始まり2
密書に記された協議の日から逆算すると、遅くとも七日のうちには発たねばならなかった。
その晩のうちに、ジルヴェスターの執務室に主だった顔が集められた。
燭台の火が、机の上の白い書面を照らしている。
聖国に誰が行くかということを早急に議論するために、城にいる主要な騎士が集まっていた。
ジルヴェスターは書斎の椅子に座り、騎士たちは、手持ち無沙汰ながらも、緊張を隠すかのように中央のテーブルに寄りかかったり、壁の地図を見たりしている。
全員が無表情でいようと努めているようではあったが、騎士たちは帝国との戦の可能性、さらには聖国への道に、興味と興奮で目が光るのを抑えられていないようだった。
ジルヴェスターは書面の端を指で一度揃えてから、顔を上げた。
「留守は、ハーゲンに預ける」
ハーゲンは瞳に少し落胆の色を見せながらも、予想していたかのように頭をかく。中央テーブルの椅子から立ち、上着の裾を引いて正すと、深く頭を下げた。
「承りました。……ミラを補佐に付けていただければ、城のことは何も案じられませんよう」
「そのつもりだ。ディートリヒ、ルークは連れて行く」
ディートリヒは目を伏せて頷いたが、口角が上がっていた。
「閉じられた歴史、神聖魔法に触れられるかもと思うと、堪りませんねえ」
ルークは隠すことなくそういうと、浅く中央テーブルに腰掛けたまま、手を頭の後ろに組んだ。
「護衛は精鋭を六騎。人選の残りはハーゲンに任せる」
名を呼ばれる者が決まっていくのを、クラリスは部屋の隅で聞いていた。
呼ばれない。
自分の名前だけが、いつまでも呼ばれない。膝の上の手が、スカートの布を知らず知らず握り込んでいた。
「では、出立の日取りだが——」
「あの」
気づいたら、声が出ていた。
部屋中の目が、こちらを向いた。クラリスは握っていた布から手を離し、皺を伸ばすように一度撫でてから、立ち上がった。
「わたしも、行きたいです」
ジルヴェスターの表情が、止まった。
「……クラリス」
「協議の場に、です。参謀のひとりだと、言ってくださいました」
「今回は、遠い」
彼は手元の書面に目を落とした。
「往復で半月。野営も続く。着いた先は、誰も中を知らない国だ。……城で待っていてくれ」
いつもなら、そこで引き下がったかもしれない。
けれどクラリスは、この数日、ずっと考えていたのだ。ラーゲン高原に置かれた、赤と青の印を。
だから、言った。
「……どんな議論をされるのかは、わかりません。でも」
一度、息を吸った。
「皆さん、高原を越えるとき——わたしの力が、必要だと思っているんじゃ、ないんですか」
部屋が、静まり返った。
ジルヴェスターが、ゆっくりと顔を上げた。
そのグレーの瞳は暗く、怒りとも違う切迫さを映していた。
ジルヴェスターは、あの水場の地図を前にしたときから、いや、もっと前から、水のない高原を想像したとき、クラリスの能力の活用が頭に浮かんでいたのは明らかだった。
だが、クラリスの安全を考え、巻き込まないためにも、そのことを口にしなかっただけだと、クラリスは今確信する。
何かさらに言いたかったが、ジルヴェスターの凍るような空気に言い淀む。
助けを求めるように、周りを見る。他の騎士たちも、多少なりともクラリスの必要性を感じているのではと思いったが、彼らはこの会話に巻き込まれたく無いと強く願っているのか、全員がわざとらしく下を向いたり、窓を見たりしていた。
沈黙を割ったのは、ルークだった。
「まあ、そこは、その通りですよね」
気だるげな声が、あっさりと言った。彼は椅子の背にもたれ、天井に向かって続けた。
「水場が使えるかどうかも不明、涸れていれば掘り直し。地の底の水を読める人間なしで高原に出るのは、僕なら断りますし——」
クラリスは、思わぬ援護に目を輝かせた。
「ルーク」
だが、ジルヴェスターの声が、刃物の冷たさで飛んだ。
ルークは両手を軽く上げて口を閉じたが、悪びれた様子はなかった。言うべきことは言った、という顔で、また首の後ろを掻いた。
長い沈黙が、続いた。
「帝国へ攻め込む場合に、ラーゲン高原を越える必要があるかどうかは決まっていない。聖騎士たちが帝国周辺の偵察をしていたならば、別の道があるということだろう。その道を通るほうが、よほど可能性は高い」
「しかし、陛下。ラーゲン高原を通るということも、可能性としては捨てきれません。戦に行く限り最も良い手立てを使うべきかと。」
ハーゲンは、ジルヴェスターの顔色を見つつも、慎重に口を開いた。
ジルヴェスターは、手で目元を覆い、天井を仰いだ。
喉の奥から、長い息が漏れた。指の隙間から見える眉が、ずっと寄ったままだった。
「……わかった」
絞り出すような声だった。
「すまないが——そうしよう。協議には、同席してくれ」
「ジル……」
「ただし」
彼は手を下ろした。
「万が一にでも、高原に連れて行く気は、ない。それだけは、いまここで、はっきり言っておく。……協議で誰が何を言おうと、だ」
その言い方に、クラリスは小さく頷いた。
頷きながら、胸の中の喜びを抑えきれなかった。ジルヴェスターに能力を求めてもらえた。……それに、最古の魔法、聖女の魔法とはどのようなものなのか。口元が緩むのを、あわててハンカチで隠した。
支度の七日間は、あっという間だった。
クラリスの部屋は、荷物の山になった。
問題は、着替えだった。野営が続くから最低でも二着は替えが要る。けれど季節は冬に向かっていて、厚手の服はとにかく嵩張る。旅装一式を寝台に並べてみて、クラリスは腰に手を当てた。外套、毛織の上下、替えの肌着、寝るときの毛皮——これで馬の鞍袋の半分が埋まってしまう。
「重ね着で調整するしか、ないわね……」
毛織の上着を持ち上げ、畳み、袋に当ててみて、また出す。薄手を重ねる前提で選び直し、それでも譲れないものだけ残す。帳面と、羽根ペンと、焼印の写し。対の石は——今回は二人一緒だから要らないのに、気づけば荷のいちばん内側に入れていた。
それから、机に向かって、暖房の式に手を入れた。
村々に配ったあの式を、旅向きに、軽く、小さく。天幕ひとつを一晩温めて、石一つで三日保つように。マナの巡りを二重にして、消し忘れの安全弁も付けた。改良に改良を重ねて、板は手のひらに載る大きさまで縮んだ。
「……我ながら、いい出来だわ」
完成した板を燭台の明かりに掲げて眺めていると、荷造りを手伝っていたリタが、手を止めてじっとこちらを見ていた。
「なに?」
「いえ。……砦の前も、そうやって板を彫っておられたなと、思いまして」
リタは目を伏せ、畳んだ肌着を鞍袋に詰めながら、ぽつりと言った。
「あのときは、次の日にお発ちになって、それから戦になって。……リタは、お留守のあいだじゅう、生きた心地がしませんでした」
「リタ……」
「今回は、戦ではないと伺っております。伺っておりますが」
詰める手が、止まった。彼女は袋の口を握ったまま、顔を上げなかった。
「……奥様はいつも、危ない目に巻き込まれます。どうか、ご無事で。それだけです」
出立の朝は、よく晴れていた。
前庭に馬が並び、荷が積まれ、六騎の護衛が整列する。息が白い。表向きの触れは「西部復興の視察」——見送りの城の者たちも、半分はそう信じている。
ハーゲンとミラが、階段の上に並んで立っていた。
「城のことは、お任せを」
ハーゲンが胸に手を当て、その隣でミラが深く一礼する。
リタは、最後まで泣いていた。
泣きながら、クラリスの外套の留め具を直し、襟元を整え、もう一度留め具を直した。直すところがなくなると、ただ外套の裾を握った。
「リタ。半月で戻るわ」
「存じております」
「森を抜けるだけよ。戦じゃないの」
「存じておりますったら」
しゃくり上げながら、リタはようやく裾を離した。それから袖で乱暴に目元を拭い、精一杯の仏頂面を作った。
「……お髪、毎朝ちゃんと梳かしてくださいませ。ミラさんがいないのですから、ご自分で」
「はい」
「約束ですよ」
馬上の人となって門をくぐるとき、クラリスは一度だけ振り返った。
階段の上のリタが、両手を口に当てて、それでも大きく手を振っていた。
西の空は、高く、青く澄んでいた。
あの空の下に、麦の村々があり、砦があり、霧の森があり——その向こうに、まだ誰も見たことのない、白い国…そして最古の魔法がある。
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