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帰国3

北西の砦は、日ごとに膨らんでいった。


最初の三日で王都の騎士団が着き、次の五日で諸侯の兵が旗ごとに丘を越えてきた。中庭は天幕で埋まり、鍛冶場は朝から晩まで鳴り、砦のふもとの街には兵と商人があふれて、宿という宿が満杯になっているという。


クラリスはといえば、その熱気から離れた砦の奥の一室で、書物に埋もれていた。


聖国で写してきた土魔法の帳面だけでも、興奮して鼻息が荒くなる。


ところが、である。


帰り着いた翌日にはアルダーンの城から土魔法の古書が届き、三日後には聖国からの荷に彼女宛ての束が混ざり、それを読み終わるかどうかという頃合いに、また次が届く。まるで読む速さを測られているかのように、机の上の山は、減るそばから積み上がった。



そして、ジルヴェスターはそんな妻の様子を見るかのように、日に二度、部屋に現れた。


昼は、食事の盆と一緒に来る。軍議の合間らしく上着の襟元を緩めただけの姿で入ってきて、机の惨状に目をやるが、何も言わず、なぜか満足そうだ。


「手を止めて。食べてからにしよう」



隣に座らされる。けれど食事の食器は、クラリスの前には来ない。彼が自分の手元に置いて、パンを一口の大きさに裂き、こちらの口元へ運んでくるのだ。


「じ、自分で食べられます」


「いいから」


「んっ……も、もう、子供じゃないんですから」


「子供にはしない」


低く笑って、次はスープ。抗議は毎回敗北に終わる。両手が帳面でふさがっているのを見抜かれている。


口についたとうもろこしのスープを大きな手が伸びてきて、親指の腹でそっと拭う。そのまま指先が唇の端を掠めて、さらにさの指をジルヴェスターが美味しそうに舐めるから、心臓に悪い。


食べている間、彼は軍議の話を一切しなかった。ニクラスが稽古で三回転がされた話、ラウレンツの犬が干し肉を盗んだ話。クラリスが笑うと満足そうに目を細めて、最後に手の甲へ口づけて、「夜に、また来る」とだけ言い残して戻っていく。


そして夜は、昼とは違った。


日が落ちて、砦の喧騒が焚き火の低いざわめきに変わるころ、扉が開く。


夜のジルヴェスターは時間を惜しまなかった。湯上がりらしい、まだ湿った金の髪を無造作にかき上げて、簡素な白い襯衣一枚で椅子の背に凭れる。燭台ひとつの明かりでも、その姿は腹立たしいほど絵になった。日に焼けた首筋と、襟から覗く鎖骨に火の色が揺れて、この人は自分の美しさの使いどころを完全に心得ている——そしてそれを、この部屋でしか使わないのだ。


彼はまず机を覗き、今日進んだ帳面を「読んでも理解はできないが」と言いながら眺める。それからクラリスの腰をつかみ立たせると、自分の上に、両足を開いた形で向かい合って座らせる。


「今日の分は、終わりだ」


「ま、まだ蝋燭が」


「消せばいい」


髪を解かれ、ゆっくりと撫でられる。


式でいっぱいだった頭がゆっくりとほどけていく。それから抱き上げられ、寝台に降ろされ——燭台の火は、いつも彼の指で摘まれて消えた。暗がりの中で名前を呼ばれ、昼の続きのような軽い口づけが深くなって、やがて言葉がいらなくなる。


クラリスは毎晩の快楽と高揚をどこか中毒のように感じ始めていた。


朝、目が覚めると彼はもういない。


一瞬だけ、私は今こんなことしてていいのかという疑問がら頭に浮かぶ。


だが、そう思うタイミングで机の上には新しい古書が一冊、増えていて、クラリスは夢中になり読み出す。


そんな日が、続いた。何日続いたのかは、よく分からなかった。


その日、クラリスはふと、大きな湯に浸かりたくなった。


部屋の盥の湯で不足はない。ないのだけれど、手足を伸ばして、肩まで沈んで、湯気の中でぼうっとする——あれが恋しかった。そういえば、ふもとの街には大きな湯屋があるとリタに聞いていた。女専用の刻限もあるという。よし、と決めた。今日は街へ出て、ゆっくり湯に浸かって、ついでに新しいインクも買って帰ろう。


護衛にニクラスをつけてもらい、街へ降りた。


街は、想像よりずっと賑やかだった。荷車が行き交い、露店が飯の湯気を上げ、どこの言葉とも知れない訛りが飛び交っている。湯屋は石造りの立派な建物で、女の刻限の湯殿は、洗濯や買い出しついでの女たちでほどよく混んでいた。


広い湯船に、手足を伸ばして沈む。ああ、これだ。骨の芯まで湯がしみて、クラリスはようやく人心地ついた。


すると、湯気の向こうで、女たちの噂話が聞こえてきた。


「——それでね、日に二度よ、二度。昼と、夜と」


「まあ、仲のおよろしいこと」


「昼はご自分でパンを裂いて、口元まで運んで差し上げてるんですって。砦勤めの子が言うんだから」


「あの方が? 嘘でしょう」


「それだけじゃないのよ。奥方様のお好きな書物を、わざわざ他国からまで取り寄せて、次から次へとお部屋に運び込ませてるの。おかげで奥方様、お部屋から一歩もお出にならないって」


「……つまり、あれかしら。あの方はとうとう、愛する奥方様を部屋に閉じ込めて、誰にも見せず、心ゆくまで愛でる方法を見つけられた、と」


「言い方! ……でもまあ、そういうことよねえ」


きゃらきゃら、と笑い声が湯気に混ざって溶けていく。


クラリスは、湯の中で、ほう、と息をついた。


——どこのご夫婦かしら。仲がよろしいのね。


奥方を書物で釣って閉じ込めるなんて、ずいぶん変わった旦那様もいたものだ。でも、書物で釣られる奥方の気持ちは、ちょっと分かる。分かってしまう。羨ましい話だわ、とひとり頷いて、クラリスは湯から上がった。



ほかほかのまま部屋に戻ると、机に新しい土魔法のの巻が届いていて、その日もまた、頁の中に沈んだ。


土のバリアの式は、掘れば掘るほど鉱脈だった。


古代の書き手は律儀で、壁の式を細かく節に分けていた。土を起こす節、固める節、保つ節。読み込むうちに、クラリスは気づいた——固める節の画数を変えれば、固さそのものを変えられるのではないか。岩のようにも、触れれば崩れる砂のようにも。それに、起こした土を固めずに細かく砕いて宙に舞わせれば、壁ではなく目つぶしになる。防ぐだけが守りではない。帳面の余白に、新しい線が一本、また一本と増えていく。


面白くて、面白くて、窓の外がいま朝なのか夕方なのかも、だんだん曖昧になっていった。


——その日、部屋の外が、にわかに騒がしくなった。


廊下を走る足音。誰かの押し殺した声。何かを制止する気配。クラリスがペンを持ったまま首をかしげたとき、扉が、こつ、こつ、と硬く二度叩かれた。


リタでも、ジルでもない叩き方だった。


扉を開けて、クラリスは固まった。


セラフィン・クロアが、立っていた。


白銀の鎧に旅の埃をうっすら被ったままの姿で。後ろでは案内の兵が真っ青な顔で「お、お待ちくださいと申し上げたのですが」と口をぱくぱくさせている。凍った湖の色の目が、部屋の中——古書の山、床に散った帳面、着たきりの部屋着——を一瞥して、クラリスに戻った。


「クロア卿……!? も、もう、いらしたんですか」


「もう?」


セラフィンの眉が、ぴくりと動いた。


「予定通りです。三日前から来ています。着いてみれば、軍議は行軍の道ひとつ決まっていない。……理由をお聞きしたら、どうやらあなたのようだ」


「わ、わたし……?」


「高原の道は、水場の位置で決まる。どこに水を作れるのか——その意見が出ない限り、地図に線は引けない。皆、あなたの言葉を待っているんです。それなのにアルダーン卿は『妻は支度で忙しい』の一点張りで、あなたを軍議に連れてこようとしない」


クラリスは、ぽかんと口を開けた。


待っている。わたしを。軍議が。——道が、決まっていない?


「それで、その支度とやらは」


セラフィンの視線が、机の上を、すっと撫でた。


「進んでいるのでしょうね。魔法式の板は? 行軍がひと月なら、水場の板だけで相当な数になる。彫り上がっているんですか。聖国が渡した魔石はもう使われているんですよね」


板。


血の気が、引いた。


彫っていない。一枚も。読んでいた。ずっと読んでいた。土の壁と、固さの節と、粉塵の式。楽しかった。楽しすぎた。水場の場所も、板の勘定も、何ひとつ——


「……あ、あの。つかぬことを、伺いますが」


声が、震えた。


「今日って……わたしが砦に戻ってから、何日目、でしょうか」


セラフィンは、答えなかった。


ただ、氷の目が心底呆れたというふうに細くなった。その沈黙が、どんな数字よりも雄弁だった。


「……ひっ」


「すぐに、軍議に出てください。高原の地図と、捕虜の記録は届けさせます。……アルダーン卿が何と言おうと、です。それに….」


といって、クラリスの服を見下ろす。クラリスは自分がよれよれの胸がはだけた部屋着を着ていることに気づき、隠すように服の襟をもつ。


「で、出ます! 出させていただきます! すぐに行きますので!」


クラリスは、少しだけ部屋に入りかけていたセラフィンを部屋から押し出すと、部屋のドアを閉めた。

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