高原3
クラリスはしばらく呆然としながらも、特に速さを緩めることない聖騎士に必死についていく。ただ、手足の震えはなかなか収まらなかった。
ジルは何度も心配そうに振り返り、眉を寄せたかと思うと速さを緩め、クラリスの隣に並ぶ。
クラリスは風で流されていく涙の跡を急いで袖で拭った。
ジルヴェスターに心配をかけてはいけない。彼を守るために、彼の隣にいることを選んだのだと、震えながらも唾を飲み込む。
「私なら大丈夫です。ご心配をおかけしました。次からはシールドから出ないようにします」
そうなんとか言葉にすると、ジルは苦悩を浮かべた眼差しで馬を近づけ、何かを言いかけたが、ちょうどそこで斜面を登り切った。
斜面を登りきると、風が変わった。
木がなくなり、視界を遮るものが消え——それは、目の前にあった。
高原だった。
赤茶けた大地が、どこまでも続いていた。地面は乾ききって、亀の甲のようなひび割れが足元から地平まで走っている。草は、岩陰にまばらな灰色の株がしがみついているだけ。風が吹くたび、砂が地を這って流れていく。遠くに、雪をかぶった山脈がうっすら霞んでいた。
「……これが、ラーゲン高原」
この乾いた土地を千人の軍で一カ月以上進むことになる。
あまりにも壮大な光景に、壮絶な行軍が予想されれる高原だと分かっていても、心が落ち着いていくのを感じる。
「日暮れまで、時がない」
セラフィンが馬を止める。
「あの岩の下が風をしのげる。今日はあそこで確かめられますか。——できるのか、できないのか。それだけはっきりさせていただきたい。」
クラリスは高下の土を見ながら頷くと、岩の下まで馬を進める。馬を降りると、疲れなのか先ほどの怖さなのか膝ががくがくしたが、適当な窪地を見つけるとそこに近づいた。
ジルヴェスターをちらりと見ると、彼は眉を顰めていたが、クラリスを見ると、大丈夫だというように、余裕のある笑顔を見せた。
窪地は約二十メートルの楕円形だったが、この最も低いところまで降りると、ひび割れた地面に膝をつき、両手を土に当てる。目を閉じ、指先に力を入れ、網目上に水を探していく。
…どうやら本当に水脈はあるようだ。
クラリスはほっとし、鞄から、板を一枚出した。
砦の夜に彫った、五枚のうちの最後の一枚。四枚は砦の周りに埋め、これだけが使われないまま、鞄の底で旅をしてきた板だった。指でなぞると、果物ナイフの浅い彫り跡が、あの夜のまま残っていた。
——あなたの出番よ。ずいぶん待たせたけど。
いつのまにか緊張や疲れは消えていた。
窪みの底に板を沈め、マナを通す。
地の底で、式が水を呼ぶ。砦のときは、これですぐに泥になった。
……窪みの底の砂が、じわりと黒ずんだ。
濡れた。それだけだった。手のひらで触れると、湿った砂が指につく。水面には、ほど遠い。
——やっぱり。
落胆というよりは仮説が証明されていく喜びを感じる。砦は、もともと水気のある土地だった。ここは違う。水は深く、糸のように細い。同じ式では、量が、桁が、まるで違う。
帳面を開き、地面にあぐらかき座り込む。
式の第三節——水に「こちらが低い」と教える、傾きの節。砦の板は、緩やかな坂で足りた。ここは崖のような傾きにしなければ、深い脈の水は動かない。彫られた画数を数え、頭の中で傾きを起こしていく。四十五度を、七十五度に。節の三画を彫り足せば、書き換えられる。
——ただ、傾きを強めれば、その分マナを喰う。
そこが、本当の問題だった。
今夜一晩なら、自分のマナでも保つかもしれない。けれど本番は毎晩、一月続く。ルークに頼る手も、ない。彼のマナなら動くだろうが、意味がないのだ。行軍中のルークは、攻撃と回復に取っておかなければならない戦力で、水汲みに使い潰していい人ではない。
——魔法石一枚で、回る式でなければ、駄目。
クラリスは小さなペン型のナイフを出し、板の節を彫り直しながら、頭の隅で燃費の式を書き換え続ける。
彫り終えた板を、もう一度沈め、マナを通す。
すると、地面が反応する。
クラリスは慌てて、板を持って立ち上がり、窪みの淵に避ける。
窪みの底が黒く湿り、じわ、じわ、と水が滲み出して、砂と混ざり、泥になっていく。泥は嵩を増し、やがて窪みの底一面が、重く光る泥の沼になった。
「……おお」
誰かが、声を漏らした。
振り返ると、ニクラスが目を丸くし、ディートリヒが泥の縁まで歩み寄って屈み込んでいた。聖騎士の二人も、いつのまにか馬を降りて、窪みを覗き込んでいる。
セラフィンも、少し目を見開いていた。
ギリギリ淵に避けたクラリスは、どの視線も気にしていなかった。
——泥じゃ、駄目。
砦では泥でよかった。敵を沈めるための沼だったから。でも今度は、飲む水だ。千人と、三百の馬が飲む、澄んだ水。滲ませるだけでは足りない。もっと太く、もっと速く、水だけを、この窪みへ——
下流に、幕を張ろう。
水脈の、水が流れ去っていく側を、境界の式で塞ぐ。行き場を失った水は、管の中で膨れて、圧に押されて、ここに溜まっていくはず。
塞ぐだけなら、マナはほとんど要らない。魔法石一枚で、一晩でも保つ——
クラリスは、紙への下書きを省き直接予備の板に、境界の節を、向きを変えて彫り込む。
それを持って泥の中に進み真ん中で泥の中に板を沈める。
そして、そっとマナを、通した。
地の底で、流れが、行き止まる。
しばらくして、窪みの底が、ごぼ、と鳴った。
泥を割って、水が湧いた。
一筋ではなかった。底のあちこちから泡を立てて噴き上がり、ひび割れた赤茶けた大地の真ん中に、夕陽を映した水面が、見る間に広がっていった。
「……できた」
クラリスは膝下までを濡らしたまま、掠れた声で、呟いた。
泥水は大量の水で次第に泥が薄れていき、気づけばもう泉だった。舟形の浅い池に赤金色の夕陽が揺れ、風が水面に細かい皺を寄せている。馬たちが音をを嗅ぎつけて、ざわりと鼻を鳴らした。
ニクラスが叫び、ディートリヒが何度も頷いている。
ジルヴェスターを見ると、彼は口元を手で覆ったまま、目を見開いて泉を見ていた。それから、クラリスと目が合った。
彼はパッとクラリスを見ると、クラリスの泥と水がついた髪、濡れて体に張り付く服に素早く目線を移す。
すると彼は何も言わずに、ざぶざぶと急足で、水を割って入ってきた。長靴が沈むのも構わない、まっすぐな歩き方だった。
目の前まで来て、止まる。
泥がつき、濡れた髪を、大きな手が一度だけ撫でて、それから腰に腕が回り、抱き上げられた。冷えた体に、彼の熱が移ってくる。沈みかけの夕陽が彼の背から差して、金の髪が一本一本、光の糸のように縁取られていた。まぶしくて、目を細める。
彼は何かを言いかけて、やめた。言いかけては、やめて——結局、詰めていた息をゆっくり吐き出して、額をこつんと合わせてきた。
「……クラリス。ありがとう」
それから、身体に張り付く服を見て、他の騎士の目から隠すように、気づく抱きしめる。
「とにかく着替えよう。風邪を引く」




