高原2
その後も同じ速さでの行軍がつづいたが、突然山道が終わりに近づき、視界がひらけた。
低い灌木がまばらに生える、岩まじりの斜面だった。この斜面を登りきれば高原の縁に出る、と聖騎士のひとりが言った、そのすぐ後だった。
先頭のセラフィンが、片手を上げた。
「——左の茂み、ワーグの群れ。散開しろ。荷駄にはシールドを張れ」
一瞬で、隊列が変わった。
ジルヴェスターも素早く指示を出すとディートリヒとともに左へ馬を出し、聖騎士の二騎が地面へ降りる。ニクラスはクラリスと荷駄馬の前へ馬を回し、ルークが片手を振ると、荷駄の前の空気が薄く歪み、シールドがかかった。
聖騎士も手を上げるとシールドを後方の荷馬車にかける。
ジルヴェスターは後ろを振り返り、それを確認して、「クラリスを頼む。シールドの中にいてくれ」とニクラスに伝えた。
ルークも一瞬心配そうに振り返る。
「奥様は荷と一緒に。動かないでくださいね」
言い終わらないうちに、左手の茂みが揺れて、灰色の獣が飛び出してきた。
ワーグ。狼に似て、狼より一回り大きい魔獣だ。それが五頭、扇形に散らばりながら、こちらへ駆けてくる。
先頭の一頭がジルヴェスターに跳びかかった。彼は馬上のまま剣を一閃させ、獣は空中で二つになった。二頭目、三頭目はディートリヒと聖騎士たちがそれぞれ迎え撃ち、次々と倒していく。
クラリスは、騎士の強さと素早さに感心しながらも、必死にシールドの内側で荷駄馬の手綱を押さえていた。
戦闘の音に怯えた馬が棹立ちになり、杭が緩み荷が鞍から滑りかけている。水と食料と薬箱——この旅の命綱だ。両手で手綱を引き、なんとかなだめる。
そのとき、視界の隅で茂みが動いた。
六頭目がいた。仲間より小柄な一頭が、戦いの輪を大きく避けて回り込み、こちらへ——盾の張られていない、荷駄の背後へ近づいてくる。
「ニ、ニクラス!」
呼んだが、彼は正面の一頭と斬り合っている最中だった。
考えるより先に、手が動いた。腰の袋から板を一枚。マナを通し、暖房の式の熱の弁を全開にする。板の先で空気が膨れ、ぼっ、と腕の長さの炎が立った。野犬を追う松明の要領だった。
小柄なワーグは火を嫌がり、足を止めて後ずさる。
早く誰かが気付けばと思い、少し振り返った時だった。
斜面の少し上のほうで、岩だと思っていた黒い塊が、突然立ち上がった。
オーガだった。
熊を思わせる巨体は、立ち上がると馬上の騎士より頭ふたつは高い。手には石でできた大きな斧を持っている。黄色い目が谷を見渡し——クラリスの掲げた炎の上で、止まった。
火を、見ている。
オーガは前のめりに四つ足をつくと、斜面を駆け下りはじめた。巨体に見合わない速さだった。一歩ごとに地響きがして、みるみる大きくなる。狙いは、まっすぐこちら——火を持った自分だ。逃げなければと思うのに、足が地面に縫いつけられたように動かなかった。
「クラリス!」
ジルヴェスターの声。けれど彼は遠い。誰も、間に合わない——
すると突然、目の前のオーガの首に銀の鎖がかかった時思うと、鎖に引っ張られ、巨体が崩れ落ちた。
そして、次の瞬間には首が落ちた。
切れた断面から大量の血が吹き出す。
血まみれの胴体は勢いのまま数歩滑って、岩にぶつかって止まった。首は枯れ草の上に転がり、黄色い目は開いたまま、もう何も見ていなかった。
あれだけの巨体が赤ちゃんのように何も出来ず、殺されている。
恐怖でうまく息ができないまま、目を上げると、セラフィンクロアは特に息を上げた様子もなく、細く長い銀色の剣についた、オーガの血を白い布で拭いていた。
それから、クラリスの手の中でまだ燃えている炎に、目を落とした。
「……何をしているんですか?大丈夫ですか?」
クラリスは一瞬、心配されたのかと思い驚いたが、彼の視線が荷駄にあることに気づく。
「早く杭を直しておいてください」
それだけ言って、背を向けた。
気づけば、斜面は静かになっていた。ワーグは六頭とも斃れていて、ジルヴェスターが馬を飛び降り、駆け寄ってくる。
「クラリス……!」
「だ、大丈夫です。荷物も、無事です」
板の火を消して笑ってみせようとしたが、うまく笑えなかった。彼は何か言いかけて、飲み込んで、無言でクラリスの頭を胸に引き寄せた。鎧越しにに聞こえる早い心臓の音を聞いて気持ちが落ち着いていく。
恐怖なのか無力さからくる悔しさなのか、涙が止まらなかった。
「……はー、しかし」
ルークがシールドを解きながら、オーガの巨体を眺めて暢気な声を出した。
「聖騎士のマナの使い方は面白いですね。シールドはやはり光属性の魔法ですから神聖魔法で使えるんですね。」
聖騎士たちはもう馬に戻っていた。若い騎士が斃れた獣の焼印をひとつずつ検分して回り、短く頷く。それが済むと、何事もなかったように隊列が組み直された。
出発の合図は、いつもと同じ、セラフィンの片手だけだった。




