古の森
翌朝、ラウレンツは約束通り、一隊を率いて森の入口まで送ってくれた。
砦から西へ半日。畑が絶え、牧草地が絶え、丈の低い灌木の原に変わったころ——それは、唐突に現れた。
森だった。
丘の連なりを、黒々とした樹冠がどこまでも覆っている。手前の枯れ草の原との境目は、刃物で引いたように、はっきりしていた。境目のこちら側は、冬枯れの黄色。向こう側は、艶のある濃い緑。まるで季節の違う二つの国が、そこで縫い合わされているようだった。
そして、境目のところに、石がひとつ立っていた。
人の腰ほどの高さの、四角い石柱。全体が厚い苔に覆われ、少し傾いている。同じ石柱が、森の奥へ、点々と続いているのが見えた。
「巡礼の道標です」
ラウレンツが馬を寄せて言った。
「昔々、聖女様の御国へ詣でる者が、これを頼りに歩いたそうで。……いまとなっては、辿る者もおりませんが」
彼は森を見上げ、それから、めずらしく真顔になった。
「皆様ご武運を…奥様も….陛下を頼みますよ」
ラウレンツはにやりとした笑顔を向けた。
一歩くぐった瞬間、空気が一段と冷たくなった。
外の冬の冷たさとは質が違い、深い井戸を覗き込んだときのような、底から静かに立ちのぼってくるような冷気を感じる。
また、湿った苔と、古い木の皮と、土の下で何かがゆっくり朽ちていく、甘いような匂いが広がる。何となく書庫の匂いと似たものを感じ、胸いっぱい息を吸うと、冷たさで肺が刺されたように痛む。
一同は馬を進めていくのは、馬の蹄が苔を踏む音だけが響き、その音さえ、森に吸い込まれていくようだった。
「……静かですね」
背中をピンと伸ばしたニクラスが囁いた。誰も命じていないのに、皆、自然と声をひそめていた。
「獣の気配が、まったくありません。」
「だから聖域と呼ぶのでしょうよ」
ルークが梢を見上げたまま応じた。眠たげな目が、めずらしく開いていた。
「しかし、妙ですね。獣がいないのに、下草が伸びていない。道が、苔だけで保たれている。八百年、誰も手入れしていないはずの道が、です」
言われて、クラリスも足元を見た。
道標から道標へ、確かに「道」が続いていた。木の根は道を避けるように走り、苔は絨毯のように均一で、その苔の上に、今朝降りたらしい霜が、細かい銀の粉を吹いていた。
あまりに美しい光景にクラリスは見惚れていた。
そして不思議と、木々の間の暗がりから、梢の上の見えない高みから、静かな視線が注がれている気がしてならない。ただ、じっと、こちらを検分している視線。襟巻きの上から、首の後ろの産毛が立つ。
霧が出たのは、昼を過ぎたころだった。
谷筋に白いものが溜まりはじめ、みるみる濃くなった。十歩先の道標が滲み、二十歩先は白に溶けた。世界から色が抜けて、黒い幹と、白い霧と、足元の緑だけになる。
ディートリヒが先頭で馬を止め、隊列を組み直した。道標から次の道標へ、一本ずつ確認しながら進む形に。
そして、ジルヴェスターは自分の鞍から縄を解くと、馬を寄せてきた。
「クラリス」
「え?」
答える前に、彼はクラリスの馬の手綱に縄の端を結び、もう一端を自分の鞍の輪に固く結んだ。
「これでいい」
「……ありがとうございます」
「霧の中で妻を見失う趣味はないからな」
寒い中でも長く馬に乗り少し汗ばんできた頃、先頭を進んでいたディートリヒが馬を止め、ここに今日は野営しましょうと言った。
道標のそばの、わずかに開けた窪地。そして、そのすぐ先の岩陰に——泉があった。
岩の根から水が湧き、小さな水面を作って、細い流れになって森の奥へ消えている。霧の中でそこだけ、水音が静かに立っていた。覗き込むと、底の小石が数えられるほど澄んでいて、水面には梢の切れ間の、白い空が映っていた。
「ここの水を使わせてもらおう。」
ジルヴェスターが指図し、兵たちが水を汲みはじめた。
夜になった。
焚き火が、いくつも焚かれた。
焚き火は燃え上がるとぱちぱちと暗闇に舞い上がり消えていく。
クラリスは、自分の仕事を着々と進める。手のひら大の暖房の板を、天幕ごとに一枚ずつ配って回る。板を受け取った兵たちは、両手で押しいただくようにして、子供のような顔で持ち帰っていった。
そして、皆が夕餉を終えたころ。
クラリスは、そっと野営の輪を抜け出した。
行き先は、泉だった。一日中、馬に乗り続けたためにかいた汗は馬の臭いと一緒になり、毎日耐えがたいものになる。少しでも洗い流したい。
神聖な泉とかじゃありませんように….と少し願った。
岩陰に膝をつき、袖をまくって、水に手を入れる。だが、石鹸を使うことは躊躇われたため水だけで流すことにした。
冷たさが、骨まで刺さった。思わず声が出かけて、飲み込む。それでも構わず、首筋を拭い、腕、脇の下、顔を丁寧に泉に濡らしたタオルで拭く。冷たさで肌がじんじんと熱くなる。ただ、赤く腫れた手や足は冷たさで痛さが和らいでいく。
息を整えて、顔を上げたとき——
泉の反対側に、人がいた。
心臓が止まりかけた。悲鳴を上げる寸前で、それが誰か分かった。
ジルヴェスターだった。
上衣を脱いで岩に掛け、同じように水を使っていた。掬った水を肩から流し、濡れた手で髪をかき上げる。ちょうどそのとき、梢の切れ間から、霧を透かした月の光が、細く泉に落ちた。
銀色の光が、水を弾く肩の線を、喉を、伏せた睫毛を、順に照らした。白い肌から薄く湯気が立って、光の中で輝きながら消えていく。
息が、止まった。
まるでそれは、聖教の書に描かれる軍神ヴェリオンだった。光を纏って地上に降り、剣ひとつで夜を裂いたという——神殿の天井画のあの姿が、目の前の泉に立っていた。
見とれていた。呼吸も忘れて。
「————クラリス?」
気づいたジルヴェスターの目が、驚きに見開かれた。
彼は岩に掛けた上衣をさっと掴むと、袖を通しながら、泉を回り込んで大股に近づいてきた。濡れた手が、クラリスの二の腕を掴む。
「なぜここに——一人で来たのか」
「あ……」
「霧の夜だぞ。声の届かないところに一人で出るなと、あれほど——見張りにも言わずにか?」
「ご、ごめんなさい。その、どうしても洗いたくて……で、でもジルこそ、お一人では」
「僕はいい」
彼は毒気を抜かれたように息をつき、それから、クラリスの少し濡れた髪と、まくれた袖と、寒さで赤くなった指先を順に見た。眉間の皺が、深くなった。
「体が冷え切っている」
「へ、平気です。それより、あの——」
「あとだ」
言うなり、膝の裏に腕が入った。
視界がぐるりと回って、気づけば抱き上げられていた。
「じ、ジル!? 歩けます!」
「知っている」
「兵の皆さんに見られます……!」
「見せておけばいい。妻を運んで悪い法はない」
抗議はすべて無視された。彼は片腕でクラリスを抱えたまま、焚き火の輪の外側を回って、天幕まで歩いた。見張りの兵が一人、直立不動のまま、視線だけ必死に明後日の方へ向けているのが見えた。
天幕に降ろされると、クラリスはまず、濡れた髪をなんとかした。
荷物から板を一枚出して、マナを通す。ふわ、と温い風が板から立ちのぼり、髪のあいだを通り抜けていく。数十を数えるうちに、髪はさらさらと乾いた。
ジルヴェスターが、それを見て、声を出して笑った。
「……乾かす式まで作ったのか」
「リタが、濡れ髪で寝ると翌朝大変なことになると言うので。暖房の式の、風向きを変えただけです」
「きみの式は、戦を止めたかと思えば、髪を乾かすのか」
彼は笑いを収めて、それから、荷物の中から櫛を取り出した。
「では、乾いたところで——僕の仕事だ」
「え?」
「後ろを向いて」
戸惑いながら背を向けると、櫛が、髪の裾からゆっくり入ってきた。強く引かない。絡まりに当たると、指で毛先からほどいて、また通す。驚くほど優しい手つきだった。
「……昔、妹の髪で覚えた。乳母には、王子のすることではありませんと叱られたが」
クラリスは、前に見た若くして隣国に嫁いだジルヴェスターの妹の写真を思い出す。とても綺麗な金色の髪だった。
「お上手です」
「だろう」
外では焚き火が爆ぜ、火の粉が見えない天井に吸われて消えている。深い霧の森の底の、この小さな布の中だけが、世界でいちばん温かい場所のような気がした。
「旅のあいだ、これは僕の仕事にしよう」
櫛が、最後までするりと通った。
「……髪を洗うのも、乾かすのも、梳かすのも、ぜんぶジルの仕事になってしまいます」
「いい仕事だ。手放す気はない」
髪のひと房に、唇が触れた——気がした。
振り返ったときには、彼はもう何食わぬ顔で櫛を仕舞っていた。
今夜だけは、この静けさは、悪くないものだと思った。
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