焼印
数日後、クラリスは城の裏手へ向かった。
ルークに教えられた、魔獣の集められている場所——地下の保管庫が一杯になり、鍛錬場の外れに新しく建てられた保管小屋へ、死骸は移されたのだという。
道すがら、鍛錬場の脇を通った。
木剣の音に混じって、槌の音がしていた。見ると、鍛錬場の向こうに、真新しい建物が棟を並べはじめている。兵たちの宿舎だった。前は丸太と幕の仮設だったところに、石の土台を据えた、ちゃんとした建物が立ち上がりつつある。
「増えるんです、兵が」
隣を歩くニクラスが、視線の先に気づいて、少し満足げに話し出す。
「この秋から、募兵を増やすと。各地の砦にも人を入れますし、城の守りも厚くします。それに以前は仮設でしたが、そのままでは冬を越せませんから、宿舎から先に立て直しています。」
戦というのはお金がかかるのねと思いながらニクラスを見る。
「ニクラスは、詳しいんですね」
「僕も先週まで、あそこの普請を手伝わされてました。騎士見習いは何でも屋なので」
そう言って笑う横顔を見て、クラリスは、おや、と思った。
目の高さが、違う。
出会った頃は、確か自分と同じくらいだった。それがいつのまにか、見上げる位置に顎がある。肩幅もついた。剣だこの浮いた手も、少年のものではなくなりかけている。
大きなアーモンド型の目だけが変わらずに人懐こくて、その取り合わせが、なんというか——数年後には、そこらの令嬢が騒ぎそうな顔立ちになりつつあった。
「……なんですか?」
「いえ。……大きくなったなあ、と思って」
すると、ニクラスは心外だという風に顔を顰める。
「や、やめてくださいよ、リタさんみたいなこというの」
クラリスは、少年はこんなにも早く成長するものかと感心し、自分ももう少し筋肉と体力がつけばいいのにと小さくため息をついた。
保管小屋は、鍛錬場のいちばん外れ、風下に建っていた。
石積みの、屋根の低い窓のない平屋だった。分厚い扉の前に立っただけで、隙間から染み出す臭いが、もうわかった。獣と、血と、それが古びた臭い。
ニクラスが前に出て重い木の扉を引き開けると、道を譲る。クラリスは慎重に中に入ると、中はひんやりと暗かったが異様な臭いが立ち込めて思わず袖で鼻を抑える。
土間に氷室のような冷気が溜めてあり、壁沿いの棚に、折り畳まれた獣の皮が何段にも積まれている。梁から吊るされているのは、大型の獣の頭。奥の台には、腑分けされた部位が桶ごと並んでいた。天井の小さな明かり取りから落ちる光の筋の中を、埃がゆっくり舞っている。
その真ん中に、いつもの長いローブを着たルークがひょろりと立っていた。
「お待ちしておりました」
彼は、芝居がかった一礼をしてみせた。
「ようこそ、城でいちばん臭い場所へ」
「……本当に、すごい数ですね」
「討伐隊の成果です。ここにあるだけで四十体ぶん。それから」
ルークは長い腕を伸ばし、手近な棚から皮を一枚、無造作に引き出して広げた。灰色の剛毛の、肩のあたり。そこに、あの焼印があった。
「全部に、焼印があります。一体残らず」
指が、焼印をなぞる。
「で、ご覧のとおり——普通の焼印です。数字の列。僕もあれから何度も見ましたが、前と変わらず、これを魔法式とは言えません。マナの通る構造をしていない。ただの、焼いた痕です」
クラリスは、そっと顔を寄せた。
見覚えのある、あの記号の列。神殿の書体に似た、几帳面な刻み。何度見ても、それは式ではなく、番号だった。
思わずもっと近づこうとして——臭いが、鼻の奥を突いた。
「うっ……」
胃から何か込み上げるのが分かり反射的に後ろを向くと、元々半眼のルークの目がさらに半眼になった。
「……失礼しました。時々こうやって、お姫様だということを見せつけてこられますよね、奥様は」
「み、見せつけてなんて、いません」
「はいはい」
ぼやきながら、ルークは軽く手を上げた詠唱もない。板もない。指先がわずかに動いただけだった。
次の瞬間、小屋の空気が、すっと変わった。
臭いが、消えた。冷気の質も変わった。棚の皮から、吊るされた頭から、桶の中身まで——小屋の中の死骸という死骸に、薄い膜のようなマナの気配が一斉にかかったのが、肌でわかった。保存の魔法と、消臭の魔法。この広さ全部に、一度に、一瞬で。
クラリスは、思わずルークを見た。
自分なら、この範囲に保存の式をかけるのに、板を何枚刻んで、何刻かかるだろう。それを、手ぶらで、瞬きの間に。
——ずるい。
嫉妬とも感嘆ともつかないものを飲み込んで、クラリスは皮に目を戻した。
戻して——固まった。
「……え?」
一瞬。ほんの一瞬だった。
焼印のあたりが、赤黒く、光った気がした。
蝋燭の残り火のような、鈍い赤黒さ。それが数字の周りにぼうっと滲んで、消えた。
「今……光りませんでしたか?」
「は?」
ルークが眉を寄せた。
「光る? どこがです」
「焼印の、まわりです。赤黒く、一瞬だけ……ルークが魔法をかけた、ちょうどそのときに」
ルークは皮を覗き込み、それから、自分の手のひらを見た。
「……僕は何も見ていませんが」
彼は、しばらく考えていた。切れ長の眠たげな目が、少し開かれ、青みがかった灰色の目がきらりと光った。
「保存の魔法は、対象にマナを浸透させます。つまりさっき、この皮にはマナが通った。……そのときに光ったのだとすると」
顔を上げた。
「マナを流すと、反応するのかもしれませんね。——少し下がっていてください。今度は、わざと流します。多めに」
ルークは焼印の上に手をかざした。
マナが、流れ込むのがわかった。さっきの膜のような薄さではない。彼の底なしの魔力から、太い水路を開けたような流れが、焼印の一点に注がれていく。
一拍。
二拍。
焼印が——燃え上がった。
炎ではなかった。光だった。数字の列が赤黒く輝き、そしてその周りに、今まで何もなかった皮の上に、細かい線が浮かび上がっていく。編み目のように。蔦が這うように。数字を取り囲んで、幾重にも。
式だった。
「…………」
誰も、声を出さなかった。
クラリスは、臭いも忘れ吸い寄せられるように顔を近づけた。
浮かび上がった線は、文字だった。古代語だ。それも——見覚えのある書きぶり。几帳面で、装飾のない、あの神殿の書体と同じ癖。表の数字と、同じ手が書いたものだ。
文字は、読める。一つ一つの字は、確かに古代語だが並びがすぐには読めない。文法が、知っているどの組み方とも違う。節の切れ目がない。方向の指定が、人間の式なら絶対に置く場所に、ない。まるで——同じ文字を使う、まったく別の言語。
「奥様」
ルークの声も、低くなっていた。
「これ、式ですよね」
「式、だと思います。構造はあります。起点があって、流れがあって……ほら、ここ。この結び方、循環になっています。普通の式は循環を組みません。マナが戻ると暴走しますから。なのにこれは、わざと戻しています」
「戻して、回し続ける……ああ、なるほど。常時起動か」
ルークが、指の位置を変えた。光が、彼のマナに応えて、脈打つように明滅する。
「刻んで、忘れて、それでも動き続ける式。すごいな、これ。僕らの式は使うたびに流すのに、これは一度繋いだら回りっぱなしだ。……で、この外側の太い線が、たぶん外から来る」
「外から?」
「この式、閉じてないんですよ。ここ。端がわざと開けてある。外の何かと、繋がる口です」
「……つまり、外から命令を受け取る口、ですか」
「でしょうね。番号が宛先で、こっちが受け口。————ああ、なるほどねえ」
ルークは、感心とも呆れともつかない声を出した。
「面白いねえ、これは」
「面白いです、ね……」
二人して、皮に顔を突きつけるようにして、浮かんだ線を端から追った。ここが起点。ここで回して。ここで受けて。読めない文法を、構造だけで推理していく。ルークがマナの量を変えると光の強さが変わり、そのたびに二人で唸った。
「きっと、これが……操る式、なんですね。これで、獣を」
「でしょうね。会議の聖騎士サマは、正しかったわけだ。……奥様、帳面」
「書いています」
クラリスはとっくに帳面を開いて、浮かんだ式を必死に写し取っていた。ルークがマナを注ぎ続け、光を保たせる。写す手が追いつかない。こんなに写すのが楽しくて、恐ろしい式は初めてだった。
「————あの」
背後から、掠れた声がした。
振り返ると、ニクラスが、扉の近くで棒立ちになっていた。
顔から、血の気が引いていた。
ニクラスの目は、赤黒く明滅する式に釘付けになっていた。
「帝国か…魔人が魔獣を使役する魔法が見つかったってことですか?」
クラリスは、帳面を持つ手を、ゆっくり下ろした。
自分の心臓が、面白さで速くなっていたことに初めて気づいた。
式の面白さに夢中になり、魔人の魔術の痕跡を見つけたという重大事項を忘れかけていた。クラリスは、反応の仕方が期待されたものでなかったかもしれないという考えに至り恥ずかしくなる。
この魔術で犠牲になった騎士は多くいたはずだ。
「……そうですね。ニクラス。」
「技師というのは、そういう生き物なんです」
ルークだけは、悪びれもせずに言った。
「怖いものほど、仕組みが知りたい。仕組みがわかれば——壊し方も、わかりますから」
赤黒い光は、ルークが手を離すと、すうっと薄れて、消えた。
あとには、ただの数字の列だけが残った。何も知らない顔で、几帳面に並んでいた。




