刺さり体勢を崩す。

そこに聖騎士らからの弓が立て続けに刺さり、ワイバーンは崩れ落ちた。



土煙が晴れる。


聖騎士のひとりが馬を降り、倒れた獣に近づいた。掌をかざす。青白い光が体表を這うように広がっていき——しばらくして、彼は首を振る。


「魔術は、浮かびません。……ただの、野生の群れのようです」


セラフィンは無表情のまま、首に刺さった短剣を抜き取り、刀の血を布で拭った。


「クロア卿」


ジルヴェスターの声が、それを止めた。


剣を収めてず、血を払っただけの刃を下げたまま、彼はまっすぐにセラフィンを見ている。


「理由を説明してもらおう」


セラフィンは、答えなかった。


血を拭った布を後ろに控えた聖騎士に渡すと、短刀を鞘に納め、それからようやく顔を上げる。



ジルヴェスターも、剣をようやく鞘に納めた。納めながら、視線は外さなかった。


「私は自分の兵を、理由の分からない命令で死なせない。話せないと言うなら、この先の指揮は、こちらで判断する」


風が、乾いた土を鳴らして通り過ぎた。


聖騎士たちが、じっとセラフィンを見ている。


聖騎士の一人が口を開ける。

「団長。魔人、魔獣のことは内密にと教皇より…」


「誰が意見を求めた」


セラフィンの低い声は、背筋が凍るほど冷たい。


セラフィンは小さくため息をつくと口を開く。

「……魔人は、魔獣を操る術を持っている」


低い声だった。


「低い獣なら、縛りつけて、使い捨てるだけだ。だが高位の魔獣は違う。ワイバーンのような獣は、見たことをそれを魔人に伝えることができる。八百年前、魔人が敵の居場所を常に把握していたのは、そのためだと記録にある。」


「……なるほど」


「一匹でも戻れば、この軍の位置が知られる。この行軍の意味が、それで消える」


ジルヴェスターは、考えるように口に手を当てる。


「……もうひとつ、言っておく」


セラフィンが馬にひらりと乗りながら続けた。


「我々の見立てでは、いまの魔人は、高位の魔獣を操りきれていない」


「操りきれていない?」


「アルダーンやリアンツァに向けて放たれたのは、どれも低位の獣ばかりだ。……本当に力があるなら、あんな手間はいらない。ワイバーンら高位魔獣に命じれば済む話だ。それが、できていない」


「なぜだ。だいたいなぜ魔人が復活した。」


セラフィンは仮面をつけたように無表情のまま、口を開く。


「なぜ操りきれないのか。……それについては、我々も答えを持っていない」



セラフィンは、初めてわずかに声を強めた。


「これ以上は、話せることがない」


それだけ言うと、彼は馬首を返した。


「隊列に戻る。日没まで、あと二里は進みたい」


白いローブが土煙の向こうへ遠ざかっていく。ジルヴェスターは、その背中をしばらく黙って見送っていた。






「陛下」


追いついたディートリヒが、後方を指した。


「手当てが終わりましてございます。……動けない者が、六名」


「わかった。戻る」


ジルヴェスターは馬首を返し、隊列へ向かった。


北の空は、もう、何も飛んでいなかった。




その夜の野営は、静かだった。


死者は出なかった。それでも岩の下敷きになった六人は担架で運ばれ、天幕のひとつが急ごしらえの療養所になった。クラリスはいつもより時間をかけて水を湧かせた。傷を洗うにも、熱を冷やすにも、水がいる。


焚き火のそばに、ようやく解放されたルークが腰を下ろした。袖に薬の染みをつけたまま、盛大に息を吐く。


「腕が二本、あばらが三人分。命に関わるのはいません」


「よかった……」


そのとき、司令官の天幕から、声が漏れてきた。


「——だから、この速さでいくより、東を回る方がいいだろう」


「遅い。このまままっすぐ進む。」


ジルヴェスターと、セラフィンだった。布越しにも、金と銀の影が地図を挟んで、行軍の道を言い争ってるのがわかる。


「……司令塔が揉めてて、大変ですねえ」


ルークが他人事のように呟いた。クラリスも膝を抱えたまま、その影を眺めていた。


大変だ。本当に。


「……聖女様とアルダーン王も、ああだったのかしら」


「はい?」


「八百年前。あのお二人も、実は喧嘩ばかりだったのかなあ、って」


ルークが、じとりとこちらを見た。


「は?」


「だって、ほら。物語なら、魔人を倒した王様と聖女様は、最後に結ばれて、めでたしめでたし、じゃないですか。絶対そうです。なのに聖女様は一人で西へ帰って、国ごと門を閉じてしまって——八百年も」


クラリスは、翠色の目でじっと二人を見る。


「あんなふうに、毎日毎日ぶつかって、最後は嫌になって帰っちゃったのかも。……なんて」


馬鹿馬鹿しい話をしてしまったと思い、返事をくれないルークをちらりと見る。するとルークは何かを考え込んでいた。


「……いや」


ルークの手が、火に枝を放り込む途中で、止まっていた。


眠たげな目が、まったく眠たげではなくなっている。


「奥様。それ、案外……」


彼は、そこで言葉を切った。しばらく黙って、天幕の影を見て、それから火を見た。


「……いえ。なんでもありません」


なんでもない、と言う顔ではなかった。けれど彼はそれきり口をつぐんで、枝を火に落とした。


高原の夜風が、天幕の布を鳴らして通り過ぎていった。



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