始まり
焼印に隠された魔術の写しを睨みはじめて、何日くらい経っただろう。
帳面の上の読めない文字列が、目の奥でちかちかしはじめた。同じ節を三度なぞっていることに気づいて、クラリスは羽根ペンを置き、指の付け根を揉んだ。インクの染みた指先で瞼を押さえかけて、慌ててやめる。
——少し、外の空気を。
中庭に出ると、風が思ったより冷たかった。
思わず肩をすくめ、袖の上から二の腕をこすった。ほんの数日前まで、日向は暑いくらいだったのに。空の色が高くなって、風に乾いた匂いが混じっている。シェルナには、こんな寒さはなかった。あの国の冬は、雨の匂いがするだけだった。ここの冬は、刺してくる。
——今年も、もう冬が来るのか。
そう思ったとき、視界の端を、見慣れた黄金色が横切った。
ジルヴェスターだった。回廊の向こうを、鍛錬場のほうへ歩いていく。
黒いチュニックの上に騎士服を重ねた、飾りのない装いをしている。歩きながら籠手の留め具を口で咥えて締め、袖を肘まで折り返していた。なのに、それだけの仕草が人目を引く。背筋の線、肩の据わり、歩幅の迷いのなさ。玉座の上の正装より、こういう実用の黒のほうが、あの人の凄みは剥き出しになる——と思ってから、自分は何を朝から考えているのだと、一人で頬を熱くした。
気づけば、追いかけていた。
鍛錬場は、音で満ちていた。
木剣のぶつかる音。踏み込みの掛け声。教官役の騎士の怒号。新しく建った宿舎の方からは槌の音まで重なっている。
その真ん中で、ジルヴェスターはもう剣を構えていた。
相手は——ディートリヒだった。
いつもの黒ずくめの上着は柵に掛けられ、シャツ一枚になっている。結んだ黒髪が跳ねるたび、顎の先から汗が散った。普段の氷のような無表情はそのままに、目だけが違う。獲物を測る目だ。あの宰相が剣も使えるのか、と驚いて見ていると、周りの騎士たちが手を止めて遠巻きに輪を作っているのに気づいた。見物だ。
打ち込むのは、ほとんどディートリヒだった。
鋭い。素人目にも、癖のない綺麗な剣筋だとわかる。それを、ジルヴェスターは半歩の動きだけで受け、流し、いなしていく。彼も息は上がっている。チュニックの胸が大きく上下している。それなのに、口の端だけは、わずかに上がっていた。
「——まだ細いな、三の太刀が」
「っ、承知して、おります!」
言葉の途中で、ディートリヒの目がすっと細くなり、低く沈んだ。突き。速い。
次の瞬間、乾いた高い音がして、ディートリヒの木剣が宙を舞った。
くるくると回って、砂の上に落ちる。ジルヴェスターの剣先は、もう相手の喉元で止まっていた。
輪から、おおっとどよめきが上がった。
ディートリヒは、喉元の剣先を見下ろし、それから一歩下がって、乱れた襟を几帳面に直した。汗だくのまま、襟だけは直すのがこの人らしかった。
「……参りました。さすがです、陛下」
「三の太刀までは、良かった」
ジルヴェスターは剣を引き、手の甲で額の汗を拭った。濡れた金の髪が額に張りつき、それすら絵になるのだから、まったく不公平な人だと思う。
彼は桶から柄杓で水をすくうと、半分を飲み、残りを首筋にざっとかけた。
クラリスは、柵に手を置いて見ていて、ふと、鍛錬場の隅の異様なものに目を留めた。
丸太だった。
丸太を何本も束ねて組み上げた、人の倍はある巨大な人形——のようなもの。太い胴に、腕に見立てた横木が突き出し、上のほうに赤い布が二箇所、巻きつけてある。周りの地面だけ、打ち込みで深く抉れていた。
「あれは……?」
近くにいた若い騎士に訊くと、クラリスがここにいたことにはっと驚き、だがすぐに背筋を伸ばし、少し誇らしげに答えた。
「大型の魔獣を想定した打ち込み台です、奥様。オーガ級の。……人と打ち合う癖のまま大物とやると、目線が下がって喉と腿を潰されるんです。だからああして、見上げて斬る形を体に入れます。赤い布が急所の高さで」
人の倍の高さの、急所。
こんなに大きい魔獣はよく出るのだろうか。ワイバーンを思い出すと背筋に寒いものを感じる。
同時に、こういうものが鍛錬場に常設される国に、自分は住んでいるのだ、と妙なところで実感する。
そのときだった。
鍛錬場の入口に、ハーゲンの姿が見えた。
彼は、すれ違う騎士には目もくれず、大股で鍛錬場を抜け、水桶の側でディートリヒと話すジルヴェスターの近くに行った。
そして、口元だけ寄せて、何かを短く言った。
懐から、白いものが、半分だけ覗いた。
封書の白を目にした彼は柄杓を桶に戻すと、顔の向きを変えないまま言った。
「ディートリヒ。着替えはいい、一緒に来てくれ」
「は」
歩き出してから、柵のところのクラリスに気づいて、彼は少しだけ目を開いた。
「見ていたのか」
「あ……はい。その、途中から」
「格好のいいところだけ見せられたなら、幸いだ」
冗談の口調ではあったが、声には少し緊張感があった。
クラリスは小走りに並んだ。
「なんですか?」
ジルヴェスターは一瞬躊躇ったが、何でもないというふうに、ハーゲンから受け取った白い封書を、指先でひらりと振ってみせた。
「聖国からの、密書だ」
執務室までの回廊は、日が高いのに、ひやりとしていた。
四人の足音だけが石の廊下に響く。ジルヴェスターとディートリヒの汗の匂いに、秋の冷えた空気が混じった。
途中、すれ違う侍女たちが立ち止まって頭を下げる。ジルヴェスターはいつもの顔で頷き返したが、歩幅は普段より広かった。クラリスは半歩遅れて、小走りにならないぎりぎりでついていった。
執務室の扉の前には、側仕えのオズヴァルドが、音もなく控えていた。
一行の顔ぶれと足の速さを見て、彼は何も訊かずに扉を開け、主を通すと、すっと歩み寄った。
ジルヴェスターは歩みを緩めないまま、剣帯の留め具を片手で外した。鞘ごと抜き取った剣を、机の脇の剣架へ掛ける。
それから籠手を片方ずつ引き抜き、汗を吸った鍛錬用の上衣を脱ぎ、差し出された布を受け取り、首筋をひと拭きして返す。
そして、濡れた金の髪を無造作にかき上げると、額があらわになって、いつもより少し野性の残る顔になった。
オズヴァルドは受け取ったものを手早くまとめ、一礼して出て行った。扉が、静かに閉まる。
それからハーゲンは開いていた窓をひとつ、静かに閉めた。
ジルヴェスターは机の前に立ち、ペーパーナイフで封蝋を割った。
書面に、目を走らせる。読み進むあいだ、彼の表情は動かなかった。読み終えると、無言のまま、書面をハーゲンに差し出した。
ハーゲンは両手で受け取り、目を落とした。読むほどに、眉間の皺が深くなっていく。
読み終えると、彼は書面を伏せ、声を落とした。ほとんど囁きに近い声だった。
「……帝国との戦の戦略の協議を、聖国にて執り行う。ついては——来い、と。そういうことですか、これは」
「そう読めるな」
「呼び出しですか。王を」
ディートリヒの声も低かったが、その分、尖りは隠れなかった。まだ汗の残る首筋に、上着だけ羽織った格好で、彼は腕を組んだ。
ハーゲンは書面をもう一度めくり、それから、信じがたいというように、ゆっくり首を振った。
「いや……それよりも」
彼は顔を上げた。声はさらに低くなった。
「まさか、あの聖国が、国に人を入れるとは」
部屋が、静かになった。
魔人との戦い後、聖女が帰ったと言われ、その後、八百年ほぼ閉じてきた国だ。使者は受けても、客は入れない。あの返書ですら、こちらの使者を国境で待たせて渡してきたと聞く。その国が、来い、と言っている。
「協議は秘密裡に、とあります。随行の数の指定まで。……本気ですな、これは」
「場所が聖国、ということは」
ジルヴェスターは、壁の地図の前に立った。軽く袖をまくり、指を王都に置く。指が、西へ滑っていく。
「北西の砦を抜け、そのあと古の森を抜けることになる。あの森は、聖域と呼ばれるだけあり、魔獣の出没は聞いていない。おそらくそこまで危険な旅にはならないだろう」
クラリスは、思わず一歩、地図に寄った。
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