西へ
北西の砦までの道は、慣れたものだったが、前回とは異なり、早い冬が始まっていた。
クラリスは首に巻いた襟巻きを口元まで上げ、馬を進める。先頭を行くジルヴェスターが心配そうにちらりとクラリスを振り返ったので、何でも無いというふうに笑顔を返す。
他方、ニクラスもクラリスのすぐ横に馬をつけ、寒くはないか、手は痛まないかなど半刻毎に心配してくる。
ルークによると、ニクラスは今回の遠征からは外される予定だったらしいが、奥様の護衛役は自分だと大騒ぎし無理やり入ったらしい。
そのため、クラリスは望まぬ遠征に巻き込んでしまったことを少し申し訳なく感じ、寒く、手も痛かったが、ニクラスに曖昧な笑顔を返していた。
刈り入れの終わった畑が両側に流れ、藁を積んだ荷車とすれ違うたび、農夫たちが道の脇に寄って頭を下げた。「視察」の触れの通り、ジルヴェスターは時々馬を止めて、村長の話を聞いていた。
村長たちは神に拝むかのようにジルヴェスターにお辞儀をしていた。クラリスはそれを見て、そうしたくなる気持ちも分かるなと完璧すぎる横顔を見てため息をつく。
そうして、あっという間に、西部の丘が見えてきた。
「——あれが、二つ目の砦ですか」
街道の右手、半日ほど先の丘の上に、組みかけの足場と、積み上がりはじめた石壁が見えた。まだ壁は人の背ほどだが、縄張りの広さで、完成後の大きさが知れた。
その脇を通り過ぎようとしたとき、普請場から騎士がひとり、駆け下りてきた。
小隊長格らしい、若い騎士だった。土埃のついた顔のまま一行の前で膝をつき、口上を述べる。ジルヴェスターが馬の上から普請の進みをいくつか問い、騎士がきびきびと答えた。
それから騎士は、退がりぎわに、クラリスへ挨拶に来た。
「奥様も、ご健勝で……何よりで、あります」
クラリスは、わざわざ挨拶をしてくれたことに目を開き、思わず笑顔になった。すると、騎士は不意に言葉に詰まり、耳まで赤くなって、深く頭を下げた。
クラリスは、少し首を傾げた。輿入れのころ、視線はいつも、値踏みか嘲りだった。それがいつからか、種類が変わっている。
すると、なぜかすぐ後ろにいたディートリヒが馬を進め、クラリスを隠すように間に入った。騎士の姿が見えなくなり、クラリスは、ディートリヒが馬の操作を間違えたのかと訝しげに彼を見るが、そうでもないらしい。
隣で、ジルヴェスターが咳払いをひとつした。なぜか若い騎士は飛び上がるように礼をして、普請場へ駆け戻っていった。
北西の砦は、見違えていた。
崩されていた西壁は積み直され、継ぎ目の新しい石が白く目立つ。物見櫓は一段高くなり、門扉は鉄帯で補強されていた。壁の上を歩く兵の数も、あの籠城のときとは比べものにならない。増員された兵たちが、中庭で隊列を組んで訓練していた。
ルークは外門をくぐるなり馬上で手を上げ、目を瞑り、「……結界も、無事ですね」とだけ呟いた。
砦の内門の前でで馬の鞍から降りようとすると、すでに馬を降りていたジルヴェスターが、クラリスの腰を支えて降ろし、さりげなく顔にかかった髪の毛をどかす。
「疲れてないか」
ジルヴェスターはクラリスの手袋を外し、その下の赤くなった指、手を開いたり閉じたりしながら入念に見る。
クラリスは少し腫れた手をぱっと隠す様に背中に持ってくると、「大丈夫です。ここまでの旅は慣れてますから」と明るく返した。
ジルヴェスターは何かいいたげにじっとクラリスの様子を見下ろし観察したため、クラリスは冬の寒さの中でも身体が熱くなるのをかんじる。
そこに、石段をラウレンツが大股に降りてきた。
「これはこれは。今日も仲の良いことで。……戦が済んだ途端にお見限りで、北西の者は皆すっかり拗ねておりましたぞ」
相変わらずの巌のような体に、新しい砦司令の外套を着ていたが、その髭面はもう緩みきっていた。
「よく、ご無事で……いや、それはこちらの台詞ではありませんな。ようこそ、北西の砦へ。……壁も、兵も、あのときとは別物です。どうぞ、ご覧になってください」
そして、いつも冗談ばかり言っているその男は、わざわざクラリスのもとに来ると、わざとらしく片膝をついた。
「奥様も、ご無事で何よりです。……あっという間に、レディになられましたな」
茶色の瞳は、まっすぐクラリスを見て、ニヤリと笑った。クラリスは、その本気とも冗談ともつかないラウレンツの表現に少し困惑しつつ、小さく、ありがとうございます、と答えた。
「宿は、町のほうにご用意しておりますが——」
ラウレンツは、先に立って歩き、声を鋭くする。
「その前に、水場の調査の共有を。……偵察隊が、三日前に戻りました」
ジルヴェスターは、ああ、とだけ言い、目線で指示すると、一行は砦の中に入った。
通りすがり何人かの騎士とすれ違ったが、全員がジルヴェスターをみると顔に緊張と尊敬の眼差しを向ける。
砦の作戦室は、あの籠城の夜に図面を広げた、あの部屋だった。
机の上に、偵察隊の描いた図面が広げられる。ラウレンツが近くの騎士に素早く指示すると、水差しから杯に水が注がれ、簡単な料理が用意された。
一同に配られ、クラリスも、銀の桶で手を洗い、遠慮なく目の前のハムのサンドウィッチに手を伸ばす。
ラウレンツはその様子を満足そうに見た後、ひと口水を飲んでから、図面の前に立った。
「いちばん手前の水場です。高原に入って、二日目の地点。往復の日数を考えると、偵察隊が検められたのは、ここまでですが——まず、井戸から」
太い指が、図面の断面図を叩いた。
「深い。縄を下ろして測ったところ、大人の背丈で二十人分。岩盤を刳り抜いて、内側には石が積んであります。桶と轆轤の巻き上げ式で——井戸そのものは、生きております。底に、水もありました。地の底の水は、涸れてはおりません」
「使える状態か」
ジルヴェスターの問いに、ラウレンツは杯を置いた。
「井戸は、使えます。ただ、貯蔵のほうが」
指が、井戸の脇に描かれた半地下の構えに移る。
「兵糧の貯蔵庫がありました。堅パンと干し肉と豆の木箱が並べてあった痕跡……ですが、ほぼ空です。残っていたのは、湿気てだめになった数箱だけ。先の行軍で、食い尽くしたまま、です」
「兵糧が空、というのは重要ですな」
ハーゲン不在の分を埋めるように、ディートリヒが口を開いた。
「ああ。だが、二千という大軍でなければ食糧は難なく運ぶことはできるだろう。」
ジルヴェスターは、図面から目を上げなかった。
「水場がまだ使えるのであれば、帝国が同じ道を使う可能性は十分にある。…だが、帝国側もこのルートはすでに我々に露見していることは認識しているはず。無闇に使うことは考えにくい。」
ラウレンツが顎に手を当て考えながら話す。
「逆に我々もこの道を使うこともできますでしょうか」
ジルヴェスターは地図を見ながら何かを考え込む様に黙っていたが、クラリスをちらりとみて地図に目線を戻すと口を開けた。
「そうだな。水場を順に壊してしまい、帝国の進路を阻むことも一つだが….我々が活用する可能性も考えてしばらくは手をつけないでおこう。そうすれば、我々も水場を新しく作る必要も無く、進軍できる」
クラリスは、ジルヴェスターを見た。それでは、敵が把握しているルートを通ることになり、罠にかかりに行く様なものではないのか。
だが、ジルヴェスターはこちらを見ることもなく、目線でラウレンツに次を急かした。
ラウレンツがハッとしたようなく顔を一瞬すると、すぐに続けた。
「周りの地形も描かせました」
ラウレンツの指が、図面の端に移った。井戸を中心に、小さな丸がいくつも散っている。
「これは全部、掘って外れた穴です。埋め戻しもせず、そのまま。この一箇所だけで、十七ありました。あ、いや正確には当たりはもう一箇所あったものの場所が不便で使われなかったようです」
当たりの水場を指しながら話した。
十七。
クラリスは、散らばる丸をじっと見た。
外れの穴は、当たりの井戸の周り数キロメートルに、ばらばらに散っていた。
あたりと外れに規則がある様には見えない。
帝国は、当てたのではない気がした。当たるまで、掘っただけだ。二十人分の深さの穴を、十八個堀り、二箇所当てた。それを、五年。
しかもラウレンツたちが見た水場は一番アルダーンに近いところで、それはつまり帝国から一番遠いところになる。水場の掘り当て方も相当に慣れてたはずだ。
クラリスは水脈が血管のようにラーゲン高原の下を流れていることを想像した。多分水脈を見つける魔法を工夫すれば適切な場所を見つけられる。それにもし水脈が繋がってるなら——とまで考えたところでラウレンツが両手を打ち合わせた。
「——さて」
空気を変える音だった。
「難しい話は、ここまでにいたしましょう。町に夕餉の支度をさせております。今夜は、砦の酒でも……と言いたいところですが、明日は森の入口までお送りいたしますゆえ、ほどほどに」
立ち上がりながら、彼はようやく、言いたかったらしいことを言った。
「さて、陛下。みんなが陛下とお会いできることを楽しみにして朝からうるさいので…剣術指導は難しいでしょうが、夕食はご一緒にできると。奥様も前回は倒れてしまい、そのあと陛下となかなか部屋から出てこないものですから….皆の衆楽しみにしてますよ」
クラリスは顔を赤くし、ラウレンツのニヤリとひた顔を睨む。
前回は戦の後始末で宴も何もなかったじゃないかと思ったが、言い合ってもいい結果にならない気がしたため黙っていた。
窓の外、西の空の低いところに、夕日を受けた丘の連なりが見えた。
その向こうに、黒々とした森の線が、静かに横たわっていた。
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