高原
ルークの、あの含みのある態度の意味は、その夜のうちに明らかになった。
湯を使い、寝支度を終えたころ、ジルヴェスターが部屋に入ってきた。
「まだ起きていたか」
少しぎくっとしたような、起きてたことを少し残念がっているように見え、クラリスは訝しげに見る。
上着を脱ぐでもなく、寝台に来るでもなく、テーブルの前で立ち止まっている。何か言いかけて、やめる。もう一度口を開いて、閉じる。この人が言い淀むところを、クラリスはほとんど見たことがなかった。
「……どうか、しましたか」
ジルヴェスターは軽く咳払いをすると、テーブルの上のワインを銀杯に手酌で注ぎ、ひとくち飲んだ。
それから、言った。
「軍議への参加を——もう、やめにしないか」
クラリスは、瞬きをした。
「……え?」
「これ以上、きみを戦に巻き込むつもりはない」
一度口に出してしまうと、あとは早かった。彼は杯を置いて、まっすぐにこちらを見た。
「西の砦のことは、感謝している。きみがいなければ、砦は落ちていた。それは事実だ。……だが、あの手や….木に叩きつけられたと聞いた。夜の包囲の外で、斥候に襲われたとも」
灰色の目が、暗かった。
「あの怪我が、忘れられない。報せを受けてから砦に着くまでの一日半、僕が何を考えていたか——。頼む、クラリス。僕は、きみを守りたいんだ」
懇願だった。命令ではなく、王としてでもなく、ただの夫の声だった。
だからこそ、クラリスの胸の奥で、何かがちりっと音を立てた。
「……どうして」
声が、思ったより硬く出た。
「どうして、突然、子供扱いするんですか」
「子供扱いでは——」
「軍議に出るなというのは、そういうことですよね」
今回の砦での活躍で、また少し近づけた気がしていた。他の騎士達も私を一員として受け入れ始めているのを感じ胸が熱くなった。
ただの趣味じゃなくて、誰かと一緒に、誰かのために、ジルヴェスターのために、何かすることの喜びを感じ始めていた。
それに、ジルヴェスターは危ないところに、一番危険なところに、たった一人で行くでないか。
そう思うと沸々と怒りに似た感情も湧いてくる。
ジルヴェスターが、何か言いかけた。
「……わたしも、あなたを守りたいのに」
呟きは小さすぎて、彼には届かなかったらしい。「え?」と問い返されて、クラリスは首を振り、かわりに顔を上げた。
「わたしの力は、わかっているでしょう? 式が組めます。誰も読めない字が読めます。——絶対に、役に立ちます」
一語ずつ、押し出すように言った。
「それに、軍議に出るだけです。剣を持って前に立つわけじゃありません」
一息に言ってから、少しだけ、しゅんとなった。
ジルヴェスターは、しばらく黙っていた。
それから、額を手で押さえて、天井を仰いだ。長い長い息が、その口から漏れた。
「……わかった」
「……いいんですか?」
「軍議に出るのは、いい」
彼は、降参したように両手を軽く上げた。
「きみの言うとおりだ。きみの目と頭を借りないのは、この国の損失だ」
クラリスの顔が、ぱっと明るくなった。
「ただし」
ジルヴェスターは、指を一本立てた。
「危ないことは、しない。それに、戦に行くことを許可したわけではない。……いいね」
「はい!」
いい返事だ、と小さくいったが、彼は疑わしそうに、そして苦悩を瞳に浮かべていた。
それからようやく上着を脱ぎ襟元を緩めた。
それからしばらくした日、定例の軍議が開かれた。
会議の間に入ると、大きな机の上に、帝国、リアンツァ、聖国、そしてアルダーンが書かれている大きな地図が広げられている。
ハーゲンが、立ったまま、その地図を見下ろしている。腕を組み、眉間に深い皺を刻んでいる。その隣には、珍しくルークもいた。いつもの眠たげな顔ではなく、真剣な目で、何かを考え込むように地図を見つめ、ハーゲンに何か囁いている。
クラリスも、後ろから背伸びをして覗き込んだ。
北の一帯——ラーゲン高原の描かれた区画に、赤い点が、いくつも打たれていた。
点は、一列ではなかった。高原を斜めに横切るように、点々と連なっている。枝分かれしている筋もある。
「……これは?」
「ああ、奥様」
ハーゲンが、顔をクラリスに向け、場所を譲る。
「捕虜たちの聞き取りが、まとまってきたところです。……これは、水場です」
「水場?」
「帝国が高原に作った、水の補給点です。深い井戸と、貯めの水槽。行軍はこの点を辿って参りました。一つの水場から次の水場まで、およそ二日。……この列に沿って歩けば、あの高原を、軍が渡れる…ということです。」
クラリスは、目を丸くして地図に目を戻した。
ラーゲン高原。書庫の地誌で読んだ限り、ひび割れた大地に丈の低い草がまばらに生えるだけの、井戸ひとつない土地のはずだ。
そこに、水場?
「そんな……あの土地に、水を引くことなんて、できるんですか」
「地の底には、あるそうです。水が」
答えたのは、ルークだった。地図から目を離さないまま。
「乾いた土地でも、ずっと深くには太古の水が眠っていることがある——古い地誌にはそうあります。ただし、深い。岩を割って、何十人分もの背丈を掘り下げて、ようやく届くかどうか」
「捕虜どもの話とも合います」
ハーゲンが、低く続けた。
「工兵の隊が、掘っては外し、掘っては外し——水の出ない穴を、数えきれないほど掘ったそうです。当たりの井戸ひとつの裏に、外れの穴が十も二十もある。それを、五年。……あるいは、もっとかけて進めていた、と。」
クラリスは、赤い点の列を、もう一度端から端まで目でなぞった。
点のひとつひとつの裏に、水の出なかった穴が十も二十も埋まっている。誰にも知られず、あの乾いた大地を、五年間掘り続けた者たちがいる。自分がこの国に来るより、ずっと前から。
先日の敵襲は、思いつきの侵攻ではく五年以上前から計画されていたことになる。
背中に、冷たいものが走った。
「……よほどの、執念です。陛下の北西の砦の強化の早い判断…それに奥様の魔法の奇跡が無ければアルダーン西部は落ちていたかもしれません。」
ハーゲンが、地図を見下ろしたまま言った。
部屋の中の誰も、しばらく口を開かなかった。
赤い点の列だけが、地図の上で、静かにこちらを見ていた。
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