高原4
帰りの四日は、行きよりも短く感じた。
体が慣れたのもあるが、無事に水場を作れて安心したのが大きいらしい。
それでも聖国の白い城門をくぐったときには、クラリスは鞍の上で揺れる荷物のようになっていて、聖騎士たちが呆れた目で見ているのは気づいていたが、遠慮はせずに馬を降りるのにニクラスの手を借りた。
そして、信じられないことに城に入るなり、軍議を開始するようだった。
千人の軍をどこに集め、どのように帝国に見つからずに進行させるか。荷駄の数、魔石の融通、それからリアンツァへの使者——決めることは山積みで、ホールにはもう地図が広げられている。クラリスも無言で皆についていき、席に着こうとしたが、ジルヴェスターに肩を押さえられた。
「クラリスは休んでくれ」
「で、でも」
「今日は集結の段取りだ。高原のことで何かあればその時に声をかけるから。」
有無を言わせない声だったが、正直、立っているのもやっとだったため、ほっとした。クラリスは頭を下げて、さっさとホールを出た。
扉の手前で、ちょうど入ってくるセラフィンとすれ違う。
背後に聖騎士を二人従え、すれ違う一瞬、視線がこちらに落ちる。会釈して通り過ぎようとして——クラリスは、足を止めた。
いま訊かなければ、次はいつ訊けるか分からない。
「あ、あの、クロア卿」
セラフィンが立ち止まった。
「お願いが、あります。……古代の土魔法について書かれた書物を、見せていただけませんか。その、防壁——バリアに関するものを」
凍った湖の色の目が、じっとこちらを見た。クラリスは、勇気を振り絞って続けた。
「わ、わたしは水場のことで、行軍に協力します。ですから、その、代わりというわけでは……いえ、代わりに、お願いできないかと」
彼の顔を見ていると、口がだんだんと恐怖で動かなくなる。この人は何か氷の魔法でも使っているのだろうか。クラリスは鳥肌が立ちながら冷や汗がでるという体験をした。
そして、セラフィンの目が、すっと細くなった。
「……交渉のつもりですか」
低い声だった。廊下の空気が、さらに二度ほど冷えた気がした。
「あなたの魔法式は、教皇聖下の名の下の行軍への協力です。対価を要求できる筋のものではない。あなたがたは我々に従って動く——そこに、交渉の余地はありません」
「す、すみませ——」
「それに」
セラフィンは、書類の束を抱え直した。
「我々は、同じ行軍を行う同志です。同志の頼みに、取引を持ちかけられるほうが心外だ。……欲しいものがあるなら、欲しいと言えばいい。それだけのことでしょう」
クラリスは、まばたきをした。
言われた意味が染みるまでに、一拍かかった。つまり——この人は不機嫌ではあるけど、断られては、いない。
「……古代の、土魔法の書物が、見たいです」
「部屋に届けさせます」
それだけ言って、セラフィンは背後の聖騎士に短く言いつけ、ホールへ入っていった。白いローブの裾が、扉の向こうに消える。
クラリスは、しばらく廊下に立ち尽くしてから、じわじわと胸が熱くなった。言ってみてよかった….なんといっても聖国の古代魔法にも触れられると思うと、胸が熱くなり、叫びたい思いだった。
夕刻、部屋の扉が叩かれた。
若い聖騎士がふたり、革紐で括った古書の束を、三つも抱えて立っていた。机に置かれたそれは、どれも背表紙の文字が掠れるほど古い。「返却は出立まで。汚損なきよう」とだけ言って、ふたりは音もなく去っていった。
クラリスは、暖炉に薪を足して、机に向かった。
——土魔法のバリア。
それに目をつけたのには、理由がある。
これまで自分が読み解いてきた古代の式——魔獣の探索魔法、対の石、灌漑も、水脈を探るのも、堰も、泥の沼も、思い返せば、すべて土魔法の系譜だった。そして古い書物を読むたび、うっすら感じていたことがある。光魔法や風魔法は、八百年かけて洗練され、いまの形に磨き上げられた。けれど土魔法だけは、磨かれないまま、途中で捨てられている。古代の書物には豊かにあった土の式が、いまの魔法書にはほとんど載っていない。
洗練されて残ったものと、洗練されずに消えたもの。
消えたほうにこそ、まだ誰も拾っていないものが埋まっている——それが、クラリスの読みだった。
そして、いちばん見たかったのが、バリアだった。
自分の無力さが許せなかったのだ。
オーガに睨まれた瞬間、足が動かず、火を掲げたまま、ただ立っていた自分。セラフィンが間に合わなければ、死んでいた。隣に立つと豪語しておいて、あの一瞬、わたしは、ただの守られる荷物だった。
いまのシールドが使えないことは、確かめるまでもなかった。ルークや聖騎士がいとも簡単に荷駄に張った、あの光魔法のシールド。式は頭に入っている。マナそのものを壁にする式だから、強く、速く、美しい——その代わり、マナを湯水のように喰う。ルークだから片手で張れるだけで、わたしの量では、手のひらほどの盾を数呼吸保つのがやっとだろう。あれは、持てる者の魔法だ。
でも、古代にあったはずのバリアは違うはずだった。
古書の頁を繰る。あった。土のバリア——地面を起こし、固めて、壁にする式。
材料は、土。そこらじゅうにある。マナは土を動かすためだけに使えばいい。マナそのものを壁にする光とは、根本から燃費が違う。わたしの量でも——足りる、かもしれない。
胸の奥で、あの感覚が疼きはじめた。灌漑の式を初めて読んだときの。焼印の裏の層を見つけたときの。誰も通らなくなった道の先に、まだ誰も拾っていないものが落ちている、あの感覚。
欠点も、すぐに見えた。遅い。地面から壁が起き上がるまでに数呼吸かかる。オーガの突進には、間に合わない。それに、魔法量を無駄に使っている。やっぱり予想通り。クラリスは興奮で思わず声を出して笑いそうになり、落ち着いて一度深呼吸をする。
気づけば、窓の外が藍色になっていた。
机には開いた古書が三冊、帳面には土の式の写しと、その余白を走る書きかけの線。まだ形にはほど遠い。けれど、道はある。捨てられた道の先に、確かに。
クラリスはペンを置き、両手を上げて、うんと伸びをした。凝った肩が、ぱき、と鳴る。
——今度あの黄色い目に睨まれたときは。
帳面の、書きかけの式を見下ろす。
——立っているだけでは、終わらないから。




