高原
昼の鐘が鳴るころ、城の前庭に一行は集まった。
荷は、来たときよりずっと少ない。天幕がふた張りに、寝袋、約十日分の食料と水、それにルークの薬箱。移動の速さを何より優先する、とあらかじめ言い渡されていた。着替えすら最小限で、クラリスの鞄には帳面と筆記具、そして暖房の板が数枚入っているだけだった。
昨夜、ルークが回復魔法をかけてくれたため、腫れていた手の赤みは引き、足の痛みも消えている。もっとも、と彼は薬箱を閉めながら言った。「治るのは傷だけです。体力までは戻りませんから、そこは誤解しないでください」。それでも体は、思ったより軽い。
聖騎士は三騎で、セラフィンも含め、騎士服の上から灰色のローブを着ており、あまり顔は見えないが若いようだ。こちらは五人。八騎の、小さな隊列だった。
セラフィンは馬の横に立ち、羊皮紙に書かれた地図を広げ、ジルヴェスターに経路を示していた。
意外にも馬に好かれているのか、セラフィンの馬は構って欲しそうにセラフィンに鼻を押し付けている。
ジルヴェスターは地図に目を落としながら頷いて、それから、ふと顔を上げてクラリスを見た。何か言いたげな、心配そうな目だった。
その理由は、出発して半刻もしないうちに明らかになった。
速さがまるで違ったのだ。
聖騎士の三騎は先頭を行くが、並足と駆け足の中間のような速さで、一定して、まったく緩まない。しかも道はほぼずっと山道で急な斜面が多い。どうやら山越でもしているようだった。
そして坂でも、石の多い道でも、速さが変わらない。クラリスの馬は必死についていき、クラリスは必死に馬にしがみついた。半刻で息が上がり、一刻で腿の内側が擦れて痛み出す。
——今までの旅は。
今までの半月は、わたしに合わせて、ゆっくり進んでくれていたんだ。
いまさらのように思い知った。誰もそんなことは言わなかった。ジルも、ディートリヒも、当たり前の速さのような顔をして、半月、この何倍もの時間をかけて歩いてくれていたのだ。
クラリスの願いも全く届かずに、昼を過ぎ、日が傾きはじめても、先頭の速さは変わらなかった。
息が上がり、使っていない筋肉を多く使ったためか身体中が痛かった。少しでいいから休ませてほしい、と言おうかどうか何度も迷ったが、言える空気ではなかった。
他の騎士たちはこれが当たり前で何も感じてないのか淡々と進んでいく。
ジルヴェスターだけが心配そうに何度か振り返る。
クラリスは、隣にいたいと豪語したことを思い出し、視線には気づかないふりをして前をゆく馬の尻だけを見ることにした。
山道はうねりながらどこまでも続いていて、先を見るたびに心が折れる。だから視界を狭くして、揺れる馬の尻と、その向こうの鞍の荷だけを見て、頭の中で式を組んでいた。式に集中すると何も考えずに済む。
陽が少しずつ暮れていく。
影が長くなり、風が冷たくなる。腿はもう感覚がなく、手綱を握る指が固まって開かない。
——もう、無理。
お願いだから、少しだけ休ませてください。その言葉が、喉のすぐ裏まで上がってきて、口を開きかけた、そのとき。
「クロア卿」
前で、ジルヴェスターの声がした。
「この辺りで休めないか。じきに日が落ちる」
セラフィンは馬を止めずに、ちらと空を見た。
「……もう少し先に、開けた場所がある。水も取れる。今日はそこで夜営としよう」
もう少し、が本当にもう少しであることを、クラリスは生まれてから最も強く神に祈った。
願いが届いたのか、その後すぐに馬は止まった。
野営地は、岩陰の窪地だった。
細い沢が走っていて、風が岩に遮られている。馬を止めた瞬間、クラリスは崩れ落ちるように鞍から降りた。
「奥様! 僕にお任せください」
ニクラスが飛んできて、手綱を取り、鞍を外し、荷を下ろしていく。申し訳ないと思ったがもはや体が動かなかった。よろよろと近くの岩まで歩いて、腰を下ろす。
目の前で、野営が組み上がっていく。
ディートリヒが天幕の位置を決め、ニクラスが杭を打ち、ルークが火の魔法で薪に一瞬で火を入れる。誰も彼も、あれだけ走った後なのに、てきぱきと動いている。馬たちは沢べりに繋がれ、袋の飼葉に鼻を突っ込んでいる。
——わたし、本当に、戦についていけるのかしら。
岩の上で膝を抱えながら、その考えがじわりと染みてきた。今日はたった一日。行軍は一月続く。今日ですらこの様なのに——
……考えるのはやめよう。
クラリスは頭を振って、立ち上がった。座り込んで不安を数えるより、動いたほうがいい。ちょうど、風に乗って、いい匂いがした。鍋だ。シチューの匂い。ふらつく足で、火のほうへ歩き出す。
「クラリス」
気づいたジルヴェスターが、鍋の向こうから顔を上げた。
「火のそばに座っていろ。とにかく休め。——ニクラス」
「はい、ただいま!」
言われるまま、火のそばの荷袋に腰を下ろすと、すぐに湯気の立つ椀が運ばれてきた。
汗が引いた体は、いつのまにか芯まで冷えていた。かじかんだ指を椀に回すと、熱がじんわりと染みて、指が一本ずつほどけていく。干し肉と豆と、何かの根菜のシチューだった。はふ、はふ、と息を吹きながら口に運ぶ。
疲れすぎて、空腹も感じていなかったはずだった。なのに、ひと口食べたら止まらなくなって、気づけば椀の底が見えていた。
「……よく食べるな」
ジルヴェスターが隣に腰を下ろして、革袋から葡萄酒を注いでくれた。
「飲めるなら、少しだけ。体が温まる」
ひと口含むと、喉から胃へ、細い火が通っていくようだった。ふう、と息が漏れる。
少し離れたところに、もうひとつ火があった。
聖騎士たちの火だった。三人は同じシチューの椀を持って、火を囲んで座っている。けれど、会話はない。セラフィンクロアは——椀を膝に置いたまま、火を見ていた。
炎が、あの顔を照らしていた。
昼間のまま、微塵も疲れの見えない顔。オレンジ色の光の中で、凍った湖の色の目だけが、揺れる火をじっと映している。その横顔は完璧な美しさで、クラリスは彼を通して聖女を想像した。聖女の血を引くというのだから、もしかしたら聖女もああいう冷たい美しさを持った人だったのかもしれない。
すると隣にいたジルヴェスターが、咳払いをし、食べ終わったなら寝ようと言って手を引いたため、慌てて食器を片付ける。
クラリスは、天幕が三つ張られていることに気づいた。
ふた張りのはずだった。荷を減らすために、そう決めたはずだ。よく見ると、三つ目のいちばん小さいのは、彼女の鞄のそばに張られている。
「……あの、これ」
「きみのだ」
ジルヴェスターが、こともなげに言った。
「女性はきみ一人だからな。ニクラスに、余りの布で張らせた」
クラリスは天幕をちらりとみて口を開いた。
「……ジルとご一緒、というわけには、いかないですよね。この人数ですし」
一人で寝るのが少し寂しいと思っただけで深い意味はなかった。ただの確認のつもりだった。
ジルヴェスターは、こちらを見た。
「僕は構わないが」
「え」
「聖騎士に声を聞かれてもいいのか?」
「———っ」
一拍おいて、意味が染みた。顔から火が出るかと思った。
「ひ、一人で大丈夫です! おやすみなさい!」
背後でジルヴェスターの笑う気配がした。振り向かずに天幕へ向かおうとしたところで、腕を取られる。
振り向かされて、額に、唇が触れた。
「……おやすみ、クラリス。今日は、よく頑張った。寝る前にルークに回復魔法をかけてもらってくれ。」
心配される言葉ではなく、褒めてもらえたことで、胸が熱くなった。
耳まで熱いまま小さな天幕に潜り込んで、毛布にくるまる。外では焚き火の爆ぜる音と、沢の音と、誰かが薪を足す気配。
体は棒のようなのに、目を閉じると、瞼の裏で式の線がまだちらちらと動いていた。明日もまだこの行軍が続く。
その前に眠りが来て、線ごと全部、闇に溶けた。




