遠征
高原への峠道は、生々しかった。
道幅いっぱいに刻まれた、無数の轍。捨てられて朽ちた荷車の骨組み。斜面に転がる、割れた水樽の箍。帝国軍が刻んだ道の痕は、雨風に洗われてなお、消えていなかった。二千の軍が、ここを下ってアルダーンへ向かったことを想像し、クラリスは眉を顰める。
先頭では、ジルヴェスターとセラフィンが馬を並べていた。
時折、地図を挟んで短く言葉を交わし、また前を向く。金と銀の頭が朝日の中に並んでいるのを、クラリスは列の中ほどから眺めていた。
「はぁー……。長い行軍が、始まっちゃいましたねえ」
隣で、ルークが盛大にため息をついた。彼の持ち場は荷駄の護衛——つまり、クラリスのすぐ近くだった。
「ひと月ですよ、ひと月。僕の人生でいちばん長い遠征です。……ところで奥様、あれ、見てくださいよ」
彼が顎で示した先、長い隊列の先頭と最後尾に、灰色のローブの一団がいた。騎士服の上から薄いローブを被った聖騎士たちが、いつも通りの陰鬱とした佇まいで、前後から千の軍を挟むように進んでいる。
「一番危険な場所で守ってくれてる、んですよね?」
「どうですかねえ。僕には、…僕らを監視してるように見えますけど」
「…監視?彼らが何か調査してることに関して、私たちを疑ってるってこと?」
「分かりません…ただよっぽど我々にも知られたくない何かがあるのか。奥様、覚えてますか?帝国軍の司令官を聖国が生け捕りにしたのを。」
クラリスは北西の砦での戦でひれ伏した司令官を思い出す。
「はい、ああ!彼に話を聞けたんですか?」
「いえ、どうやら処刑されたようです。必要な情報を知らなかったから用済みということみたいですが…何かを知っていたから殺されたのかもしれませんよねえ」
処刑という言葉にクラリスは眉を顰める。聖国は聖女の国と言いながらも、聖騎士たちの雰囲気から漂う陰鬱で厳粛、無慈悲な雰囲気を思い出し、肩を振るわす。
クラリスは襟巻きに顎を埋めて、少し考えてから、ぽつりと訊いた。
「……ねえ、ルーク。この戦いって、魔人を倒せば、終わるのかしら」
「さあ」
ルークは前を向いたまま、身も蓋もない声で答えた。
「そもそも倒す相手がどこの誰やら。『僕が魔人です』って人が、すぐ見つかるといいですよねえ」
「……見つかると、いいですね」
「帝都に着いたら玉座にでも座っててくれれば、話が早いんですが。まあ、そういうときに限って、いないのが王道の物語です」
日が傾くころ、峠を抜けて、高原に出た。
とたん、風が変わった。
遮るもののない大地を渡ってきた風が、正面からまともにぶつかってくる。乾いて、冷たくて、細かい砂を含んだ風だ。外套の裾が一斉に同じ方向へはためき、馬たちが目を細めて首を低くする。夕暮れの光の中、千の隊列の足元から砂埃が煙のように流れ、谷筋には早くも薄い霧が溜まりはじめていた。
寒い。
昼の行軍で汗ばんだ体から、風が容赦なく熱を抜いていく。クラリスは襟巻きを鼻の上まで引き上げた。周りの兵たちも、布で口元を覆い、黙々と足を進める。話し声が消えたのは、疲れたからではなく、口を開けると砂が入るからだった。聞こえるのは風の音と、車輪の軋みと、幾百の蹄の音だけだ。
日が地平に触れる直前、先頭が止まった。
初日の野営地は、岩場の陰だった。黒い岩の連なりが北風を遮る、浅い窪地。手信号が列を伝い、千の軍が慣れた手順で夜営を組みはじめる。
そこへ、セラフィンが馬でやってきて、騎乗でまるまるクラリスを無表情に見下ろしながら口を開いた。
「樽の水は、まだ十分にある。……が、初日のうちに、一度確かめておきたい。頼めますか」
「はい。そのつもりでした」
クラリスはあたふたと馬を降り、鞍の袋から板を出した。それから、ふと顔を上げて訊く。
「あの——帝国の水場は、ここからどちらに、どのくらいですか」
セラフィンは一瞬の間も置かず、東の地平を指した。
「あの岩山の向こう。ここから北東に二十里ぐらいです」
方向と、距離。頭の中の地図に、線を引く。水は南から北へ。ならば、この窪地で堰けば、溢れた分はここに溜まり、枯れる側は——あちら。頷いて、クラリスは野営地を見回した。
この岩場の陰には、風と水が長い年月で削った、浅い窪みがいくつもあった。そのうち、いちばん形のいい、底の窪んだひとつを選ぶ。
クラリスは外套とブーツを脱ぎ、窪みの真ん中まだ移動すると、板を沈め、境界を起こす。マナを通しながら、網の探索魔法を可能な限り広範囲に流し脈の太さ、深さ、そして帝国の水場へ繋がる水脈をさぐる。そして頭の中で計算し、魔法式への調整をかけた。
窪みの底が、ごぼ、と鳴った。
水は、素直に来た。
底のあちこちから泡を立てて噴き上がり、夕闇の中でみるみる嵩を増していく。よし、と思った次の瞬間、勢いよく上がった水柱のひとつが、まともに頭から降ってきた。
「ひゃっ……!」
冷たい。骨まで冷たい。慌てて窪みの縁へ避難したときには、足は膝上まで水に浸かり、髪の先からチュニックの裾まで、見事に濡れそぼっていた。
——このやり方、なんとかならないかしら……。
よたよたと登りきったところで、わっ、と声が上がった。
兵たちだった。
夕闇の窪地に満ちていく水面を囲んで、いつのまにか人垣ができていた。誰かが縁にひざまずいて水を掬い、口をつけ、「飲めるぞ!」と叫ぶ。歓声が波のように広がって、馬たちが我先にと縁に鼻を伸ばす。びしょ濡れのクラリスが登ってくるのに気づいた近くの兵たちが、口々に何か言いながら拳を上げた。奥様、奥様、と呼ぶ声がする。
クラリスは、濡れた髪を貼りつかせたまま。
「……へへ」
と、笑った。
周りの騎士や兵士の頬に赤みが刺す。
その歓声が——ふっ、と、止んだ。
波が引くように、兵たちの声が消えていく。何事かと思う間もなく、人垣が左右に割れて、道が空いた。
その先から、ジルヴェスターが歩いてきた。
満面の、笑みだった。目だけが、笑っていなかった。
「……クラリス」
穏やかな声で、彼はまっすぐにこちらへ来る。近くにいた兵たちが、誰に言われたわけでもないのに、すす、と後ずさって距離を取った。拳を上げていた者たちが、急に自分の手綱や荷を点検しはじめる。無言の圧が、じわりと人垣を押し広げていく。
ジルヴェスターは、クラリスの前まで来ると、着ていた外套を、ばさりと外した。
「え、あ、ジ——」
言い終わる前に、頭から、すっぽりと包まれた。
まだ彼の体温の残る、大きな外套。乾いた布と、彼の匂い。冷え切っていた体が、その内側で、じん、と痺れるように熱を思い出す。ジルヴェスターは外套ごとクラリスを抱き寄せ、片腕で完全に囲い込んで、周囲を——正確には、さっきまで歓声を上げていた兵たちを、ぐるりと見渡した。
笑顔のままだった。笑顔のまま、「早く持ち場にもどれ」と小さいが響く低い声で伝えた。
兵たちは、蜘蛛の子を散らすように、それぞれの持ち場へ戻っていった。
ジルヴェスターは外套の中のクラリスを、さらに深く抱え直した。耳元で、声がさらに低くなる。
「……濡れた妻を他の男に見せるわけないだろう。着替えるぞ。天幕まで運ぶ」
「あ、歩けます! 歩けますから!」
「知っている」
聞いていなかった。抱き上げられて、視界がぐるりと回る。外套にくるまれたまま、クラリスは彼の腕の中に収まった。彼の肩越しに、湧き続ける泉が、夕闇の底で静かに光っているのが見えた。
天幕で乾いた服に着替え、髪を魔法式で乾かしていると、ジルヴェスターがラウレンツを呼び寄せるのが、めくれた天幕の隙間から見えた。二人は地図を挟んで短く言葉を交わし、ジルヴェスターが東を指す。ラウレンツは頷くと、部下を十騎ほど連れて、暮れきる寸前の高原へ、音もなく駆け出していった。
クラリスは天幕の外に出ると焚き火にあたる。それに気づいたニクラスがお椀に入れたシチューと葡萄酒を持って来た。
あたふたと食べてながらジルを探したが、どうやら司令官の天幕らしい。クラリスが浮かない顔をしているのを、心配そうにニクラスが見ているのに気づき、声をかける。
「泉の水の質は大丈夫そうでしたか?魔法を通す限りは飲めるはずでしたが…」
日に日に背が伸びがっしりとしていくニクラスは、声をかけてもらったことを嬉しそうに、アーモンド型の大きな目でクラリスを捉えて、口を開く。
「はい!聖騎士の一人が念のためと浄化魔法をかけてましたので、十分に飲めるかと。ご安心ください」
クラリスは、ほっとし、ありがとうと小さく答える。そして、火を見ながら、荷駄があったから早い行軍ではないものの身体の疲れを感じる。
これでやっと一日。1ヶ月進めると帝国に着く。




