聖国4
セラフィンが椅子を引いて立ち上がったとき、クラリスは思わず顔を上げた。これから行くというのだろうか。
ホールの細い窓は、もう藍色に沈んでいた。
「あの……もう、暗いですが」
セラフィンは片眉を上げ、そんなことを言われるとは思ってもいなかったのか、少し驚いた表情でこちらを見た。
「行く道が決まらなければ戦力も決まりません。すぐに調べる必要があります。だが、発つのは明日の朝です。——高原の入口までは、ここから四日かかります。」
明日と聞いてほっとしたが、四日かと胸が重くなる。当たり前のように言うが、この協議が終わった翌朝に発ち、四日馬を走らせ、また戻ってくるということだった。
ここまでの旅で、クラリスの足はすでに火がついたように痛く、手も赤く腫れ上がっている。
ジルヴェスターが、椅子の背から身を起こした。
「クロア卿。今日は、これで終わりだ。我々は半月馬に乗ってここまできた。続きは明日にしてくれ。出立も昼過ぎにしてくれ」
静かな声だが、反論は受け付けないとでもいうように、ジルヴェスターは立ち上がる。
セラフィンの視線が、ジルヴェスターからクラリスへ、ゆっくりと動いた。
彼は小さくため息をついた。
「部屋に夕餉を運ばせる。昼にはここを出立する」
それだけ言って、ローブの裾を鳴らして扉へ歩いていった。クラリスは意外な気遣いに驚いたが、連日の移動と休まず開かれた会議で何かを反応する力も無かった。
背後で聖騎士たちが無言で地図を巻きはじめる。
出て行かないアルダーン側を見て、司祭の一人が葡萄酒と簡素なパンを近くに置き、騎士について出て行った。
ジルヴェスターは、その背中をずっと目で追っていた。扉が閉まる音がして、ようやく息を吐く。
さっと椅子から立ち上がり、葡萄酒を銀杯に注ぐと机に浅く腰掛ける。
そして、こちらを向いた。
「クラリス」
低い声だった。凄みのある声で、これから言われることを想像したら背中から冷や汗が流れるのを感じたが、クラリスはこの機会を逃したくなかった。
「これ以上、踏み込むな」
「……ジル」
「協議に出ることは認めた。だが、聖騎士たちを信じたわけではない。クラリスが使われるような状況は作りたくないんだ。」
彼は右手で顔を押さえていた。怒るというより困り果てているのを見て、クラリスは一瞬たじろぐ。
「あの男の前で自分にできると言うのは、自分を差し出すのと同じだ。……分かって言っているのか」
クラリスは膝の上で手を握る。ジルヴェスターは信用できない聖騎士に司令官を渡し、危険な道を行こうとしているでないか。
それでいてクラリスを守ろうとする。
「わたしは、あなたに全部背負ってほしくないんです」
思ったよりまっすぐ、言葉が出た。
「あなたが一番危ないところにばかり行くのを、ただずっと見ているだけでいたくありません」
「それは僕の役目だ」
「なら、わたしの役目は何ですか」
ジルヴェスターが顔を上げた。
どうして彼は分かってくれないのだろうと胸が締め付けられる。あなたが私を守りたいと思う以上に、私も彼を守りたい。彼を守ってくれる人は今誰もいないではないか。
「守られて、待ってるだけですか? ……わたしは、それには耐えられません。私だってジルを隣で守りたい……できることはそんなに無いかもしれないけど……」
言いながら、でも私にジルを守るなんてことできないかもしれないという思いに囚われ、最後は声が小さくなる。
だがここで負けたら、ジルは危険な道を進まざるを得ない状況になり、それを私はひとり城で待つことになると思うと耐えられなかった。
「ジル……私はあなたを愛しています。あなたのために出来ることが少しでもあるなら、隣に居させてください」
顔を上げられずにいたが、ジルが返事をしないのを見て、ゆっくりと様子をみる。
すると、天井を見たり、口を押さえたりしているディートリヒ、ルーク、ニクラスが目に飛び込む。
顔が、一気に熱くなった。
「……あ、あの、いまのは、その」
「……本当に、覚悟はあるんだな」
ジルヴェスターの声が、少し掠れていた。
「…クラリス、きみが僕の心配をする理由がよく分からないが、僕が負けることは無い。今まで戦にしろ、魔獣にしろ一度も怪我をしたことはない。」
ジルの美しい眼差しがクラリスを捉える。
「だが、もしクラリス、きみがその能力を僕のために使ってくれるというのであれば、わかった。」
ジルヴェスターはクラリスに近づき、クラリスの長い茶色の髪を手に取る。そして、どこまでも完璧な灰色の瞳を向けたが、その瞳には熱い炎が映る。
「ただし、クラリス、きみには覚悟して欲しい。クラリスに自由を与えるのは僕の庇護下にあるという条件のもとでだ。もしきみが少しでも傷つくようなことがあれば、金輪際自由はなくなると思ってくれ」
「……はい」
クラリスは、ジルヴェスターのもと自由が無くなるような生活もいいと思い、素直に頷く。
「本当にわかっているのか…?」
ジルの、諦めたのか覚悟を決めたのか分からない雰囲気に、クラリスは口を開きかけたが、ジルヴェスターに止められる。
「周りに話の種を提供するつもりはない。」
クラリスは周りをみると、ニクラスは整った顔のままぽかんと口を開け、ディートリヒは口を抑え、ルークは白い目でこちらを見ていた。
クラリスは顔がみるみる赤くなる。
ジルヴェスターは小さく息をついた。
「クラリス、ラーゲン高原の話だが。」
沈黙を気にせずジルヴェスターが静かな声で話し出す。
「は、はい」
「本当に、できるのか」
灰色の目がこちらを見ていた。夫の目ではなく、王の目だった。
「明日の話ではない。千の軍を高原に乗せる話だ。……できないなら、いま言え。責めない」
ああ、とクラリスは小さく言い、帳面を開いた。頁を三枚めくって、書きかけの図に指を置く。クラリスの目が輝く。
「正直、わかりません。……でも可能性はあります。土地の状態が分からないのですが、水脈が流れていることを想定すれば、魔法式はおそらく前の戦の時に使った傾きをつけて水を流す方法でうまくいくと思います。前回は泥を作るのに角度を30度くらいにしましたが、それを例えば90度にして、それから……」
そこまで喋って周りが、尊敬なのか呆れなのか分からない目で見ていることに気づき、クラリスはわざとらしく咳払いをする。
「とにかく、出来るとは思いますが、確実ではありません。あと、魔石は欲しいです」
そう言ってルークの方を見た。
「聖国にいくらでもあるでしょう。くすねていきましょう。彼らも何か我々に隠しているようですしね。こちらも遠慮する必要はありません。」
隠している? クラリスは顔を上げる。確かに彼らは、長年に渡り、誰にも知らせず調査をしてきている。
ジルヴェスターは身を起こし、真顔に戻った。
「ルーク。何かわかったのか」
ルークは壁にかかる蝋燭の火をじっと見ている。
「そうですねえ、残念ながら今の所はっきりとしたことは何もわかりません。そもそもやはり腑に落ちないんですよね。魔人は、八百年前に討たれたはずです。討たれた、というのは——消えた、ということでしょう。僕が読んだ限り、どの記述もそうなっています。滅ぼしたと」
彼は本を開き、頁を繰った。
「なのに聖国は、魔人が戻ることを前提に八百年見張ってきたことになる。兆候を検知した、という言い方をする。……それに、あの地図。一体隠れて何の調査をしているのか。地図の点を見ていると、帝国にある神殿を中心に調査を進めているようにも見えました。帝国の神殿は聖国から分離されたものですが、そこに何か魔人の証拠でもあるというのか……」
クラリスは、聖国が全ての情報を共有しているわけでないことを思い出し、腕を手でさすった。彼らが全てを共有しない理由は何なのか、もしかしたら、彼らにはこの聖戦は、何か別の目的があるのかもしれない。
「とりあえず今日はもう休もう」
ジルヴェスターはクラリスをじっと見て言った。




