帰国2
古の森を抜けるころには、クラリスは馬上で石像になっていた。
寒さのせいも、あった。冬は日ごとに深くなり、襟巻きに顎を埋めても、指先から冷えてくる。けれど本当の理由は、頭の中だった。土のバリアの式。厚みの節を三画削って、立ち上がりの節に回したら。板に前もって刻んでおくなら、起動の一画はどこに残すのが速いか。線と画数が、瞼の裏を流れ続けていて、景色は、ほとんど見ていなかった。
手綱は握っている。馬は隊列についていく。ただそれだけの、荷物のような騎手だった。
「……おい、クラリス。生きているか」
前を行くジルヴェスターが、二度ほど振り返って声をかけ、返事が「はい」の一語だけなのを確かめると、三度目からは白い目になった。あの砦への道中であれほど心配そうだった人が、いまは呆れの色のほうが濃い。心配される元気があるだけましだと思ってほしい。
昼を過ぎたころ、ルークが馬を寄せてきた。
「奥様。古書、ご覧になったそうですね」
式の線が、ぷつりと途切れた。クラリスは、初めて隣に気づいた顔で振り向いた。
「……! 見ました。土魔法の古書を、三束も」
「どうでした」
「宝の山でした。土の系譜は、ほとんど手つかずのまま残っていて——あ、あの、詳しくは、まとまってからお見せします。ルークは? 何か収穫はありましたか」
「僕は、神聖魔法を見せてもらいましたよ」
さらりと言うので、クラリスは危うく手綱を落としかけた。
「み、見せて……!? あの人たちが、ですか」
「ええ。頼んだら、案外あっさり。……で、聞いていた通りでした。彼らは、外からマナを集められます。自分の器の分だけで戦う僕らとは、そこが根本から違う。とは言っても、限度はあるようですから無限に魔法は使えないようですが」
ルークは前を行く数人の白いローブの背中に、ちらりと目をやった。
「ただし、誰でもできるわけではない。聖女の血を引く家系の、そのまた一部だけだそうです。聖騎士というのは、要するにその血の濃い者を集めた騎士団なんですね。……で、あのクロア卿は」
声が、少しだけ低くなった。
「ここ何十年か——聞きようによっては何百年かで、突出して神聖力が強いらしい。若さであの地位にいるのは、そういうことのようです」
何百年かで、突出して。あの底光りする目と、息ひとつ乱さずオーガの首を落とした剣を思い出して、クラリスは小さく身震いした。
「もっとも、万能ではありません。外から集めたマナで使えるのは、光属性だけ。シールドと、治癒と、あとは剣にマナを宿らせるくらいのものでしょう。」
セラフィンの話が出て、ふと彼がいないことに気づく。
「あの…クロア卿は来てないんですね」
「奥様、何も聞いてませんでしたね?クロア卿は数週間後に聖騎士軍連れてこちらに向かいます。今回は聖騎士二人だけが同行してます」
クラリスはしばらく呆けてたことに気づき恥ずかしくなるが、先ほどの聖女という言葉が頭に引っかかった。
聖女の血。外からマナを集める力。八百年前、その力で魔人と戦った人。——どんな人だったのだろう。セラフィンがあの美貌なのだから、聖女もきっと、ああいう冷たく輝くような美しさで。その隣に、アルダーンの王。金の髪の、ジルのような——
思い浮かべようとした瞬間。
頭の中で、ジルとセラフィンが、至近距離で見つめ合った。銀の髪と金の髪が触れそうなほど顔を寄せ、いままさに——
「~~~っ!!」
クラリスは、ぶんぶんと激しく頭を振った。違う。違う違う違う。想像したかったのはそういうものではない。八百年前の、歴史の、厳粛な場面であって——だめだ、もう一度浮かんでくる。
「……奥様?」
隣から、なんとも言えない目が降ってきていた。
「大丈夫ですか。急に首を振り出して。……虫ですか」
「む、虫です! 大きいのが! もう飛んでいきました!」
「この寒空に、ですか」
ルークの目が、じとっと細くなったが、それ以上は追及されなかった。追及されたら死ぬところだった。
北西の砦の稜堡が丘の向こうに見えたとき、クラリスは、体中の力が抜けるほど安堵した。
半月の旅だ。分かっている。けれど体感では、一年ぶりの帰郷だった。森と、聖国と、高原と。見たものが多すぎて、出発した朝の自分が遠い昔の人のようだった。
門の前で、ラウレンツが出迎えてくれた。
「陛下、ご無事のお帰り、何よりです。奥様も——」
彼はクラリスを見上げ、言葉を切った。
茶色の目が、じっ、と検分する。ほつれて襟巻きからはみ出した髪。インクの染みが増えた指先。鞍の上で丸まった、覇気のない姿勢。そして、焦点の合っていない目。
「…………おお」
ラウレンツは、心底残念そうな顔をした。
「出立のときは、あれほど凛々しいレディでございましたのに。……なにやら、その、引きこもりの学者殿のようになって、お帰りに」
「なっ」
「ラウレンツ。妻は三日、部屋から出なかった」
「ジル!?」
「だが、おかげで、どうやったらこの妻を鳥籠に入れて愛でることができるか分かったよ」
ジルヴェスターは顎に手を当てて満足そうな笑顔をクラリスにむける。
クラリスは何を言っているのかわからず、適当な愛想笑いで返した。
ラウレンツは二人を面白そうに眺め、それから、うやうやしく一礼した。
「ようこそお帰りくださいました、陛下、学者殿。——湯と、温かい食事の用意がございます。中で、ゆっくりなさいませ」
ジルヴェスターの言葉が気になったが、悔しいけれど、湯、という言葉には、勝てなかった。




