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準備2

出立の前夜まで、クラリスの部屋は工房だった。


机を二つ並べ、堰の板が十五枚、バリアの板が五枚。下書きはクラリスが起こし、刻みはルークが手伝ってくれた。彼の彫りは、腹立たしいほど速くて正確だった。


「……ルークは、本当は板なんて要らないんですよね」


十七枚目を検分しながら、つい、こぼれた。魔石さえあれば、その場で式を組んで展開できる人なのだ。組む速さも、式を頭の中で崩さず保つ力も、注ぐマナも、全部が桁違いだから。


「要りませんね」


ルークは彫刻刀を置かずに、あっさり頷いた。


「でも奥様、僕のあれは、その場の思いつきで魔法を発動しますから。行軍の水は、思いつきで湧かせるものじゃない。毎晩、決まった時刻、決まった量、確実に。……そういう魔法は刻んだ板のほうがやりやすいでしょう。彫っている本人が眠くても動きますから。式を間違えても困りますし。」


「戦の道具は、確実なのがいちばん」


「そういうことです。奥様も、魔法の発動自体は遅いとは思わないですよ。正確性は欠けますが。はい、十八枚目」


ちなみにこの数日、部屋の扉は一度も閉まらなかった。『扉は、絶対に閉めるな』——ルークと作業をすると聞いたときのジルヴェスターの、眉ひとつ動かさない厳命である。おかげで廊下を通る兵たちが、日に何度も、彫刻刀の音のする部屋を物珍しそうに覗いていった。






そして——出立の朝が、来た。


北西の砦の門が開いたとき、クラリスは思わず、鞍の上で息を呑んだ。


八百を超えるアルダーン国の軍と、百五十の聖騎士が集まる。


先頭に王国騎士団の旗。続いて諸侯の旗が、色とりどりに朝日を受けて門をくぐっていく。騎馬の列、槍の列、そして荷駄——荷駄の車列が、どこまでも続いていた。一月半分の食料。ルークの保存の魔法で嵩を圧縮して、それでも百台を超える車列になった。人の食料より嵩張るのが馬の飼葉で、干し草の梱が荷車に山と積まれ、薪の束と火の魔石の箱がその間を埋める。


そして、水。


樽を積んだ車が、列の中ほどに固まっていた。千人と三百頭の、一週間分。


——一週間。


クラリスは、その樽の列を見て、胃の底が冷えるのを感じた。あれが空になる前に、高原のどこかで、わたしの最初の泉が湧いていなければならない。鞍の袋の、二十枚の板の重みが、急に増した気がした。




兵たちは列を組みながら、声を掛け合い、笑い声も聞こえる。荷を縛り直す手つきにも、槍を担ぐ肩にも、張りがある。先の戦で四十七人を失った相手だ。その敵国に攻め上って、根を断ちに行く——受け身の戦ではなく、こちらから終わらせに行く戦。それが、兵たちの背筋を伸ばしているようだ。


「奥様! 隣、よろしいですか」


馬を寄せてきたのは、ニクラスだった。真新しい遠征装備に身を固めて、けれどその顔は、少し神妙だ。


「あの……出立の前に、言わせてください。先日の高原では、お守りできず、すみませんでした」


「え? ……あ、オーガの」


「僕、ワーグと斬り合っていて、気づくのが遅れて。クロア卿が間に合わなければと思うと、いまでも」


「ニクラスのせいではありませんよ。気にしないでください」


「今度こそ、僕が最初に気づきます。半刻ごとに確認しますから!」


クラリスは眉を少し下げる。


そこへ、後ろから明るい声が割り込んできた。


「おお、奥様。ようやく外の空気を吸っておいでだ」


ラウレンツだった。彼も遠征に加わることになり、砦は副官に預けてきたという。革鎧の上からでも分かるほど、いきいきとしていた。その隣に、ディートリヒも馬を並べてくる。こちらも、黒い遠征装束の背筋がいつもより伸びて見えた。


「しかし、ご無事で何よりですなあ。お姿をとんと見かけないものだから、私はてっきり、陛下がとうとう監禁でも始められたのかと」


「か、監禁!?」


「砦では専らの噂でしたからね。陛下が奥様を部屋に囲って、誰にも見せず、朝な夕なに——」


「ラウレンツ殿」


ディートリヒが恥ずかしそうな顔をし、咳払いで遮った。クラリスは慌てて手を振った。


「ち、違います! あれはただ、わたしが部屋で、本に夢中になっていただけで……!」


「ほう。ひと月近くも?」


「…………本が、次から次へと、届いたので」


言いながら、自分でも、あれ、と思った。次から次へと。読み終わる頃合いを見計らったように…?


ディートリヒが、顎鬚を撫でながら、しみじみと言った。


「陛下は、頭のよいお方ですからな。奥様のような素直な方など、その気になれば、言いくるめるのは造作もないでしょう」


「な……」


「ですが、奥様も、なんだかんだと戦の前線においでになる。……はてさて、言いくるめ合戦、どちらが上手ですかな」


「なんだか楽しそうですね……」



ラウレンツが呵々と笑い、ニクラスがつられて笑い、ディートリヒがまた咳払いをする。


クラリスは、列の遥か前方に目をやった。


騎士団の旗の下、金の髪が朝日を弾いて、小さく光っている。


——一週間分の水と、二十枚の板。


クラリスは手綱を握り直した。怖くないと言えば、嘘になる。でも、この熱気の中にいゆと不思議と、腹の底に力が入った。


高原の乾いた風は、まだ遠い。


けれど確かに、近づいていた。

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