聖国3
紙が広げられた。
セラフィンが燭台のひとつを無造作に地図の隅へ動かすと、両脇の騎士が音もなく縁を押さえ、皺を伸ばしていった。灯りの輪の中に、大陸の西半分が浮かび上がる。
地図には、無数の印が書き込まれていた。それも高原の周りだけではない。帝国の内側にもいくつか印がある。
ジルヴェスターは、しばらく黙ってそれを見下ろしていた。
「……だいぶ長い時間をかけて調査をしていたという噂は、本当のようだな」
セラフィンは、答えなかった。
否定も肯定もせず、左手の中指を徐に触っていた。答える価値を認めなかったのか、答えられないのか——凍った湖の色の目からは、どちらとも読み取れない。
「帝国軍は、先の戦で二千を失った。だが本国には、まだ三千は残っているとみている。加えて魔獣の使役を勘定に入れれば、五千の軍と当たるつもりでいたほうがいい」
数字が、そのまま卓上に置かれた。誰も、すぐには口を開かなかった。
ジルヴェスターは椅子の背に体を預け、天井の梁のあたりへ視線を投げた。しばらく何かを思い出すように考えて、口を開く。
「……ああ。ただ、捕虜どもの証言によれば」
視線を戻しながら、慎重に話す。
「領主が抱える兵は、帝国の方針にまるで賛成していなかったそうだ。いくら数が多くても、あれは一枚岩ではない」
「前の戦では、半数が帝国直属、残る半数が領主らから集められた兵でした」
ディートリヒが引き取った。
「その半数を、丸ごと高原で失っている。領主側の反発は、いまごろ相当に強まっているはずです」
セラフィンは、少しだけ目を細めた。
「……なるほど。では、こちらの戦力を確かめよう」
それからしばらくは、兵の数と、兵糧と、道の話が続いた。
クラリスは帳面に写しを取りながら、目の前のやり取りが、想像とは違うことに驚く。
半刻前、たかだか八百年で廃れたか、と言い放った男である。頭ごなしに自分の意見を押し通すのだろうと身構えていたのに、理屈さえ通っていれば、この聖騎士は驚くほどあっさり引く。甘いと見れば容赦なく切り捨て、鋭いと見れば黙って呑む。神に近い場所にいるような顔をして、その頭の中は、恐ろしく現実的だった。むしろ——戦略家で、合理の人であるジルヴェスターとは、妙なほど噛み合っている。
隣で、ディートリヒがわずかに身を寄せてきた。
「ご心配には及びません、奥様」
囁くような声だった。
「陛下は根っからの戦略家です。盤の読み合いで陛下が誤られたのを、私はまだほとんど見たことがありません。……あの聖騎士も、それが分かるから聞いているのです」
「次だ」
セラフィンの指が地図を滑り、ラーゲン高原の上で止まった。
「結局のところ、道はここしかない。帝国が掘った水場を使う以外に、千の軍を進める手立てはないだろう。」
「聖騎士殿らは、帝国の調査には山沿いを行かれたはずです」
ぱっとクラリスから離れ、ディートリヒが口を挟んだ。
「その道は、いかがなのです」
「無理だ」
即答だった。
「あの道の先は、海沿いの山地を縫う。一頭立てでようやく通れる桟道が幾日も続く。荷馬車は論外、二頭並んでの騎行すら無理な区間がある。……巡礼の徒歩の道だ。騎馬の聖騎士数十人だけなら通れるが、大軍と荷駄は通れない」
ジルヴェスターの目が、鋭くなった。
「ラーゲン高原は、皮肉な話だが、軍が渡れることだけは証明されている。……だが、特定されている水場を辿るのは、罠にかかりに行くようなものだ」
指の背が、点の列を、こつり、と叩いた。
「水場の位置も、間隔も、向こうは五年かけて自分で決めた。どこで水を飲むかを敵に握られたまま、細く伸びた列で高原を歩く。……それを行軍とは呼ばない。山地を抜ける方がまだいいだろう」
「その場合は兵力を半分以下にしないと、進むことは無理だろう。奇襲なのか、よほどの戦略が無い限り勝ち目は薄いだろう。」
セラフィンも答えがないのか、それ以上は続けなかった。
広間が、静かになった。
クラリスは、じっと考えていた。
ちらりとジルヴェスターを見て、この人は、私を巻き込みたくないからラーゲン高原という選択肢を無理に外していることに気づく。
考えて、それから、もう一度隣を見た。
ジルヴェスターは、視線に気づいた。気づいて——何も言うな、というように、冷たい目を返しただけだった。
それを、無視した。
「どの程度、水場から離れれば、帝国から見つからないのでしょうか」
ジルヴェスターが、目を見開いた。
「——喋らなくていい」
腕を掴まれた。強い力ではなかった。けれど、有無を言わせない引き方だった。
分かっている。この人が何を恐れているのかも、この先で自分が何を言おうとしているのかも。
——それでも、わたしなら、できるかもしれないのだ。
セラフィンが、こちらを見た。
観察する目だった。今初めてそこにいることに気づいたかのように。
「二十里も離れれば十分だろう」
彼は、あっさりと答えた。
「ワイバーンの類は行動範囲が広い。高位の魔獣は、かつて魔人の使いとして報せの運び役にも使われたという。……だが、その程度であれば、その場で殺せば済む」
その場で殺せば済む。
砦の壁の上から見た、あの影を思い出して、胃が縮んだ。それでも、クラリスはセラフィンが急かすような表情をしたのをみて続けた。
「わたしなら、他の水脈を、すぐに見つけられるかもしれません」
声が、思ったよりも通った。
「それに——同時に、帝国側の水場の水を、涸らすことも、できるかも……」
最後は、隣からの冷たい視線に押されて、消え入りそうになった。
「水脈が見つかるのであれば、僕が掘り起こしますよ」
気だるげな声が、横から降ってきた。
いつのまにか本から顔を上げていたルークが、頁に指を挟んだまま、面倒くさそうに肩をすくめた。
「一箇所だけであれば、問題ないでしょう」
セラフィンは、答えなかった。
ただ、じっとクラリスを見ていた。長い、長い視線だった。まばたきひとつしない。蛇に睨まれた蛙、という言葉が頭をよぎって、クラリスは思わず目を伏せた。膝の上で、帳面の角を握りしめる。
やがて、椅子の擦れる音がした。
「——それでは」
セラフィンは、静かに立ち上がっていた。
「高原の、いちばん近い場所で確かめてみよう」




