準備
翌朝、クラリスは帳面を抱えて、軍議の間へ向かった。
板の設計は昨夜のうちに詰めた。あとは魔石だ。堰の板を魔石で回すなら、数と品質を確かめておかなければ勘定が立たない。聖国から届いた分が軍議の間に置いてあると、昨夜ルークが言っていた。
その扉は、開いていた。
そして中から、鋭い声が漏れる。
「——これは遊びではない」
セラフィンの声だった。
「帝国に気取られずに動く。それがこの行軍の生命線だ。なのに千の兵を一箇所に集めたまま、道も決めずに何日も遊ばせている。物見の一騎にでも見られたら、それで終わりだと分かっているのか」
「何を、いまさら」
ジルヴェスターの声は、対照的に落ち着いていた。落ち着いているぶん、棘が深かった。
「動きに気づいたところで北西の砦を強化してるとしか思わないだろう。だいたい、十年近く帝国の動きに気づいていながら、貴国はそれを黙っていた。その十年に比べれば、数日の遅れがなんだと言うんだ、クロア卿」
「……話を逸らすな、アルダーン卿」
「逸らしてはいない。急ぐ理由を貴国が作り、遅れる理由も貴国が作った。妻を急かす前に、順番というものを思い出せと言っている」
わたし?と思い、こっそり扉の隙間から覗くと、長机を挟んで、金と銀が睨み合っていた。周りの武官たちは全員、置物になる技を習得したらしく、壁際で気配を消している。
クラリスは、そっと部屋に入った。
先に気づいたのはセラフィンだった。彼はクラリスを一瞥すると、はぁ、と遠慮のかけらもないため息をつき、睨み合いを打ち切って机の書類に向き直った。
次に気づいたジルヴェスターは、一転、満面の笑みになった。
「クラリス。どうした——もう土魔法はいいのか?」
大きな手が伸びてきて、当然のように頭を撫でようとする。クラリスはその手を、さりげなく両手で受け止めて、そっと下ろした。
「ぐ、軍議に、参加しに来ました。……お呼びと、伺いましたので」
ちらりとセラフィンを見ると、彼は書類から顔も上げずに、机の上の地図を無言で広げはじめた。話が早くて助かる。
「ラーゲン高原です」
羊皮紙いっぱいに、あの赤茶けた大地が線で描かれていた。南の縁から北の帝国側へ、事前に調べられた帝国の水場の列が点々と連なり、その脇に、細かい書き込み。
「水場の候補です。土を見ないことには、地図だけでは分からないかもしれませんが——」
セラフィンの指が、地図の上を辿った。帝国の道筋とほぼ平行に、少し西へ離れた線。その上に、丸がいくつか打たれている。
「我々の調査で確認できた岩場です。窪地が作りやすく、風がしのげ、遠目が利かない。……候補として、この並びを考えている」
クラリスは、地図に顔を近づけて、じっと見た。
岩場の並び。帝国の道との距離。それから目を瞑って、あの日、高原の縁で地面に手を当てたときの感覚を呼び起こす。指先に伝わってきた、網の目。細い細い水の糸が、足の下を幾筋も、どこまでも——
大丈夫。あれだけ広がっているなら、たぶん、どこに掘っても水は来る。
でも。
「……あの。少し、直しても、いいでしょうか」
目を開けて、羽根ペンを借りる。
「岩場を使うのは、賛成です。ただ、選ぶ場所を変えたいんです。——水は、高いほうから低いほうへ流れています。この高原では、南から、北の帝国側へ。わたしたちは南から入りますから、いつも帝国の水場より、上流側にいることになります」
ペン先で、セラフィンの丸のいくつかを、東へ——帝国の水場の列に近い側へ、ずらしていく。
「ですから、野営地はなるべく、帝国の水場の真上流に置きたいんです。わたしが堰で水を溜めると、その下流には水が回らなくなります。つまり、こちらが水を集める度に——」
「——帝国の水場が、涸れていく」
ジルヴェスターが、静かに引き取った。
「はい。行軍しながら、彼らの井戸を、後ろから順に塞いでいけます」
一拍、部屋が静かになった。
ジルヴェスターは地図を見下ろして、それから、ふ、と喉の奥で笑った。
「……僕の妻は、なかなか性格の悪い戦略家だ」
セラフィンは笑わなかった。ただ、ずらされた丸の並びを、凍った湖の色の目でじっと辿り、指先で顎に触れた。
「……なるほど。水場が死ねば、帝国は高原を渡れなくなる。こちらが攻め込んだあと、背後から追撃の軍を送られる心配も、アルダーンへ再侵攻される心配も、当分は消えるわけですね。……攻めの水場が、そのまま盾になる」
少し、感心したような声だった。
「であれば、行軍の順路は、この水場の並びに沿って引き直しになる。日程も——」
「初日の距離が変わるな。二日目の岩場は」
「ここだ。ただし帝国の第三水場との距離が」
「二十里は取れる。問題ない。それより荷駄の——」
「リアンツァからの支援は——」
二人は、地図の上に頭を寄せて、話しはじめた。
早かった。さっきまで睨み合っていたのが嘘のようだった。いや——喧嘩も、これも、たぶん同じことなのだ。この二人は、頭の速さが同じだから、ぶつかるのも噛み合うのも速い。
クラリスは、完全に、蚊帳の外になった。
金の頭と銀の頭が、地図の上で近づいていく。燭台の光の中で、それはなんというか——絵画のようだった。相性がいいのだわ、この二人。美しいこと。美しい、けれど。
顔と顔の距離が、また少し縮まって。
——だめ。あの想像が、帰ってくる。
クラリスは、ぶんっと目を逸らした。
逸らした先で、部屋の隅に、木箱が積まれているのが目に入った。蓋の開いた一番上の箱に、布に包まれて——魔石。
吸い寄せられるように、近づいた。
手に取って、窓の光に透かして、クラリスは声を呑んだ。大きい。濁りがない。マナの通りが、指先に吸いつくように滑らかだ。ルークの高位の石より、さらに上等かもしれない。聖国の石。これが、箱に、山積み。
「おぉ……おおお……」
こんな石で堰の板を回したら、一晩どころか、二晩でも保つかもしれない。板の設計だって、燃費の節をあんなに切り詰めなくて済む。ということは、浮いた画数を固さの節に回せて——
振り返る。二人はまだ、地図に頭を突き合わせている。
クラリスは、そーっと箱に向き直った。
「……こちら、いただいて、いきますね」
誰にも届かない小声で断って、近くにあった空の麻袋に、魔石を詰めはじめた。袋がずしりと重くなったところで口を縛り、両腕で抱え、抜き足差し足で扉へ向かう。
廊下に出る瞬間、ちらりと振り返ったが、金と銀は、まだ地図の上だった。
クラリスは袋を抱え直して、いそいそと部屋へ戻っていった。板を、彫らなければ。




