帰国
クラリスは、それから部屋に籠もった。
二日だったのか、三日だったのか、よく分からない。窓の外が明るくなったり暗くなったりして、暖炉の薪が何度か燃え尽きて、そのたびに足した。時間の目盛りは、それだけだった。
親切なことに、気づくと部屋の前に食事が置かれていた。盆を取り込み、空にして、また外へ出す。誰が運んでくれているのかは知らない。あの無表情な司祭たちの誰かだと思うと少し不思議な気持ちになったが、深く考えるのはやめた。いまは一画でも多く、式を読みたかった。
その日も、扉の外にはパンとハムと、茹でた野菜の盆が置かれていた。
クラリスはパンを手で裂き、間にハムと野菜を挟んで、片手で持てる形にした。リタが見たら卒倒しそうな食べ方だけれど、これなら頁をめくる手が止まらない。そのまま寝台に腹ばいに寝転がって、広げた古書と帳面の間にパンを構え、書き続けた。
土のバリアの式は、読めば読むほど面白かった。壁の厚みを決める節、固さを決める節、立ち上がりの速さを決める節——古代の書き手は律儀に全部を別々の節にしていて、だからこそ、どこを削ればマナが浮くのかが見えてくる。厚みはこんなに要らない。高さも要らない。オーガの突進を一度だけ受け止められれば——
扉が、叩かれた。
クラリスは、気づかなかった。
もう一度、今度は少し強く、叩かれた。
「はーい」
リタだと思って、無意識に返事をしていた。ペンは止めなかった。扉の開く音がして、けれど、いつもの「奥様、また散らかして」が、来ない。
……リタ?
異様な静けさに振り返って、クラリスは思い出した。ここは、まだ聖国だった。
扉に、ジルヴェスターが立っていた。
彼は無表情のまま、視線が、部屋をゆっくりと一周する。寝台の周りに開いたまま積まれた古書。床に扇形に散らばった帳面の頁。机の上の、蓋の開けっ放しのインク壺と、放り出された吸取紙。燭台の根元に溜まった蝋。そして最後に、寝台の上で腹ばいのままパンを齧っている妻の上で、視線が止まる。
「ひぃっ」
クラリスはパンを持ったまま固まり、それから慌てて起き上がって、パンを背中に隠すように座り直した。口の中に、まだハムが残っている。
ジルヴェスターの後ろには、案内らしい司祭が控えていた。
その司祭が、部屋の惨状に目を見開いた。正確には——寝台の上の、開かれた古書に散ったパン屑に。
司祭は、突然、無言のまま部屋にずかずかと入ってくる。寝台の古書を取り上げ、袖でパン屑を払い、それはそれは丁寧に頁を検分してから、クラリスを、ものすごい目で睨んだ。声はひとつも発さなかった。発さないぶん、怖い。
クラリスは首をすくめて、助けを求めるようにジルヴェスターを見る。
ジルヴェスターは、助けなかった。額に手を当てて、深いため息をひとつついただけだった。
「……三日ぶりに顔を見た妻が、これか」
「み、三日……? そんなに経って……」
「経っている。食事が戻っているとは聞いていたから、生きてはいるのだろうと思っていたが」
彼は散らばった帳面を避けながら歩いてきて、寝台の端に腰を下ろした。近くで見ると、彼の目の下にもうっすら疲れが出ている。軍議は、休みなく続いていたらしい。
「支度をしてくれ。——帰るぞ」
「帰る……アルダーンに、ですか」
「ああ。軍議がまとまった。軍は北西の砦に集める」
北西の砦。ラウレンツの、あの砦だ。
「集結には半月かかる。諸侯の兵が揃い、荷駄が組み上がるまで——僕らはしばらく、砦に腰を据えることになる。出立は明日の朝だ」
いよいよ、なのだ。
籠もっている間、式の線のことだけ考えていられた日々が、急に遠のいた。砦に軍が集まる。千の兵と、三百の馬。その全部の水が、わたしの板にかかっている。
「……はい。すぐ、片付けます」
「その前に」
ジルヴェスターは、クラリスの背中のほうへ、あごをしゃくった。
「それを食べてしまえ」
「こっ、これは、その、頁をめくる手が止まらない、画期的な——」
「リタにはしっかり報告しておこう」
彼はそう言って、にっこりと微笑んだ。




