聖国2
セラフィンは、横に控えていた聖騎士に二言三言、何かを短く指示すると、ローブの裾を翻して大階段の奥へ消えた。
入れ替わりに、灰色のローブの司祭たちが音もなく現れて、一行を城の中へ導いた。
ホールは、荘厳だった。白い石の柱が高い天井へ何本も立ち上がり、そのあいだの壁龕で、あの硝子玉の灯りが揺れもせずに灯っている。
だが美しくはあるが聖騎士の雰囲気と同じく鬱々としていた。装飾は少なく、聖女の国、という言葉から思い描いていた柔らかなものはなく、白く豪奢な柱が静かに高い天井まで続いている。
「女性のお部屋は、こちらの区画になります」
廊下の分かれ目で、司祭のひとりが袖で左を示した。ジルヴェスターが心配そうな面持ちでクラリスを見たが、クラリスは小さく頷いて、女性用の区画へと案内された。
通された部屋は、質素出会ったが清潔に保たれていた。寝台と、机と、椅子。敷布は糊が利いて真っ白で、床は磨き上げられ、暖炉には——もう、火が入っていた。旅装のまま近寄ると、薪はよく乾いた音で爆ぜて、部屋はしっかりと暖かい。続きの小部屋には、湯の張られた盥と手拭いまで揃えてある。
——どうやら歓迎は、されているらしい。
火の前で手を炙りながら、クラリスは妙な気持ちになった。ここまで、誰ひとり笑わなかった。番人も、聖騎士も、司祭たちも。この国では、聖職にある者は笑ってはいけない、という定めでもあるのだろうか。
ほっと息をついて、寝台に腰を下ろした——その途端、声が聞こえた。
「一刻の後、ホールへお集まりください」
案内してくれた司祭はまだそこにいたらしい。
「……い、一刻?」
湯を大急ぎで使い、髪を洗う。持ってきた替えのドレスを鞄から出すと、薄い布は案の定、見事に皺くちゃになっていた。火熨斗などあるはずもない。クラリスは少し考えて、ドレスの皺のところに湯を含ませた手拭いを当て、髪を乾かすあの板を近づけた。温い風が布を撫でるうち、皺は、まあまあ、伸びた。多少よれた気もするが——いいことにする。
髪は、結っている時間がなかった。乾かし、何とかうまくまとめられないかと2秒くらい格闘したがすぐに諦め、おろしたままにした。
帳面と羽根ペンだけを小さな鞄に入れ、部屋を出た。
司祭に連れられて歩く廊下は、来たときと同じ、白と灰色だった。
歩きながら、さっきよりも落ち着いて周りを見たすと、聖女の像や絵が全くないことに気づいた。
絵も、ない。八百年前の救い主の国なのに、その姿がどこにも描かれていない。壁龕にあるのは灯りだけで、祭壇のような場所にも、布の掛かった台があるきりだった。アウレリア聖国の信仰は今では旧教と呼ばれているらしいが(帝国が管理している信仰を新教と呼んでいる)、偶像を、崇めないものらしい。新教は何か女性を模ったものを掲げていることを思い出す。
美しかったという聖女を、少し見てみたかったのに——と思いかけて、クラリスはやめた。輝くばかりの聖女の絵があったら、自分はきっと、その隣に立つ八百年前の王も想像してしまう。金の髪の、輝くような。……ないなら、ないでいい。
案内されたのは、来たときのホールではなく、その奥の広間だった。
細長い部屋に、白木の長い机が一本、まっすぐに置かれている。天井は舟を伏せたような石の梁が並び、壁の高いところに細い窓が一列——外はもう暮れていて、硝子の向こうは藍色だった。耳を澄ませば、その窓越しに、あの低い呼吸のような波の音が、かすかに届いてくる。机の上には燭台が等間隔に並び、壁龕の硝子玉の灯りと合わせて、白い石の部屋を蜂蜜色に照らしていた。大きな暖炉がひとつ、部屋の端で燃えている。飾りといえば、それだけだった。旗も、紋章も、掛かっていない。
机には、食事の支度が整っていた。
これも質素ではあったが、久々のまともな食事を見て、口の中の唾が増える。魚の焼いたもの、豆の煮物、固いパン、それに葡萄酒。焼いた魚と香草の匂いが、石の部屋の冷たさを少しだけ和らげていた。
机の手前で、ジルヴェスターたちが立ったまま話していた。湯を使ったらしく、髪はまだ少し濡れて、簡素な黒い上衣に着替えている。葡萄酒の杯を片手に、ディートリヒと低く言葉を交わすその姿は、この白い城の中で、そこだけ色があるように見えた。
その脇で、ルークが分厚い本を広げていた。ルークはどこにいてもルークらしく、長い机に腰を掛け、器用に頁を繰っている。
「……それ、何を読んでいるんですか?」
「ああ、奥様」
ルークは顔も上げずに答えた。
「アルダーンから持ってきた本です。聖女と魔人について書かれた、いちばん古いやつ。せっかく本場に来たことですし、あちらの言い伝えと、答え合わせをと思いまして」
頁の上を、指がすらすらと滑っていく。古代語の書物を、まるで昨日の手紙のように読んでいた。
「……もう、普通に読んでいますね」
「奥様のおかげで、慣れました。好きこそ物の上手なれ、ということです。」
こともなげに言う。数ヶ月前まで一文字も読めなかった文字を、この人は「慣れた」で済ませてしまう。悔しいような、誇らしいような、複雑な気分だった。
どこに座るべきか、机の長さを前に迷っていると、
「クラリス、座ろう。」
机の真ん中あたりに適当に座ったジルヴェスターが呼んで、自分の隣の椅子を、当然のように引いた。
腰を下ろすと、彼の視線が、下ろしたままの髪に一瞬だけ触れた。何か言うかと思ったが、彼は何も言わず、ただ口の端をほんのわずかに緩めて、杯に口をつけた。……何も言わないなら言わないで、落ち着かないのだけれど。
扉が、開いた。
セラフィン・クロアが、聖騎士を数人従えて入ってきた。
先ほどの白いローブのままで、歩くたびに裾が石床を滑り、燭台の火が銀の髪の先で揺れる。細身であるが背は高く、足音がほとんどしない。左耳の黒い耳飾りだけが、白ずくめの中でひとつ、夜のように黒い。
整った顔には、疲れも、愛想も、何の温度もない。ただ、凍った湖の色の目だけが、灯りを受けて底光りしていた。
セルフィンは椅子を引き、悠々と座ると長い脚を組む。その格好は厳粛なローブ姿にあまり合わないと思いながら、クラリスはちらりのセルフィンを見る。その両隣にも同じくローブをきた騎士が音もなく座った。残りの聖騎士たちが、彼の背後に一列に並ぶ。
「——揃ったな。始めよう」
セルフィンクロアの冷たい瞳は、真っ直ぐにジルヴェスターをみる。
「教皇聖下の名の下に、伝える。我々はヴァルガリア帝国に魔人の関与ありと断じた。よって、協定の定めるところにより——聖戦を宣する」
聖戦。
古い、重い言葉が、白い広間に落ちた。
「協定に従い、総司令は聖騎士団の元、討伐の軍を聖騎士団及びアルダーン国の兵をもって編成したい。」
クラリスは、思わず息を呑んで隣を見た。
総司令官はそうなるとジルヴェスターではなく、このセラフィンただということになる。
ジルヴェスターは、動かなかった。杯を静かに机に置き、両手を組んで、まっすぐにセラフィンを見ている。驚いていない。この人は——こう言われることを、ある程度、予想していたのだ。
「——お待ちいただきたい」
声を上げたのは、ディートリヒだった。椅子から半分腰を浮かせている。
「参陣どころか、いきなり指揮権ごと寄越せとは、話が違う。アルダーンの兵は、アルダーンの王の下で動く。それが——」
セラフィンは、アルダーン王の許可なく発言したディートリヒに少し驚いたのか、片眉をあげた。だがすぐにもとの無表情にもどり、すっとディートリヒに向いた。声の温度は、変わらなかった。それが、かえって冷たかった。
「私は、あなたと協定を結んだ覚えはない」
クラリスは何か彼の厳粛な佇まいの中に、暴力的な何かを感じ、背筋が寒くなる。
彼の視線がゆっくりと、ジルヴェスターに移る。
「アルダーン王よ。……まさか、昔の協定だからといって、反故にするつもりではないだろうな。あれは国と国との約定ではない。神の使徒たる聖女と、アルダーンの王とが交わした、盟約だ。王の血を継ぐあなたが、知らぬはずはない」
セラフィンは、机に両手をつき、わずかに身を乗り出した。燭台の火が、凍った湖の色の中で揺れた。
「それとも——たかだか八百年で、アルダーンは、そこまで廃れたか」
広間が、静まり返った。
聖騎士たちは彫像のように動かず、司祭たちは壁際で目を伏せている。頁をめくる、乾いた小さな音がした。ルークだけが、この空気の中で、まだ本を読んでいた。
ディートリヒの顎に、力が入るのが見えた。何かを言い返そうと口を開きかけた、その腕を——
ジルヴェスターの手が、静かに押さえた。
彼は組んでいた手を解いて、背筋を伸ばした。
クラリスは隣に座る彼をちらりと見ると息を止めた。テーブル越しにセラフィンを見る目は恐ろしいほど冷たかった。怒りを抑えるように声を発する。
「盟約は、承知している。魔人が真実であるならば、アルダーンに、これを無視する道はない。——協力しよう」
短い返事だった。
セラフィンは、しばらくジルヴェスターを値踏みするように見ていた。
「……結構」
彼は机から手を離し、背後の聖騎士に頷いてみせた。聖騎士のひとりが、筒に入った大きな紙を机の上に運んでくる。
「では、早速——戦略の協議に入る」
紙が、机の上に広げられていく。
クラリスは、鞄から帳面を出しながら、ちらりと隣を見た。ジルヴェスターの横顔は静かなままで、ただ、机の下の手だけが、一度、固く握られてほどかれたのを、クラリスだけが見ていた。
クラリスは戦のことはよくわからなかったが、それでもこんなにも指揮系統が分裂している状態ではうまくいかないだろうと、小さくため息をついた。




