遠征2
高原の行軍は、それからも続いた。
荷駄を抱えているぶん、進みは速くない。一日にせいぜい数里。乾いた大地を、隊列は延々と北へ伸びていく。日が昇れば砂を含んだ風が正面から吹きつけ、日が落ちれば骨まで凍る寒さが襲ってくる。クラリスは毎晩、水を湧かせては濡れ、ジルヴェスターの外套にくるまれて天幕へ運ばれ、翌朝にはまた鞍の上に戻った。
単調な、けれど気の抜けない日々だった。
幾日目かの、昼過ぎだった。
隣にいたルークが北西の空をハッと見つめる。そのまま馬を全力で前方に走らせた。
「北西一キロ、異常あり! 多数、こちらへ向かって来ます! 」
ルークが立ち上がるように鐙を踏み、先頭まで届く声で叫んだ。
この行軍のあいだ、彼は一度も探知魔法を切っていなかったのだ。クラリスが気づいたのと、北西の地平に黒い染みが現れたのは、同時だった。
染みは、みるみる広がった。烏の大群のように——烏より、ずっと大きい。翼を広げた影が幾十と重なり合い、乾いた青空を覆い尽くしていく。
「ワイバーンだ!全軍、密集しろ!全体にシールドを!」
ジルヴェスターの声が高原に響き、ほぼ同時にセラフィンの声がそれに重なった。
「弓、前へ! 荷駄と馬は中央! 聖騎士、四方に散れ!」
隊列が、一瞬で動いた。荷駄が中央へ寄せられ、弓兵が外周へ走り、ルークが両手を天へ突き上げる。聖騎士たちがローブを翻して四隅へ散り、頭上に薄い光の膜が幾重にも張られていく。千の軍をまるごと覆うシールドだった。
ワイバーンは、二十匹はいた。
あっという間に空を埋め、翼の影が地上に落ちて昼が薄暗くなる。その爪の一本一本が、岩を掴んでいた。
急降下しながら叩きつけられた岩が、光の膜の上で砕け、火花のような光を散らす。ずしん、ずしん、と頭上で重い音が続き、そのたびに膜全体が波打った。張ってあると分かっていても、真上から岩が降り続ける光景に、クラリスの背中を冷や汗が伝わる。
ひときわ大きな岩が、隊列の後方の一点に集中し、膜が、裂ける。
弱くなっていた一角が割れ、岩が三つ、まっすぐ落ちた。土煙と悲鳴。避けきれなかった兵たちが下敷きになり、兵たちは混乱していく。
「後方! 密集を崩すな! 穴を塞げ!」
だが、セラフィンの声が飛び、すぐに列は整えられる。
聖騎士のひとりがそちらへ走りシールドを補給する。
別の一人が、弓を構えた。番えた矢の鏃に、青白い光が宿る。彼は地上から、急降下してくる一匹を静かに狙い、放った。光を纏った矢が翼を貫く。二本、三本と続けざまに突き立ち、ワイバーンは絶叫を上げて錐揉みに落ちていった。
先頭では、ジルヴェスターが騎乗のまま剣を振った。
刃がマナを孕み、その軌跡が三日月の光となって宙を飛ぶ。突撃してこようとしていたワイバーンの首が、一撃で断たれた。頭を失った巨体が隊列の脇へ落ちて土を巻き上げる。彼はもう、次の一匹へ馬を向けていた。
セラフィンの銀の鎖は、低く飛ぶ一匹の翼に、錘のついた鎖が生き物のように絡みつく。細身のどこにそんな力があるのか、鎖が引かれ、ワイバーンが地面へ引きずり落とされる。暴れる首筋に、青白く光る刀が無造作に振り下ろされる。
ワイバーンがみるみる数を減らしていくのをみて、クラリスは胸を撫で下ろす。地上には斃れた巨体が転がりはじめ、残る数匹が、高く低く、まだ隊列の上を旋回していた。
クラリスは、荷駄の陰で、少しだけ息を吐いた。
そのすぐ横で、地面に倒れていた一匹が、ぐるり、と黄色い目を開いた。
翼を折られて動かなかった一匹が、生きていたのだ。鎌のような首がもたげられ、荷駄の車列へ——水と食料を積んだ車列へ、振り下ろされようとしていた。
クラリスは、巨大な魔獣を目の前に心臓が止まる思いだったが、考えるより先に、手が動いた。
荷車と獣の間の地面へ向け、マナを通す。
土が、ごう、と音を立ててせり上がった。分厚い壁が一瞬でそそり立ち、振り下ろされた首がそこに激突する。鈍い音。壁は大きくひび割れたが、砕けなかった。獣の一撃を、受け止めきった。
その数呼吸のあいだに、追いついたニクラスの槍が壁の陰から伸びて、獣の喉を貫いた。ワイバーンは短く痙攣して、動かなくなった。
土煙の向こうで、一瞬、ジルヴェスターがこちらを見ていた。
壁と、その陰に立つクラリスを認めて、その顔に安堵の色が浮かぶ。彼は何も言わず、ほんの少しだけ口の端を上げて、馬首を返し、まだ空に残る一匹へ斬りかかっていった。
クラリスは、崩れかけた土の壁に手を触れて、荒い息をついた。
守れた。今度は、守られるだけでは、なかった。
頭上では、まだ、翼の音が続いていた。




