高原2
扉が開いて、ジルヴェスターが入ってきた。
朝シャワーを浴び髪を少し切ったのかさっぱりしていて、少し濡れている髪がいつも以上に光を映していた。
彼は部屋を見渡し、それから、地図を覗き込んでいるクラリスのところで、一瞬だけ視線を止めた。
灰色の瞳に、熱と、ためらいが、同時に映った。
彼は諦めたように、小さくため息をついた。
そして何も言わずに、いつもの長椅子へ向かいながら、すれ違いざまにクラリスの腕を引いた。そのまま、自分の隣に座らせる。当然のような手つきだった。
「始めよう」
「はっ」
ハーゲンが、地図を机の中央に広げ直し、四隅に文鎮を置いた。
「捕虜の中からリーダー核と思える数人の証言をもとに、帝国軍が通ってきた道筋を落としました」
彼の指が、高原を斜めに横切る点の列をなぞる。
「赤が、複数の証言が一致した水場。青は、証言にずれがあって、確約できないもの。……兵によって数え方が違いましてな。夜通し歩かされた区間もあったようで、記憶が飛んでいる者もおります」
赤と青の点は、それでも、途切れずに一本の筋を作っていた。
「いずれにせよ、二日おきには必ず水場に着くよう作られております。人と馬が、水袋の水だけで保つのが二日。……よく計算された間隔です」
ジルヴェスターは、腕を組んで、地図を見下ろした。
しばらく、誰も口を挟まなかった。
「……つまり、この列が生きている限り、帝国はいつでもまた渡って来られる、というわけか」
「仰るとおりかと」
「まあ、もう無謀な楽観視はしたくないが、すぐには来ないだろう。二千を丸ごと失った直後だ。いくら帝国といってもそれなりの損失だったはずだ」
彼は、指で地図のいちばん手前——高原の南の縁に近い赤い点を、とんと叩いた。
「まず、この水場がどんなものか、実物を確かめたい。井戸の深さ、水槽の大きさ、残っている水の量。それから設備や備蓄の状況。……見に行けるか」
「近いものでしたら、騎馬で往復半月もあれば」
ハーゲンは即答して、部屋の扉を開け、扉の前にいた騎士に声をかけ指示をする。騎士たちはそれを聞くとすぐにどこかに行ってしまった。
その足音が遠ざかるのを待って、黒髪に今日は上から下まで黒色のカジュアルな服をきたディートリヒが、少し身を乗り出し口を開いた。
「陛下。……ご報告が。帝国へ送った使者は、門前払いでした」
部屋の空気が、わずかに硬くなった。
「国境の関で、書状の受け取りすら拒まれたと。取り次ぎもなし、返答もなし。……使者は無事に戻りましたが、帝国側は、こちらと言葉を交わす気が一切ないものと見えます」
「……だろうな」
ジルヴェスターは驚いた様子も無く、目頭を軽く抑えた。
ディートリヒは、一拍おいて、続けた。
「それで、いかがなさいますか。……帝国との、本格的な戦の準備をしますか。」
クラリスは、思わずジルヴェスターの横顔を見た。
彼は、地図から目を上げなかった。
「こちらから攻めることはしない。」
静かな、しかし迷いのない声だった。
「ただし、綿密な調査は進めたい。帝国の軍力、ラーゲン高原の状況、魔獣の使役状況….リアンツァ側と連絡を取り進めてくれ。」
「御意」
「それから守りを固める。それが先だ。——西の要塞の強化は急がせてくれ。壁の修繕だけでなく、貯めの水と兵糧も倍に」
「は。すでに着手しております」
ハーゲンが引き取った。
「それと、二つ目の砦も、すでに縄張りを始めております。西の砦から半日の丘に。……あの一帯に、受けの構えを二重にいたします」
ジルヴェスターは軽くうなずき、ルークに発言を求めて顎を上げる。
ルークはだらしなく椅子に座っていたが、少しだけただずまいを直し、気だるげに口を開く。
「防護の結界なら、西の砦にはもう張ってあります。先だっての戦のあと、修繕のついでに。……矢と、火と、あとまあ、多少の衝撃までは石が受けます。二つ目の砦にも、壁が立ち次第、同じものを」
ジルヴェスターは満足げにうなずいた。
クラリスは、こっそりと顔をあげ、周りの騎士を見渡した。多くの騎士が何もせずに帝国から再度攻められるのを待つという屈辱に耐えられないのか、顔には苦渋が表れていた。
そんな中、ジルヴェスターは慎重に騎士たちの様子を観察して口を開く。
「…嫌でも、そのうち聖国から連絡が入るだろう」
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