聖国
森の道は、七日目の朝、ふいに明るくなった。
木々の間隔が開いて梢の天井が薄くなり、足元の苔に久しぶりの木漏れ日が斑を落としはじめたかと思うと、道の先に、石造りの小さな建物が見えてきた。
礼拝堂のような、番所のような、灰色の石の館だった。屋根に小さな鐘楼がひとつ、壁に窓はひとつきり。入口の脇には、あの苔むした道標のひときわ大きなものが立っていた。
「どうやら、抜けたようですね」
ディートリヒが慎重に口を開く。
建物の前に、灰色のローブに深いフードをかぶった、司祭のような人が石像のように立っていた。一行が近づくと浅く礼をして、静かに口を開いた。
「聖国への文であれば、こちらでお受けいたします」
クラリスは、その低く静かな声の主が女性であったことに、小さく驚いた。
「いえ。我々はアルダーン王国の使節です。教皇聖下の書状により参りました」
ディートリヒが鞍から降り、手綱をニクラスに預けて敬礼をする。
司祭らしき人は少しだけ顔を上げたが、フードの奥は影のままだった。
「……ようこそ、長い道を。どうぞこちらへ」
番人は先に立ち、馬も使わず、急ぎもしない規則正しい歩みで歩き出した。少し先の、石で組まれたテーブルと椅子を袖で示し、こちらでお待ちくださいと言い残して、建物の中に消えた。
しばらくすると、馬に乗った騎士がふたり、建物の向こうから現れた。チュニックの上に番人と同じ灰色のローブを羽織り、フードを目深にかぶっている。優雅であるが、厳粛さがら滲み出ていて、口数のないその佇まいに、クラリスはなんとなく半歩下がった。
彼らは何も言わず、ただ目で、ついてくるようにと促した。
建物を過ぎると、道は長い登り道になった。
霧はまだ出ていたが、森の中のあの立ち込める霧とは違い、風に流されて千切れていく霧だった。そして頬に当たる空気に、嗅いだことのない匂いが混じりはじめる。湿っていて、少し生臭いような、それでいて清々しい——
「……潮の匂いですね。海が近い」
ディートリヒが誰にともなく言った。
海。クラリスは、鐙の上で少し伸び上がった。シェルナも内陸の国で、海は本の挿絵でしか見たことがない。
森のあの完全な無音も、いつのまにか終わっていた。遥か遠くから、どう、……どう、と、大きな何かが眠りながら呼吸をするような、低い規則正しい響きが届いてくる。
尾根の上で、聖騎士が立ち止まった。
「——アウレリア聖国にございます」
風が、霧を割った。
白い霧が左右へ流れて、眼下が開けた。
土地が、足元から海へ向かって大きくうねりながら落ちていた。冬枯れの丘がいくつも連なった、そのいちばん先——海へ突き出した岬の上に、白い都があった。
岬を取り巻く低い城壁から、段をなして積み上がる街並み、頂の城の尖塔まで、すべてが同じ白い石でできているらしい。その向こうには鈍色の冬の海が水平線まで広がり、低い陽を受けた一筋だけが、銀の道のように光っていた。
半月のあいだ黒い森と灰色の霧ばかり見てきた目に、その白と銀は痛いほどで、クラリスはしばらく、瞬きを忘れた。
「うわ……」
ニクラスが声を漏らした。ルークは無言だったが、青みがかった灰色の目が大きく開かれていた。ジルヴェスターも表情こそ変えなかったが、手綱を握る手が一度、握り直された。
とはいえ、都はまだ遠い。尾根から見下ろす白い街は、手のひらに載るほどの大きさしかなかった。
「ここから半日ほどかかります」
聖騎士はそう言うと、一行の反応を待つでもなく、馬を進めはじめた。
坂を降りるにつれ、都は少しずつ大きくなっていった。
昼近くには、石垣で区切られた段々の畑が現れた。冬の青物が並ぶ畝で腰の曲がった老人が鍬を入れていて、通りかかる一行に気づくと、鍬を置いて深々と頭を下げた。道はいつのまにか石畳に変わり、荷車の轍が刻まれ、白壁の農家がぽつぽつと増えていく。振り返れば、越えてきた丘の上に、黒い森の線がもう遠かった。
陽が傾きはじめたころ、ようやく門の下に着いた。見上げる白い壁は、遠目の優美さからは想像もつかない厚みで——その開かれた門の奥から、音が、洪水のように押し寄せてきた。
賑わっていた。
拍子抜けするほど、普通に、豊かに、賑わっていた。
門の内側はすぐ市場だった。見たこともない大きさの魚が屋台の台で銀色に光り、海藻の束と貝の山と塩の樽が並び、焼いた魚の香ばしい煙が海風に横へ流されていく。呼び込みの声と値切る声が重なり、その間を子供たちが笑いながら走り抜ける。白い石の街並みには洗濯物と色とりどりの日除け布がはためいて、遠目にあれほど静かに見えた都は、近づいてみれば、どこにでもある港町の顔で生きていた。
「……普通の、街ですね」
ニクラスが拍子抜けした声で呟いた。きょろきょろと首を回しすぎて、鞍の上で危うく体勢を崩している。
「何を想像していたんだ」
ディートリヒはそう言うものの、当人の目も、抑えきれずに市場を彷徨っていた。
「え、いや……全員白いローブで、お祈りしながら歩いてる、みたいな」
「僕もです」
めずらしくルークも真顔で同意した。
だが、街の空気は、一行が進むにつれて変わっていった。
先導の聖騎士と、門で合流した二騎の聖騎士——それに気づいた者から順に、市場の喧騒が、さざ波の引くように静まっていくのだ。
魚を捌いていた屋台の主は包丁を置き、前掛けで手を拭いながら道の端へ膝を折った。買い物籠の女は値切りの言葉を呑み込んで壁際へ下がり、頭を垂れる。何人かは、胸に提げた首飾りのようなものを、祈るように握りしめていた。
聖騎士たちは、左右のそれらに一瞥もくれず、歩みも緩めずに進んでいく。
クラリスは、道の脇に膝を折る人々を見るともなく見た。前をゆく聖騎士の、背筋の伸びた優雅な騎乗を眺めながら、思考を巡らせる。この国で彼らは、貴族階級にあたるのだろうか。それとも、司祭のような扱いなのだろうか。
道は、段の街を折れ曲がりながら登っていった。
一段上がるごとに街の音は遠くなり、建物は古くなっていく。
最後の門をくぐると、音が消えた。
城の前庭だった。白い石畳がしんと広がり、その先に、尖塔を頂く白亜の城が冬の空を背に立っていた。近くで見上げる城は遠目の優美さとは別物で、クラリスは思わず息を呑んだ。窓は高く狭く、壁は厚い。これは、宮殿の形をした砦だった。
そして、正面の大階段の下に、階段の手すりに寄りかかるように人が立っていた。
肩下まで伸ばした銀の髪。左耳に黒い耳飾り。
セラフィン・クロアは、あの会議の日と寸分違わない立ち姿だったが、今日は他の聖騎士と同じ長いローブを纏っていて、その姿は陰鬱でありながらも優雅で美しく、変わらず騎士には見えなかった。
凍った湖の色の目が馬上の一同を順に検分し——最後に、クラリスの上で一拍だけ、止まった。
「問題なく着けたようですね。ここでは、勝手な行動は控えてください」
それが、聖国の地での、最初の挨拶だった。




